私の本棚発掘

第14回

笑蜀編『歴史的先声──半個世紀前的荘厳承諾』

笑蜀編『歴史的先声──半個世紀前的荘厳承諾』

『歴史の前触れ──半世紀前の厳粛な約束』汕頭大学出版社、1999年9月

重慶で学習中の『新華日報』のスタッフたち重慶で学習中の『新華日報』のスタッフたち
『歴史的先声──半個世紀前的荘厳承諾』書影『歴史的先声──半個世紀前的荘厳承諾』書影

 本書の正式な書名では、頭に更に「『新華日報』、『解放日報』社説選」という副題が付け加えられている。
 『新華日報』は、抗日戦争の時期と国共内戦の時期(1938年1月11日~1947年2月26日)に発行されていた中国共産党の機関新聞。最初の発行地は漢口だが、抗日戦争の推移や国民党との抗争などの関係で発行地は度々変わっている。『解放日報』は1941年に共産党の根拠地・延安で創刊された中国共産党の機関新聞で、新中国建国後は上海市党委員会の機関新聞として継続発行された。
 本書が出版された1999年9月は新中国建国から50年、丁度半世紀に当たる。書名にある「半世紀前」というのは新中国建国直前という意味で、本書はその時期に中国共産党が二つの機関新聞を通し人民に何を語り約束していたかを紹介している。この時期に本書を出版した意図は何か。「出版者の言葉」は次のように述べている。

 本書を建国50周年の盛大な祝日に献上することを願う。……ここに紹介する文字から、50年前の中国の大地に起こった国共の決戦が、二つの前途、二つの運命の争いであったことが見て取れる。中国が民主の光明の道を歩むのか、それとも独裁の暗黒の道を歩むのかだ。……これらの気魄のこもった文字がなければ、国民党統治地区で人心が国民党から迅速に離れ、そこでの第二戦線(1946年12月から起こった愛国民主運動)が迅速に形成されることはなかったろう。……これらの文字が都市住民と知識階層から獲得した広汎な反響、そして大衆の心とが一つになった叫びが、最終的に国民党の蔣家王朝の大陸における22年の統治を葬ったのだ。……
 50年前の文字を再読すれば、中国人民が最近歴史に前例のない経済体制改革を行えただけでなく、この改革の成果を一層深く続けることができるのは、早くも半世紀前に中国の共産主義者が厳粛な歴史の約束をし、今後の改革に豊かな精神的資源を積み重ねてくれたからである。これらの精神的資源は中国人が次の一世紀に管理体制の改革を行うのにも、汲み尽くせない理論的宝庫となるだろう。

延安で演説する毛沢東延安で演説する毛沢東

 この「出版者の言葉」を読んで奇異、奇妙、疑問を感じた人も少なくないだろう。これについては後に論じるとして、先ずは本書の内容を見ることにしよう。
 本書には九つの柱が建てられている。(いずれも日本語訳で)①「民主がなければ、一切は粉飾に過ぎない」、②「民主を求めるのは全国人民の社会的要請だ」、③「民主主義の鋭利な刃」、④「思想の檻を突き破らせよう」、⑤「中国には真正な普通選挙が必要だ」、⑥「学校は民主のとりでにならなければならない」、⑦「天賦の人権 侵すべからず」、⑧「一党独裁──いたる所に災害!」、⑨「誰が中国を不安定にしているのか?」の9本の柱だ。これらの9本の柱のうちの4本の標題に「民主」という言葉がはめ込まれている。また本書には両紙の社説のほかに共産党指導者、文化人などの発言、文章を含め計106篇の文章が収められている。そのうち44篇の標題に「民主」という言葉が使われ、「民主」が際だって突出している。それに次ぐのが「自由」の14篇、「人権」が2篇だ。つまり「民主」、「自由」、「人権」が中国共産党が将来政権を奪取したときの人民に対する厳粛な約束だというわけだ。ではそれが具体的にどう表明されているのか。先ず巻頭に掲載された毛沢東の言葉から。

