私の本棚発掘

第12回

顧準著、陳敏之、丁東編『顧準日記』のうち『商城日記』

顧準著 陳敏之、丁東編『顧準日記』のうち『商城日記』

経済日報出版社 1997年9月(編者の陳敏之は顧準の実弟。丁東は民間の思想家、民間思想の研究家で、当コラムでは第10回の『懐念李愼之』の編者として登場済み)

顧準顧準

 中国で独創的、反骨的な思想家、経済学者、会計学者として知られる顧準(1915~1974)が注目されるようになったのは、1994年に貴州人民出版社から『顧準文集』が出版されてからのことで、中国の知識人の間ではその後しばらく「顧準ブーム」が続いた。

 顧準が高く評価される所以は、一つには経済理論家として、1950年代半ばにすでに社会主義下にも商品貨幣が存在することの必然性を系統的に論証するとともに、価値法則の作用を十分に発揮させることを主張し、社会主義の下での市場経済の基となる理論を打ち出したことである。文革以後の改革開放政策の中で社会主義市場経済の概念が定着するのに先立つこと30年あまり前である。こうした理論は、毛沢東独裁の下で資本主義のためにラッパを吹くもの、中国人民に再度苦しみを嘗めさせようとする大毒草と批判された。

 もう一つは思想家として、社会主義の下での民主と自由の問題に対して鋭く勇敢な発言を行っていることである。
 こうした顧準の業績に対し、近年の中国の代表的民主人士として尊敬されている李愼之が、「20世紀後半以後、中国ではもはや独創的、批判的な思想家は生まれなかったという人もいるが、全くそうとは言えない。我々には顧準がいる」と述べたことは、第10回の当コラムでも紹介した。

顧準が「三反運動」の際に免職処分を受けたことを報じた1952年3月2日付の『上海解放日報』の紙面顧準が「三反運動」の際に免職処分を受けたことを報じた1952年3月2日付の『上海解放日報』の紙面

 顧準が中国共産党から批判や懲罰を受けるということは解放前からあったが、真の受難が始まるのは中国共産党が国共内線に勝利し、新中国を建国して後のことである。
1957年、中国科学院資源綜合考察委員会副主任のポストにあった顧準は、同年7月、中ソ黒竜江流域合同調査に参加したが、開発地域の決定を巡り中国の利益を守る立場からソ連側と激しく対立し、やがて始まった反右派闘争の中で右派のレッテルを貼られた。当時はまだ中ソ一枚岩の時代で,顧準の言動は社会主義の国際的団結を損なう毒草とされた。また毛沢東に対する忌憚のない批判も問題とされた。
 顧準は翌58年4月には党籍も剥奪され,その後一時期を除き死に至るまで過酷ないわゆる「プロレタリア独裁」の迫害に苦しんだ。

 顧準は1955年から亡くなる直前の1974年10月までに合わせて六つの日記・総称して『顧準日記』を残している。それは『党校日記(1955年9月~56年7月)』、『1959年二三月間日記』、このコラムで取り上げる『商城日記(59年10月~60年1月)』、『1960年二三月間日記』、『新生日記(69年11月~71年9月』、『北京日記(72年10月~74年10月)』である。
 なおこのコラムの執筆に当たって、顧準の日記には断片的な記述が多く理解できない部分があったため、【高建国著『顧準全傳』上海文芸出版社】を参照して補った。文中( )内は主として筆者による補注である。日記に出てくる人名については煩瑣にわたるので一部を除き注記を加えなかった。

『顧準日記』の書影『顧準日記』の書影

 顧準は1958年8月、中国科学院の「反党右派分子」20名あまりとともに河北省石家莊専区賛皇県の農村に送られ、精神的、肉体的艱苦に苛まれる「労働改造」の日々を送ることになった。これにより顧準の研究、探求活動は停止に追い込まれた。
 顧準らはその後労働隊を組織し、賛皇県の農村から科学院のもう一つの労働基地に、更に59年3月には河南省信陽専区商城県へ送り込まれた。この時期は毛沢東が主導する盲進(急進)的な大躍進運動の真っ最中で、この運動は農村を中心に中国全土で数千万人の餓死者を出すという大惨劇を引き起こした。正確な餓死者の数は今に至るも画定されていない。顧準らが送り込まれたさして広くもない信陽専区では1959年の秋から飢饉が蔓延し、わずか4ヶ月ほどで100万人の餓死者を出したという。これが世に言う「信陽事件」で、大躍進運動の失敗を象徴する言葉ともなっている。
 59年6月、党信陽地区委員会の指示を受けた党商城県委員会は顧準ら科学院の右派のうち6人をこの世の地獄といわれる右派分子集中営(強制収容所)送りにした。集中営には100名余りの右派がおり、その中の90%は商城県の者で、10数名は河南省の省都・鄭州から送り込まれた人びとだった。