「中国の欠点は民主が足りないことだ、あらゆる領域で民主を貫徹すべきだ」──1944年6月12日、毛沢東が内外の記者団に答える(『解放日報』1944年6月13日)
 中国には欠点がある、しかも非常に大きな欠点だ、一言で言えば民主が足りないということだ。中国人民は非常に民主を必要としている、なぜなら民主があって初めて抗戦(抗日戦争)に力が生まれ、抗戦の勝利が得られ、素晴らしい国家を建設できる。……
 我々が国民政府、国民党およびあらゆる党派に希望するのは、各方面で民主を実行することだ。全世界が抗戦の最中だ、ヨーロッパはすでに決戦の段階に入った、極東の決戦も到来しようとしている、だが中国は戦争をやるのに必要な民主制度を欠いている。民主があってこそ、抗戦には力が生まれる、これはソ連、アメリカ、イギリスの経験が証明している所だ。……疑いもなく、何ごとにも統一が必要だ、だがこの統一は民主の基礎の上に打ち立てられるべきだ。政治は統一が必要だ、だがそれは言論、出版、結社の自由と民主選挙の基礎の上に打ち立てられて初めて力のある政治が生まれる。統一はとりわけ軍事面で特に必要だが、それも民主の基礎の上に打ち立てられるべきだ。……
 私は重ねて言うが、我々は統一を非常に必要としている、だが民主の基礎の上の統一であってこそ、真の統一だ。

蔣介石と宋美齢(1943年9月)蔣介石と宋美齢(1943年9月)

 毛沢東はこの他、経済や教育、学術思想、新聞、芸術などの文化面でも民主が必要だと話している。毛沢東のこの言葉は本書の全ての内容を要約したものだと言える。
 この発言は抗日戦争の勝利を目前に、国民党との対立が鮮明になっていながらも、曲がりなりにも抗日のための国共合作が行われている中でのもので、国民党に対する直接的な批判は避け、民主化への希望という形で間接的な批判に止めている。
 本書には毛沢東のほか、周恩来、劉少奇、陸定一、董必武、徐特立などの共産党指導者の文章、会見記などが掲載されている。登場回数では毛沢東の7回が最多だ。郭沫若、茅盾、陶行知、夏衍、呉含などの著名な学者や文化人、李普などのジャーナリスト等も執筆者、発言者として名を連ねている。その中で新華日報の社長を務めた潘梓年と毛沢東の秘書だった田家英の2人についてだけは「文化大革命で迫害され死亡した」という注が施されている。
 中国の抗日戦争の勝利(日本の敗戦)後、共産党と国民党の間で内戦が本格化するまでは、本書に掲載された文章には、国民党に対するあからさまな批判はあまりない。中央政府を組織する国民党を賞賛するかのような表現すらも見られる。例えば蔣介石夫人の宋美齢の発言について次のような記述がある。

 蔣夫人は、蔣主席が招待した国民参政会の宴会で、中国が必要とする民主精神について報告し、……民主国家の政府は人民の意思を知ったのちには、人民の意思に基づいて施政すべきだと述べ、更に政府のやることには常に批判を加えなければならず、その批判には責任を負わなければならず、つまり批判の後には必ず改正の具体的意見を付さなければならない、そうして政府に意見を受け入れさせ従わせるのだ。

 『新華日報』は宋美齢の発言をこう紹介した後、蔣夫人が提起した問題は確かに時代の悪弊を衝いており、我々は全国のマスコミと共にこの意見を歓迎し支持し、政府が具体的な段取りを以てこれを実現し、民主の気風をつちかうのに尽力し協力すると結んでいる。(1943年 9月22日社説)
 