『商城日記』の冒頭部分『商城日記』の冒頭部分

 『商城日記』はそれから4ヶ月後の59年10月14日に始まる。「日記」はB5版の大きさのノートに鉛筆で蠅の頭のような小さな字で書かれており、時間の経過もあって読み取れない部分もあったという。「日記」は大きく顧準自身の重労働に悩む姿、(顧準ら右派を含め)農村でのすさまじい飢餓の情況、毛沢東の政治に対する批判などの内容を含んでいる。
 顧準は「日記」のほぼ終わりに近い60年1月16日に、商城にいた時期を以下の五つの時期に区分して記している。①頭脳を使わない2ヶ月(1959年6月12日~8月7日)、②恐怖と屈服(8月17日~9月10日)、③大躍進(9月10日~11月16日)、④反右傾(闘争)、増産節約と焼きいも(11月17日~12月3日)、⑤病気と浮腫、労働隊を去る(12月4日~12月27日)。
 以下顧準の時期区分に従い、日記の内容で筆者が特記すべきと考えた部分を紹介していく。

 先ず①頭脳を用いない2か月と②恐怖と屈服の時期については、一日ごとの日記が始まってないので、顧準が時期区分にあわせて記述した概略を紹介する。

①頭脳を使わない2か月

 6月12日、労働隊に着き、ここは強制収容所だと認識した。強制収容所では労働して飯を食べ、飯を食べ労働するよりほかなく、それにもう一つ付け加えれば自分を卑下し人にへつらうことがあった。これは本来(自分の性格上)そうなのだが、卑下しへつらうことはうまくやれなかった。人を相手にせず、自分勝手に労働し飯を食い、飯を食い労働する、だがこうした目的は決して達成できなかった。笑顔で相手を迎え、侮辱されても堪え忍ばなければならない、だが自分は高官を見下し、その上に労働隊を強制収容所と見なしながらも、「自分の妻」への恋々の情を断たれず、その上(科学院下放ティームのリーダー)李克征に訴えることまで考えた。訴えることはしなかったが、実際にはしたことになった、思想の総括報告の時、幾らか話をし、問題とされた。
 この時期の生活はどうにか暮らしていけるものだった。労働の密度は高くなかった。食事は食べきれないほどで、実際、農場に比べ過ごしやすかった。消費も清教徒の戒律のような制限を受けなかった。
 この時期の心理面での特徴は毎日がぼうーっと過ぎていくことだった。過去に頭脳を用いる仕事をし、身辺の家庭環境に気を配るといったことがあったのに比べると、日々は確かに単純に過ぎていった。このようなぼうーっとした生活は忌まわしかったが、そうするしかなかった。労働隊のほかの人たちに思いを聞けば、概ねそのようだった。

②恐怖と屈服の時期

 それからは恐怖と屈服の時期だった。8月15日、沈が私に厳しい批判を浴びせ、大字報を貼るぞと言った。自己批判を書き、自己批判後に、黙って怒りをこらえ、細心、慎重に行動し、誰に対してもひたすら頭を下げるなどといったことは、すべてこの時期のことだった。党商城県委は李裁判長と沈場長を通し、右派分子に対しできる限りの敵対闘争の政策を実施した。それは右派たちを分裂と孤立へ導き、強制労働と政治教育を結びつけることだった。そのため大々的に闘争大会を開き、大衆路線によって被闘争者(被批判者)を教育し、また闘争者(批判者)を教育し、それとともに闘争者と被闘争者の中から積極分子と中堅分子を物色するのだった。そこで恐怖を経て屈服に至る者もいたし、人によって方式は少し違っても、自覚して積極分子になる者もいた。だが総じて言えば、やはり恐怖から屈服に至ったことにほかならない。
 この時期は食料が欠乏した時期に当たっていた。果物や木の実がなくなった、菓子は(品物がなく)買えなくなり、買えても品不足だった。そこで酒を飲み、スイカやカボチャの種の煎ったのをかじっていた、「食事の話題」には特に関心があった。この時期はまだ物を盗んで食べることは会得しておらず、物を盗み食いすることだけは会得していた。

③大躍進

(この時期の途中10月14日から『商城日記』が始まっている。以下、日記の中から記事を拾って行く)

◇ ◇ ◇
顧準の筆跡顧準の筆跡

・10月14日 近頃、沈万山が野菜作りにとても積極的だ、村の西の旧トマト畑はみな彼に占有され、沈が自ら土地を耕している。これは沈が自分の家のためにやっていることだ。この土地は1ムーはあり、よく肥えており、一年に3回から4回は輪作でき、その収入は150~200元にも達しよう。労働隊が改組されれば、沈は手伝う人にこと欠かなくなる。(顧準は右派たちの労働(改造)隊で野菜畑組みにいた。沈万山という人物は党商城県委員会から派遣された労働隊の隊長で、唯一の共産党員。悪魔、悪鬼のような人物と評され、右派に対し生殺与奪の権を持っていた。顧準は沈から目の仇にされ、酷使虐待された。日記では沈を非難する記述が頻出する。)

・10月17日 昨夜、思想改造の文章を書いていた時、(妻の)秀からの手紙を受け取る、月並みな語句が使われている。私の心はよく知っていように、不安は免れない。商城に来てから初めて夜中にすすり泣いた。幸いに寝床は一人用で、誰にも知られなかった。(顧準の妻は汪璧、別名を采秀といった。汪璧とは少年少女時代から相思相愛で革命の同志でもあった。顧準は後に汪璧から離婚され、汪璧は68年に自殺した。)