 もう一つ。立法院(国民党政府下での立法機関)院長・孫哲生(孫科、哲生は字)の発言を引いての論評。これにはわざわざ孫氏は孫文の子であるという注がつけられている。

 立法院院長の孫哲生先生は一昨日、憲政座談会で三種の自由について講演した、即ち民族の自由、政治の自由それに経済の自由だ。彼は、これはつまり三民主義の目的だと言った。彼はまた、みながこの三種の自由を勝ち取るために奮闘するよう激励した。我々は孫哲生先生の演説の言葉を読み、一語一語がまさに今日の中国の実際的必要に合致していると感じた。……
 問題なく、三種の自由の中では、今日にあっては、その重要性から言えば当然民族の自由が主要である。……抗戦七年の今日になって、孫哲生先生によってこの道理が今更のように説かれるのを待つとは、真に感慨に堪えない。(『新華日報』1944年5月16日社説)

 なんとも皮肉な紹介の仕方だ。蔣介石について触れた文章でも、蔣主席、蔣先生と敬称がつけられている。
 本書ではこの時期、枢軸国と戦うアメリカ、イギリスを二大民主国、民主の精華などとして、そしてソ連も民主国家としてたたえ、ルーズベルトに至るまでアメリカの独立以来の大統領などの指導者をも民主の信奉者、実践者として讃えている。それにソ連のスターリンも。
 その一方、アメリカ人の口を借り中国共産党が民主主義を尊重する党だと語らせてもいる。以下は、重慶駐在の一アメリカ人記者の(記事からの?)引用だ。あらまし以下のようだ。

 共産党の意見では、彼らの党の政府及び軍隊の為すところが有るのは民主制度を根拠としているからだということだ。……民主のやり方については、今は問題はない。共産党が現在民主を実行しているのは、民主が有利だからだ。虐げられてきた記憶しかない農民を人として待遇し、彼らの意見を求め、現地の政府と治安機関を彼らに選挙させるなど、彼らに社会的権利を与えているのだから、彼らにとっては共産党以外の人や外の如何なる政党に迎合するなどというのは一笑に付すべきことだ。
 このような共産党の民主的指導が戦後も可能だろうか、腐敗した大都市及び整備された組織を持ち、富裕な、弁の立つ反対党の場所で実現するかは、なおまだ将来に待たなければならない。共産党は、もしあらゆる階級の成人が選挙権を持てれば、党は大衆を掌握できると考えている。だから民主は、中国自身、共産党、大衆の三者が同時に発展する確実に最もよい媒体となる。(『新華日報』1945年5月14日)

 この時期でも辛辣な国民党批判が全く為されていなかった訳ではない。1943年9月1日の『解放日報』の社説は国民党の報道統制を批判し次のように指摘している。

 (抗日戦争の前線を離れた)後方での国民党の報道統制の方針はまるで日本の侵略者への投降を準備するためのようだ。後方では、共産党とその他の抗日党派の政治主張は不当にも抑圧され、新聞で発表することが許されず、何と「抗日民族統一戦線」、「団結」、「解放」、「国共合作」、「各階層の人民」、「少数民族」、「三民主義は今日の中国のために必要」などという言葉すら誤った名詞だとされ、すべて使用禁止になっている。しかし、ファシスト独裁を褒め称える誤った議論はかえって容認され、庇護され、ファシズムの報道理論家はあろうことかおおっぴらに「一つの党、一人の領袖、一つの新聞」の主張を鼓吹している。それらは(各種の手段を弄して)次第に進歩的新聞の管理権を奪い取り、最後には買収を強制し、閉鎖を命じるためなのだ。……これはまるでヒットラー、ムッソリーニ、東条のファシズム報道政策のようだ。

 つまり共産党の政策は国民党とは真逆だというとことを主張しようとているのだ。そのような主張は抗日戦争が終結(日本の配線)に向かい、国境内戦が近づくにつれ、一層鮮明になってくる。例えば、発言の日付ははっきりしないが、共産党ナンバー2の劉少奇の次のような発言が紹介されている。