・10月23日 手紙で秀と口論。15日、秀に金を無心した、秀は私の改造が進んでいないと心配していた。

・10月24日 水運び、糞運びが長くなった、左足大腿骨がこの2、3日間に損傷。それでも作業を堅持。左足が腫れた。午後、公共便所の便壺に下り大便をかき取る。仲間が私を(比較的楽な)白菜の収穫と畑の鋤返しの仕事に廻してくれた。沈の家の畑地だ。(沈が勝手に右派を自分の畑で作業させている実態が記されている。沈は野菜畑の肥料にするための人糞集めを顧準に課していた、人糞の量が足りないと懲罰を受けた。顧準は全身糞尿まみれで、衣服はぼろぼろになっていた。)
昨夜、秀に返事を書いた、「生活にはもとよりいろいろなやり方がある、全て君が決定すればよい」と書く。大腿骨の具合がひどくなった。金がなく、病院には行かない、秀に対する文句がますます多くなった。

・10月27日 しばらく豆汁を飲んでいた、二十日間ほど。今晩、労働隊の整列の時に商城城内の役所で「右派がまだ豆汁を飲んでいる、改造には似合わない」という意見が出たという話があった。明日の夜からはやめになる。

・10月28日 沈は、労働隊では独裁者で皇帝だ、瓜を植えた者が勝手に瓜を食えば泥棒だ、だが彼は瓜畑に行き勝手に瓜を取って食える。彼の妻や子は食堂の食品を勝手に手に入れる。彼の野菜作りといったことは、明らかに公的立場を利用した役得だ。彼は整列の際、毎回必ず「お前たちは全く見苦しい」と言う。働きが悪い、飯の食いすぎだ、飯を食うときの様子ときたら見ていられないなどなど。彼は特に人がおごり高ぶり、彼を軽蔑するのに反対する(沈が顧準に辛く当たった理由だろう)。彼は、全く見苦しいと言ったあとでよく「お前らは自分たちが罪人であることを忘れている」と付け加えた。
 昨日午前中、病院で足の具合を見てもらった。秀が30元送って来た。もう菓子などは買わないことに決めた、20元貯めることにする。秀に手紙を書き、自分は情勢に疎く、恨み言が多すぎると書いた。彼女に労働、思想報告の筆記、節約計画などについて話した。
 一昨日の労働は半日だけだった。昨日は半日、野菜の苗を抜いただけで足や踝の状態は著しく好転した。これは別にどうということでもない、休めばよくなるのだ。
 右翼日和見主義は外部から、上部から来たもので、それだけに問題は特に大きい。下部からみれば反右傾の意気込みは盛んで、威勢は素晴らしいが、その実は見かけ倒しだ。
 農村はこんなにも緊迫した情況だ。(付近のダム工事には数千名の)民工(国の土木工事などに臨時に働きにかり出された人びと、農民が多い)が動員されていたが、家に戻っても米を持ち帰れず、一度の食事だけで働きに出る始末で、(労働隊の)野菜畑から大根を盗む原因となっている。(この頃から民工の餓えや農村の飢餓に関する記述が出始める。)

・11月4日 農民は各家で幾らかの米を隠し持っていたが、みな探し出され持って行かれた。問題の重要性は明春からではなく、この冬に始まっている。(地方の指導者は大躍進運動の中で虚偽の増産報告をし、それに見合う量の穀物を供出するため農民が隠していた穀物まで全て奪うことになった。飢餓蔓延の一原因。)地区の党委書記の徐はひどく苦しんでいる。自分の家ではすでに食料がなく、家庭は巻き添えになり、農民は生活に苦しんでいる。徐は農村で生まれ育ち、農民の利益を図らなければならないのに、このような始末で、政治的にどうしてもひどく苦悶することになる。徐書記は停職、反省処分になった。
 野菜を買いに来た民工が、村のさつま芋はすでに食い尽くされたと言った、ほんとのことに違いない。
 劉引芝の父親が死んだ、過度の労働、栄養不足による浮腫のせいだ。裁縫室の張の嫂もほとんど同時に死んだ、やはり浮腫。1959年は干害、1960年の春、夏にはいったいどれだけの人が死ぬのだろうか?その前に避難所があればよい、公のでも、私的なものでも、二つともあればよい。しかしそれには政策の転換が前提だ、でなければこうした強制収容所を拡大しなければならない。

・11月7日 沈がお前たち中央から来た者はみなとても幼稚だと言った、まったくこれほど適切な言葉はない。

・11月10日 (労働隊では闘争大会、思想の暴露大会などがしばしば開かれていた。)私は基本的に屈辱を受けても自若としている術(中国語では「唾面自乾」と書き、顔につばを吐きかけられても拭くことすらせず自然に乾くのを待つという意味)、笑顔で人に相対する術を会得した、段々慣れて自然にやれるようになった。これは私の気質の変化だ。