革命根拠地での劉少奇革命根拠地での劉少奇

 共産党は政権を奪取し、共産党の「一党独裁」を打ち立てようとしていると言う人もいる。これは悪意のあるデマと中傷だ。共産党は国民党の一党独裁に反対だが、共産党の一党独裁を打ち立てることは全くない。共産党と八路軍、新四軍は民主の勢力として、大多数の人民のために、一般大衆のために、抗日各階級聯合政府のために奮闘することを願っている。このような政権は、一党一派一人が私にできるものではない。……(『劉少奇選集』、上海人民出版社1981年版から 掲載紙の記載もない)

 更に、国共内戦本格化間近の1946 年5月17日の『新華日報』の社説は、国民党反動派の20年近くに及ぶ長期の独裁の中で、中国の混乱は未だないほど空前の混乱に達したと指摘した上で次のように主張している。

 当局が金で抱き込んだ論客たちは、共産党は天下の大乱を希望していると言っている、だが中国人民とその利益の忠実な代表者は中国共産党であり、共産党は正に「変えることで乱れることを止めよう」としているのであり、しかも変えることでのみ初めて乱れを止めるということを知っている。……同盟国の英米の記者は自ら解放区を訪問した後、「全てのことが我々に共産党の行政が中国で最も素晴らしいものだと信じさせた」とか「ゲリラ地区と共産党の根拠地のそれぞれでは、民主方式の政府がすでに実現している」と言っている。このような希有な創造は、外でもなく正に共産主義者がいつどこででも中国人民の利益のために奮闘していることによるのだ。中国の共産主義者たちのこのような特徴、このような精神は、国民党総裁の蔣介石先生も認めざるを得ないのだ。

 第一次大戦後、日本が中国における権益拡大を要求した二十一カ条要求が、パリ講和会議で認められた。これに抗議し、民族の危機、日貨排斥などを訴え、北京から全国に広がった学生運動・五四運動の27周年記念日に当たり、『解放日報』の1946年5月4日の社説は次のように述べている。

 中国の青年は「五四」の偉大な歴史を記念するこの日に、より一層毛沢東の人民に奉仕するという新たな人生観で自身の思想を武装すべきであり、毛沢東の偉大な人生観で「五四」以来の民主と科学のスローガンを充実させ、民主と科学のスローガンに一層しっかりした内容、一層明確な目標を獲得させるべきだ。

 毛沢東に対する個人崇拝的な表現が紹介されるのは本書では珍しい。1946年6月、国境内戦は本格化するが、それに伴い共産党の国民党批判は激しさを増していった。それだけではない、それまで国民党と共産党の調停に尽力したアメリカのハーレイ大使、マーシャル特使、それにトルーマン大統領らをも中国の成語「助紂助虐」を用い、悪人を助け悪事を働く者として非難するようになる。(『新華日報1947年2月22日社説』)

 このコラムでは106 篇の文章の中からごく一部を抜き出して紹介した。そこからは中国共産党が政権奪取以前にどんな「厳粛な約束」を人民にしていたのかが理解できる。その「厳粛な約束」とは民主、自由、人権の実現ということにほかならない。これについて最も権威のある人物の言葉として毛沢東の言葉を引いておこう。

 侵略者の日本と結託する民族の裏切り者及び抗戦と団結を破壊する反動的頑固派、これらの人物に発言の資格がないのを除けば、その他のいかなる人も話をする自由がある、例え言い間違えても問題ではない。国事は国家の公の事であり、一党一派の私事ではない。だから、共産党には党外の人士と民主合作を実行する義務だけがあり、ほかの人を排斥し、一切の権利を壟断することはない。……共産党のこの党外人士と民主合作をするという原則は固定不変のものであり、永遠に変わらない。社会に党が依然存在する限り、党に加入する人は常に少数であり、党外の人数は多数だ、だから党員は常に党外の人と合作しなければならない。(陝甘寧辺区参議会での演説)──『解放日報』1941年11月22日

 ではこれらの「厳粛な約束」は果たして新中国の建国後、つまり共産党の政権奪取以後に実行されたのか。確かに新中国発足後の政権には党外人士がかなり多く参加し、共産党の公約である連合政府の形式は一旦は取られた。だがここに一つの興味ある証言がある。それは2001年にソ連の本を翻訳して中国で出版された『斯大林与中国(スターリンと中国)』の中の次のような一節だ。

 1947年11月30日、毛沢東は電報の中で、中国革命が最後に勝利した暁には、ソ連とユーゴスラビアとの例に従い、中国共産党以外のあらゆる政党はみな政治の舞台から退出すべきだ、そうすれば中国革命の勢力は強化されるだろうと言った。1948年4月20日、スターリンが署名した我が党中央の返電の中では、特にこの事について、我々はそうすることに同意しないと述べた。……みなが知るとおり、この意見を聞いたため中国共産党はその他のブルジョア階級政党に対する政策を変えた。

 この本ではこの一節について注が施されており、中央档案館(文書館)で調査した結果では、毛沢東がこのような内容を発したという電報は見当たらなかったとしている。だが筆者が中国民主諸党派のある幹部に聞いたところでは、そのような電報が確かに存在しているということだった。
 もしこの電報が真実だとすれば、毛沢東は当初から連合政府の約束を破棄する考えだったと言える。やがて度重なる政治運動が繰り広げられる中で、連合政府は形の上でも消滅し、共産党の一党独裁が強固にされて来たことは歴史の示す通りだ。
 本書の出版者の言葉では、50年前中国の大地に起こった国共の決戦が……中国が民主の道を歩むのかそれとも独裁の暗黒の道を歩むのか、二つの運命の争いであったと指摘しているのだが。

 ともかく、中国共産党の建国以来の統治状況を見れば、本書で縷々紹介された「厳粛な約束」は紙の上のものに過ぎなかったということが分かる。それにも関わらず、1999年の建国五十周年に合わせ、このような本が出版された意図はどこにあるのか。共産党に対し初心を忘れるなと忠告しようとしたのか、或いは共産党に対する批判、或いは皮肉の意味を込めたのだろうか。更に出版者の言葉が、「中国が歴史に前例のない経済体制改革を行えたのは、半世紀前に中国の共産主義者が厳粛な約束をし、豊かな精神的資源を積み重ねてくれたおかげで、この精神的資源は中国人の次の一世紀に管理体制の改革を行うのにも尽くせない理論的宝庫になる」としているのにも首をかしげたくなる。
 冒頭で編集者の言葉に奇異、奇妙、疑問を感じると言ったのは、こういうことだ。

コラムニスト
横澤泰夫
昭和13年生まれ。昭和36年東京外国語大学中国語科卒業。同年NHK入局。報道局外信部、香港駐在特派員、福岡放送局報道課、国際局報道部、国際局制作センターなどを経て平成6年熊本学園大学外国語学部教授。平成22年同大学退職。主な著訳書に、師哲『毛沢東側近回想録』(共訳、新潮社)、戴煌『神格化と特権に抗して』(翻訳、中国書店)、『中国報道と言論の自由──新華社高級記者戴煌に聞く』(中国書店)、章詒和『嵐を生きた中国知識人──右派「章伯鈞」をめぐる人びと』(翻訳、中国書店)、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(共訳、藤原書店)、『私には敵はいないの思想──中国民主化闘争二十余年』(共訳著、藤原書店)、于建嶸『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』(翻訳、集広舎)、王力雄『黄禍』(翻訳、集広舎)、呉密察監修・遠流出版社編『台湾史小事典/第三版』(編訳、中国書店)、余傑著『劉暁波伝』(共訳、集広舎)など。
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