・11月13日 さつま芋掘りを四日間、今日で終わり。さつま芋のできは、去年賛皇で見たのと比べ大いに遜色がある。砂地であることが原因の一つだが、基本的な原因は干害である。気温の低下が芋の生長時間の短縮をもたらした、霜が降る寒冷の時期の訪れがあまりにも早かった。水分が多くデンプンが少ない、とてももろくて弱く、すぐに割れる、果物のようだ、芋のようではない。
 通りすがりの民工が、しきりに羨ましがる。みな畑に来ては野菜屑を拾い、追い払っても行かない。(民工たちの餓えはひどく、それに比べ労働隊は天国だという記述が前にあった。)
 
 この大躍進の時期について顧準の時期区分の概略の中から若干補充する。
 この時期、右派のレッテルをはがすといったことが言われ、その刺激は、恐怖から屈服に至った者にとっては大躍進に呼応するのが当たり前という効果を産んだ。……私はと言えば、レッテルをはがすというこの政治的揺さぶりに出くわし、気持ちが奮い立ち、労働に積極的になり、病をおして働き、思想が活気づき、批判と自己批判を繰り広げ、一言でいえば(思想、態度などが)よくなった。よくなったとは言っても、その実はよくはなっていなかった、でもよい部分が少しもないかといえばそうとは限らない。それは一種の二重生活で、態度が常に変わるのだ、「お利口になった」ということだ。偶然にもこの時期は食物が豊富になった。中秋節と国慶節の前後で、大いに食べられた。一日十四五時間働いたが、豊富な食べ物がなかったら、とっくに浮腫になっていた。労働隊の初期の大躍進は、一般的には、比較的豊富な食物があってがんばれたのだ。そうでなければ沈万山が言ったように、(大躍進に呼応する)決心書や大字報だけでは効力は三日も保たなかったろう。

④反右傾、増産節約と焼き芋

・11月19日 柳が畑を鋤いていたら人民公社の子どもが後について芋のかけらを拾っていた、ほんのわずかしか手に入れられなかったが、いつまでも喜んでいた。凶作の年の現象だ。躍進を続け、右傾に反対するのは、凶作の年の現象を見えないようにするのに必要だ、確かに大変苦心するところだ。
 指導者の水準が極めて低く、反右傾の学習をしっかりやれていない。そこで、最近学習の重点を河南日報の11月3日の社説「食料を節約する習慣を大いに発揮しよう」にすると確定した。その実、その陰には恐ろしい事実が隠されている。劉が言うには、民工隊の中には昼飯が一人菜っ葉一切れ、さつま芋の切れ端だけの所もあるという。彼らが芋畑で芋を拾うのを禁じることなどどうしてできよう。食料の支給基準は相変わらず考えられないほど少ない。それを切りつめるなんて。強制労働、慢性の飢餓と死亡、これらは大躍進にとって不可欠のことで、人口問題の新しい解決方法でもある。

・11月20日 昨日は雨で、もともと作業は計画されておらず、飯は2回。2回ともさつま芋の葉がおかず。河南、山東、河北にいたときは喉に通らなかったが、今回は完食した。……飢餓とは恐ろしいものだ。

・11月21日 1958年春に出現した情況は、毛(澤東)を怖れさせ、彼はReturn to 1957(大躍進運動発動前の1957年に戻ろう)と企図した。だがそのやり方では、必ず大躍進、総路線そして人民公社を否定することになる。双方を両立させることは、袋小路に入ることだ。それでStalinism(スターリン主義)の道を最後まで進むことにした。Stalinismは中国では生命力がある。

・11月22日午前3時半 21日は初めて三食ともさつま芋の葉。毎食一碗。夜は菜っ葉のお粥に、大きな碗にさつま芋の葉。翌朝下痢。

・11月23日 精神的な試練が今真剣に始まった。午後、野菜を植える前に下肥をかけていて、生活が汚泥のようであることに思いが及んだ。今日はこの人、明日はあの人と代わる代わるやって来ては取り調べを受ける、自分を卑下して人にへつらい、笑顔で人に応対することには精神的にもう極限に達しており、苦しみと嫌悪の感が堪えられないほどになった!でもどうすればいいのか?科学院の指導者に顔向けができるようにしなければ、それに妻にも顔向けができるようにしなければ!

・11月27日 今日、党県委の庫部長が来て、県直営の養豚場を建設する決定をした、千頭養豚場だと言う。5万頭まで増やすという。飼料はどうするのか?(『顧準全傳』によると、この計画は共産主義への過渡期の成果を急速に実現するためだとされた。顧準らは、建設地は小ダムを作った跡地の河原の空き地になると思ったが、多くの食料を生産する良田をつぶすというのだった。沈万山は顧準ら何人かの労働改造分子に水田をつぶし、壮大な養豚場を作るよう命じた。社会主義発展の偉大な成果を各界の要人の参観に供するのだという。顧準は野や路傍の至る所に餓死者が見られるときに何たることかと憤慨していたという。)
 今年の作物の収穫に当たって、隠匿し山分けするといった現象は当たり前のことで、そうした穀物を探し出し、食料の供給を停止するといった例も少なくない。しかし隠匿し山分けした量は絶対的に少なく、中秋以後食の問題はもう緊迫した状態だった。穀物を徴発し、来年供給するといっても、慢性的飢餓は今年よりももっとひどくなるに決まっている。
 死人=柳学冠の弟、楊文華の娘、劉方恵の父親、そのほかにも多くの人が死んだと聞いた。
 多くの野菜畑はもともと個人に分け与えられていたが、今では野菜が主要な食べ物になってしまい、全て没収され共有の食べ物になった。

・11月30日 死人の続報。柳学冠の家で母親と弟が同時に死んだ。楊柔遠の母親が死んだ、夏伯卿の家で人が死んだ。張保修の家で人が死んだ。
 国慶節が過ぎ、年の暮れが近い。冬と春に飢餓をどう切り抜けるかを当然打ち出すべきだ。湖北、河南の飢餓についてはすでに報道が始まった。

⑤病気、浮腫、労働隊を去る

・12月4日 あらゆる人間の中で、人間性が最も少なく、階級性の最も多いのが沈だ。……この数日野菜畑では何度となく技術改革の話をしたが、何祥福によると、沈がどれにも賛成することはあり得なかった。なぜなら労働改造というのは肩で土を運ぶなど肉体労働をすることだからだ。……彼にかかっては、思想改造は永遠に成果がないということだ。これは階級性ではなく、獣生(残忍性)だ。

・12月5日 浮腫になった者44人、肺病4人。浮腫が続々発生している。

・12月6日 私も盗みをした。盗みは至って普通のことになっている。養豚場建設の人は畑のニンジンを抜いて食べる、私が自分のニンジンを洗っていると、通りがかりの人で手を伸ばしてこない人はいない。……社会主義とは少数の人が正常で豊かな生活をするという条件のもとに、国力を集中し戦時経済式の建設を行うというものだ。盗人、借金階級の存在はどうしようもない。共産主義になれば、多数の者の生活に配慮し、生活水準の大きな差を少なくし、それと共に社会道徳の面でも市民生活の正常な秩序を回復させ、社会主義時代に発展した不正常さを消滅させる。

・12月8日 何とも奇妙千万だ!この世は何という世だ!総路線は労働人民の経済的に貧しく文化的に遅れている様相を急速に変えたいという願望を反映するはずなのに!……沈が粗野な人間だというなかれ、彼は毛(澤東)の奥義を深く会得しているのだ。……
 李宝仁が沈から激しく攻撃された後、逆に私は沈のお褒めにあずかった。沈は私が「上部を受け入れるようになった」と言った。これはその実、笑顔で人に応対するという政策の結果だ。私は最近では沈に会う度に必ず挨拶をする、彼が見向きもしなくても私は挨拶する、これが彼の気持ちにかなったということだ。

中国建国10周年の国慶節に中国を訪問したフルシチョフ(左)と毛沢東中国建国10周年の国慶節に中国を訪問したフルシチョフ(左)と毛沢東

 ソ連のトップのフルシチョフ(この年10月1日の中国建国10周年の国慶節の祝賀式典に中国を訪問した)が警告を発した、これは中国の反右傾日和見主義に対抗するものだ。現在、フルシチョフはおごり高ぶってはならないと警告している。
 いわゆる右派分子のレッテルはがしというのは一種の政治的な揺さぶりにほかならない。北京は140人の右派のレッテルをはがすと公表したが、広汎な右派分子には絶対に心を許していない。情勢はますます緊張し、防備はますます固められている。当地でレッテルがはがれた者は相変わらず労働隊にいて、解放されていないではないか。

・12月15日 昨日は三食とも薄い粥、今日の昼はご飯だったが、朝飯の粥は特に薄かった。補充する食物は全くなく、朝から夕までひどく飢餓感に苦しめられた。商城ではすでに食品市場がなくなり、トウモロコシの粥を売る店もみな営業を停止した。月餅の闇市はすでに厳禁になり、病院を通して少量買えるだけだ。病院は自分で作っている。酒も手に入らない、地酒もない。
この春(第二次鄭州会議で)、党は人民公社の建設を調整する方針を出したが、来春に再び調整があるとは限らない。人民公社を保護しようとするからには、反富裕農民(その実は国家対農民)はどうやら年々やらなければならないだろう。
 ロンドン・タイムズの政治優先の解釈は正しい、即ち政治優先とは経済手段から離れ政治的手段によって経済目的を実現するというものだ。惜しむらくは政治優先の全ての適用範囲は農村に限られ、逆に都市では実行できないだけでなく、比較的実行可能な貨幣経済の外観を維持しようとしている。農村で政治優先が盛んに行われているのは、やはり(農村を犠牲にし)この目的に奉仕させるためなのだ。

・12月16日 大衆は下放幹部を騙して物を食べている。下放幹部が最初に農村に入った時には、土地改革工作隊が戻ってきたと盛んに宣伝され讃えられたが、今では何と下放幹部と農民は厳しく対立している。

・12月17日 労働隊の浮腫の病人は、1か月のうちに44人から70人あまりに増えた。夏に入った頃は、浮腫はごく一部の症例だったのに。誰でも知っているようにこれは休息と栄養の問題だ。凶作の年には、農村の人は草の根、木の皮を食べ、全身浮腫になる、どこでもあることだ。今は、過度の労働が一層ひどく、果物や木の実はなくなり、月餅はなくなり、酒もなくなり、トウモロコシの粥もなくなった、浮腫にならなければ不思議だ。民間の浮腫はいっそうひどい、至る所で死人の話を聞く。3年後に人口の統計をとれば、大躍進はマルサス主義を実行したものだと分かるはずだ。
 中国の大躍進、その実は(1956年の)ハンガリー事変以後のできごとは、立ち後れた国家で工業建設を行うスターリン主義の実質というものが一体何であるかを教えている。それは反面教師の役割を果たしている。今の中国のやり方は内政で厳しい姿勢を取り、外交面ですごい剣幕を見せている、それはポーランド、ハンガリー事変が起こってからのことであり、新しく独立した国の間ではもはや少しも魅力的なものでない、かえって反面教師に変わり果てている。
 国内情勢について言えば、党内は粛清され、意見は一致し、指揮は統一され、上下の意志貫徹がより迅速になったが、嘘の話がますます多くなり、強制収容所がますます多くなった。1959年の夏には一度、本当の話をしようと提唱されたが、本当の話をする人は本当に少なく、このことからも事はますます極端化の方向に向かっていることが見て取れる。
 中国は相変わらずスターリン時代の世界政策を維持している。今やインドネシアも変わった、排華親米になった。外国の友人はますます少なくなった。1955年のバンドン会議後の有利な情勢は日増しに消失し、二つの最大の隣国、インドとインドネシアは相次いで中国と反目している。
1960年が大豊作になることをひたすら願う、そうなれば毛先生自身も変わることだろう。
 昨夜、付近で2件の行き倒れ。黄渤の家で、妻、父親、兄、子ども二人がこの半月の間に相次いで死んだ。そのほか、柳学冠の母親と弟、張保修の兄と嫂も死んだ。現在問題は死ぬか死なないかではなく、どんな人が死ぬかだ。農村で子どもや老人が何人死んでもよい、マルサス主義学説の目的を達したことになる。しかし、もし有力な労働力の死が多過ぎるとなれば、それは大失態だ。
 フルシチョフは、中国の国慶節の式典は盛大だったが、それは人民大会堂、北京飯店の朱塗りの大門の中に酒や肉が腐るほどあるということでしかない(金持ちの家の外では死者の骨が満ち満ちていると詠じた杜甫の『詠懐詩』をなぞった言い方)と言った。
 私の服装はと言えば夏も冬も変わらないが……変化したことは満身糞だらけということだ、手袋は大便まみれ、ズボンとオーバーコートの裾も大便まみれ、それでも全くかまわない。初め糞を畑にまいた時には石けんで手を洗っていたが、今では全くかまわなくなった。

・12月19日 彭鉄が彼の一家はみな浮腫で、短期間にみな死んでしまったと言い回っている。

・12月22日 レッテルをはがすというのはペテンだ。罹災者が野に満ちている、人が人を食い、凶作を豊作と報告し、浮腫の顔を肥えているとごまかす。もし本当にレッテルをはがすなら、必ず新たな歴史問題の決議がないとだめだ。その日の到来までは、そうはかからない。世界の情勢はStalinismが中国で復活するのを決して許さない。現在のただならぬ恐ろしい情況がいつまで保つのか?
 
民間で大勢が浮腫で死んでいるが、商城では人が人を食う事件が二件起こった。一件は夫が妻を殺して食べ、もう一件は伯母が姪を食べた。

 現在、著名な書家の舒同が書いたのと同じような態度表明の文章が出回っている、その中で最も重要なのは次のような点だ。即ち、「毛主席の指導には間違いがない、必ず毛主席について行くというのが、中国人民が長期の闘争で得た最も重要な経験であり教訓だ」という点だ。
 飢餓は慢性的なだけで、死因は浮腫に起因するということにする、医師がもし餓死したと言えば、その医師は右派か右翼日和見主義者ということになる。
連日、発熱などの発病、自力で生きながらえる道を画策せざるを得ない。食品の出所はますます狭まっている、薬品の獲得を目指そう―虎骨酒と魚の肝油を買う決心をする。
 労働隊によって鍛錬された私の政治的態度は継続させていくべきだ―一つまり歴史の観察者になるということ。私はこの人口を全滅させる戦役に参加するに忍びない。この戦役が長期にわたって継続することはあり得ない。結局は率直、開明、寛恕、人道主義、文明の方向が、今の嘘を言うこと、専制、過酷な法と刑、無制限な闘争、道徳の退廃、暗黒に取って代わるという方法で歴史的使命を完成するのだ。この歴史的使命が完成するとき、新たな局面が始まるのだ。新たな局面が始まる前には、沈黙して自らを保ち、歴史を記録し、この時期の真相を後世が知ることができるようにする。……5年以内にわずかに曙光が見えるだろう、10年、何とか見込みがあるか?

・12月24日 保健医療施設の門口で李克征に出会ったら、出会い頭に28日に県城に集合すると言った。ありがたや、この強制収容所を離れるのだ。6月12日~12月28日まできっちり200日だ。労働隊の生活水準が農民より高いというのは事実だ。しかしこの罹災者が野に満ちている時に、商城では生活水準の高い人がまだいるのだ。
 沈はおおっぴらに常に鶏肉、豚肉を食べている。文句を言えば、自分が買ったものだと言う。もしなぜ私が買えないのかと聞けば、その答えは、お前たちは罪人だからだというのだ。

・12月26日 現在、何もかもがぼんやりし分からなくなってしまった。党は梅蘭芳の党だ(梅蘭芳は京劇の名女形として知られる。ここでは、党は自分の正体を覆い隠しているという意味)、一般人にはプロレタリア階級の人生観を要求しながら、実際生活では全くその水準に到達していない。ただ絵空事ばかりで、互いに騙しあっている。あげくの果てには胸中をさらけ出すことを強調しながら、極力真相を覆い隠している。思想革命、政治優先もこんなありさまで、哀れの極に達している。(国共内戦に勝利した)10年前には都市部に入ってからの腐敗の危機が強調されたが、我々はそんな具合になってしまった。

・12月28日 さらばだ、労働隊というこの強制収容所よ。

 顧準の時期区分の概括からこの時期について若干補えば以下のようだ。この時期は体力の維持があまり続かなかった。体力のある者でも数日間長く維持できるだけで、結局は病気になり浮腫になっていた。労働隊では病気になった者、浮腫になった者は80%で、自分もその一人だ。自分は雪の畑で野菜を作る中で連続して風邪を引いたことからそうなった。しかし、12月末に商城の県城に移ってからの20日間では、出来るだけのことをして途切れることなく割り当て外の食料を求め、浮腫が消えた。

 顧準ら中国科学院の右派たちは、この後、商城県の県城に移り、1960年1月20日に北京に戻る。日記はその1月20日まで続く。

・12月29日 沈場長が率直に遠慮のない指示をした。彼の話には只一点だけ内容があった。それは大局から党の成績を見なければならないということだった。その意味する所は、嘘を言うこと、飢餓、死亡は小事で、お前たちは北京に帰ったら慎重に話すようにということだ。
 このあんぽんたんは、あろうことか俺がお前たちに指示すると公言した。もし機会があれば、私がお前を裁いてやる。
 この日から自由人の生活が始まった。

・1960年元旦 生産量の嘘の報告は、本当に我が民衆を大いに苦しめた。「歯を食いしばって我慢するのだ、一億人が死んでも何でもない、どんどんやれ」、これは1958年8月、英明で偉大な指導者毛主席が下したとてつもなく大きな決心だ。……中国は甚だしく左だ。……社会主義は東方に至るほど野蛮になるわけではあるまい?
 呉家華の家で数人が死んだ、一家のうち数人が死ぬということがまだ起こっている。……城関招待所の我々の食堂で一人の老婆が、我々が食べ終わった飯茶碗を手で持ち上げ、ほんのわずか残った飯粒を手でさらって食べていた。その老婆と一緒に数人の子どもがいたが、哀れにもすっかりやせ細り、やはり食べ物を探していた。一人の子どもは我々の食堂に駆け込み、床下に隠れ、我々の魚や牛肉を食べていたという。

・1月9日 人びとは未だ事物の客観的法則に疎い。反動的家庭の人が重視され、階級的出身が申し分ない多数の農村青年が、歴史の決定により、少なくとも牛馬のような半生を送らなければならない。それは単に必要によるもので、これは歴史の客観的発展の法則により決定されたことだ。……私は私の精力を回復し、北京に戻ってからの時間を大切にしなければならない。私はまだ働かなければならない、私は自分を大切に保たなければならない。私はまだ戦わなければならない。しかしこの戦いは自分だけで終わるものではない。少なくとも一つの時代の歴史を記し、後世の者に経験と教育を与えるべきだ。……
 階級闘争はまだ二十年、ひどければ五十年も続くという見解がある。現在はどんな対象と闘っているのか?思想改造などと言うものは、若干の神経病患者を作り上げ、若干の宗教的感情を作り上げる。だが社会、経済構造には結局は何の変化もない。重大なのは、現在の階級闘争では「富裕な農民」と闘っていることだ。この闘争の中では利己主義の思想を持つ幹部の影響を受けたよい農民を、真の反動的農民と区別しているのだという。これは階級分析の方法の下で起こっている国家と農民の衝突を覆い隠している言い方に過ぎない。もし目下の農民に対する闘争が、農民の人数が多すぎ、自給の力が強すぎ、商品化率が低すぎるので、一部の人間を消滅させ、残った者に商品化率の高い農業を建設するように強制し、強力に糊口経済をなくさなければならない、といったことが歴史的にやむを得ないからだと言うのであれば、これも又マルクスレーニン主義のいくつかの語句を用いたごまかしだ。

・1月11日 これは一つの歴史の悲劇だ。歴史から見ればこの悲劇は避けられなかったとしても、しかし彼ら(農民)の命の恩人(毛沢東)は何とこの問題を全く理解できていなかった。いや、1953年以前は理解していなかったが、その後は次第に理解するようになり、しかも解決の方法をいくつか模索したと言うべきだろう。彼は数個のよい処方箋を試しはしたが、とどのつまり選択したのは現在の処方箋だった――マルクスレーニン主義の人口論、テロリズムの反右派闘争、飢えた数億の農民を過度の労働に追い込むこと、同時に高生産、高商品率の農業と余剰人口の消滅を両立させること――最も堂々として立派だが、最も残酷で、最も迅速で、最も効き目の出る方法だ。もしこれを歴史の記録に残し偉大な功績とするならば、確かにピョートル大帝と曹操と同様だ。

・1月16日 下放幹部の女性は十人のうち九人までが月経不順だ。李克征は調査の後、これは正常なことだ、農村の女性はみなこのようだと言った。そこで、死亡率の高止まりの上に、更に生殖率の低下ということが加わった。……もし4、5年のうちに農村の人口が3億まで減少し、その上生産量が着実に上がり、全国の平均商品率が40%に達するなら、毛先生は大功を成し遂げたことになる。

・1月20日 北京に戻り、(自分の不在中に引っ越していた)家をやっと探し当てた。……身につけていた衣服を全て脱ぎ捨て、予定していた食事をした、食べ終わって足を洗い、眠った。今回の旅程は、これで終わりを告げた。
以後の日々がどう過ぎていくのか、誰が知ろう。

◇ ◇ ◇

「以後の日々がどう過ぎていくのか、誰が知ろう」、顧準は『商城日記』の最後にこう記しているが、彼は1960年には右派のレッテルがとれ、翌年には中国科学院経済研究所に復帰、研究活動に専念することになった。しかし64年には著名な経済学者・孫冶方を軍師とする反革命集団の一員とされ、再び右派のレッテルを貼られ、65年から69年、69年から72年と強制労働や下放労働に従事させられた。冒頭でも触れたが、この間妻の汪璧に離婚され(彼女自身も党籍を剥奪され、自殺するという悲惨な運命をたどった)、子どもたちにも絶縁された。顧準は死の間際の74年に右派のレッテルははがされたが、党籍はもどらなかった。

 最後に『商城日記』が書かれた時代背景についてごく簡単に触れておく。中国では人民公社、大躍進、社会主義建設の総路線(大いに意気込み、常に高い目標を目指し,多く、早く、立派に、無駄なく社会主義を建設する)という三本の赤旗が掲げられ、イギリスに追いつき追い越すというスローガンの下、農業の集団化など急進的な社会主義建設運動が進められた。この政策は、農村、農民を中心に中国人民を途端の苦しみに追い込み、3000万人とも4000万人ともいわれる餓死者を出すなどの悲劇を生んだ。
 顧準が労働改造に送られた河北省信陽専区は中国最初の人民公社が誕生した土地柄でもあり、全国でも属目される率先して共産主義への過渡を目指す実験区になっていた。それだけに被害が大きく、いわゆる「信陽事件」と言われる事態を招いた。
 餓死者が多く出た理由については説明を省くが、信陽専区の特殊な事情としては、地区の指導者が自らの失政が明るみに出るのを怖れ、食を求め県外に出ようとする人びとを道に関所を設けて阻止したということがあり、それによって餓死者が野に満ちるという惨状を招いたという。

『顧準全傳』では、顧準はこの労働改造の中でこれまでにないもう一冊の重要な書物、つまり中国社会の実際状況、大衆の最も切実な利益、最もはっきりした大衆の本音、最下層の物質生活、最低層の社会文化、最も直接的な政策効果という書物を読むことになったと指摘している。
 顧準は日記の中で、これからも戦い続ける、商城で体験したこと、そしてこの歴史の真実を後世に伝えていくという趣旨の決意を述べているが、『商城日記』を残したことだけでもその決意の一部を実現させたと言えるだろう。

コラムニスト
横澤泰夫
昭和13年生まれ。昭和36年東京外国語大学中国語科卒業。同年NHK入局。報道局外信部、香港駐在特派員、福岡放送局報道課、国際局報道部、国際局制作センターなどを経て平成6年熊本学園大学外国語学部教授。平成22年同大学退職。主な著訳書に、師哲『毛沢東側近回想録』(共訳、新潮社)、戴煌『神格化と特権に抗して』(翻訳、中国書店)、『中国報道と言論の自由──新華社高級記者戴煌に聞く』(中国書店)、章詒和『嵐を生きた中国知識人──右派「章伯鈞」をめぐる人びと』(翻訳、中国書店)、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(共訳、藤原書店)、『私には敵はいないの思想──中国民主化闘争二十余年』(共訳著、藤原書店)、于建嶸『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』(翻訳、集広舎)、王力雄『黄禍』(翻訳、集広舎)、呉密察監修・遠流出版社編『台湾史小事典/第三版』(編訳、中国書店)、余傑著『劉暁波伝』(共訳、集広舎)など。
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