△武威市街凉州区。付近には文廟(孔子廟)併設の西夏博物館があり、そこに重修護国寺感通塔碑が展示されている
寧夏回族自治区の銀川から内蒙古自治区との境界を南進してきた長城は、甘粛省の白金市に入ったところで西に向きを変える。ここで黄河とわかれ、農業遊牧境域地帯から離脱してゴビの河西回廊に突入する。
河西回廊の「河西」とは、黄河の西という意味だ。そこには中央アジアへと奥深くつづく砂漠の回廊があり、オアシス都市が点在している。ひとつのオアシスからもうひとつ隣りのオアシスまでは駱駝が1日で進めるほどの距離である場合が多く、これは交通が発達していなかった近代以前に人間がシルクロードを移動する行為に寄与した。自然というものは、なんとうまく創造されているのだろうか。河西回廊はまた西夏文字で有名なチベット系タングート族(党項)が西夏王国を築いた故地であり、そのひとつの中心が武威にあった。武威はマルコポーロも滞在した砂漠のオアシス都市だった。
武威に吹くタングートの遺風
武夷は河西三郡のひとつで、中央アジアにむかうシルクロードの入り口のようなところである。河西三郡とは武威、張掖、酒泉を指し、いずれも祁連山脈の北側に展開するゴビのオアシス都市だ。これら三郡に敦煌を加えて河西四郡ともよばれる。前漢の時代、第7代皇帝の武帝が安南、朝鮮とあわせて西域も経略し、ここを足がかりにして東西交易の道を確保した。
武威の郊外には広大なとうもろこし畑がひろがり、収穫された飴色の実が道路上や農家の庭先に干してある。車で1時間ほどいったあたりが長城県岸門村で、その名称が示すとおり赤土の農地に巨大な土長城がうねっている。ここは九辺鎮の9番目(最終鎮)にあたる甘粛鎮に属し、景泰県の黄河西岸に位置する索橋嘴の古渡口(渡し場)から立ち上がった長城は蘆陽、馬鞍山、八道和泉、三眼井などを通過して隣りの古浪県に至り、さらに大嶺、大靖鎮、土門鎮などを経て武威に到達し、最終的には嘉峪関までの路段を指している。古浪は武威に隷属する県級の市鎮である。
この地に初めて足を踏み入れたのは、もう40年近く前の1970年代のことだった。当時は村のなかに舗装された道路などなく、土が剥き出した大地に人や動物が共生していて、とてもゆったりとした好ましい環境だった。
△汗血馬「馬踏飛燕」像のレプリカ。本物は蘭州の甘粛省博物館で見ることができる
西夏文字と長城の取材で再訪してみると、そこにはすでに当時の村の面影はなく、町を跳び越えて「街」にさえ変貌していた。その奇形的に発展した様子を眺めながら、40年の星霜を噛み締める。変わってしまったのは、武威という河西回廊のオアシス村ばかりではなく、筆者自身の変化のほうが大きいのかもしれない、と思ったりした。
前漢の第7代皇帝の武帝が安南、朝鮮とあわせて西域も経略した際、河西4郡を足がかりにして東西交易の道を確保した。武帝は張騫を大宛国(フェルガナ)に遠征させ、その途上でさがしあてた汗血馬の銅像「馬踏飛燕」が出土したのはここ武威の土地からである。汗血馬は1日に千里を駈けると伝説され、その体毛の色によって汗が血のように見えることからこの名前がついた。いまその本物は東南方向に300キロほど離れた蘭州の甘粛省博物館にあり、レプリカが武威の凉州区で広場の空を翔けている。武帝が歓喜した汗血馬の話は、ここに西夏王国が展開した1千年以上も以前のことだ。
△重修護国寺感通塔碑の頭部。武威で西夏文字が発見されるきっかけとなった
西夏といえば、漢字を手本にしてつくった西夏文字が有名である。西夏文字の研究は19世紀後半から欧米、ロシア、日本、そして中国本土で精力的に展開された。武威は西夏文字の発見の舞台となったことでも知られる。武威の中心街に建つ文廟(孔子廟)併設の西夏博物館の入り口ホールにその現物である西夏碑、すなわち「重修護国寺感通塔碑」が展示されている。発見したのは清代の西北史地学者で武威人の張澍である。嘉慶25(1820)年、張は地元の名刹清応寺に参り、そこに埋もれていた石碑を見つけ出した。その裏側の漢文説明から碑表面に刻された文字が西夏文字であると判断した。
この直後、やはり武威の金石学者青園は地元で発見した古銭の文字が西夏碑と同じであることに気づいたことを同時代の古銭研究家、初尚齢がその著書『吉金所見録』で明らかにしている。西夏文字についてもう少し踏み込みたい衝動に駆られるが、すでに「居庸関──雲台に刻された西夏文字の誘惑」(『長城を行く』第7回)の稿で言及しているので、ここでは多くを書かない。
△長城県岸門村。武威市街から車で1時間ほどの農村。とうもろこし畑のなかを土長城が走っている
西夏碑が発見された武威は古名を凉州と称し、西夏の領内にあった。西夏王国のもうひとつの遺跡カラホトは武威の北西400キロのゴビを流れる黒河(エチナ川)流域に位置する。武威で出土した西夏関連の文物には貴重なものが多い。いまだにタングートの遺風が感じられるのである。
岸門村の長城
武威郊外の長城県岸門村にむかう。郷道の並木の下には収穫したとうもろこしがあちこちに干してある。車はそこを避けながら猛スピードで走る。やがて前方に大湾村の入り口を示す門が見えてきた。目的地の岸門村は隣り村の長城郷の次だから、もう目と鼻のさきだ。それにしても付近には古浪とか大湾、岸門など水辺を連想させる地名が多い。地図で確認すると近くに紅水河という河川が流れていて、大湾村はその湾曲部に立地する。紅水河は発音がおなじ洪水河という別称がある。護岸工事が施されていないこの河は、古来、洪水がくりかえされ、近辺の農民を苦しめてきたにちがいない。だから洪水という忌まわしい名称を廃し、農民の生活に密着した吉祥の紅色を連想させる紅水河とよばれるようになったにちがいない。景泰県から北西にさかのぼってきた長城は紅水河の西岸をなぞって進み、郷道293号線もまた紅水河に沿って大湾村、長城郷、岸門村を貫いている。
岸門村の長城は典型的な土長城で、赤土を突き固めて築いたものだ。景泰県の黄河西岸に位置する索橋嘴の古渡口(渡し場)からの距離は約175キロで、武威をすぎればゴビをうねりながら山丹、張掖、酒泉、そして明代長城の終着地、嘉峪関のオアシスへとむかう。岸門長城の両側には、現在は茫洋としたとうもろこし畑が展開する。
△岸門長城。赤土を付き固めて築いた長城が紅水河に沿って西北に走る
武威に達する長城には固原(寧夏回族自治区南部)から延びてきた南ルートもあり、武威郊外で岸門長城などの北ルートに合流している。この長城は九辺鎮の8番目にあたる固原鎮に属し、現在、固原の北郊を東西に長く走る長城としてその偉容を見ることができる。オルドスの南辺に位置する定辺県に発し、南下して固原に至り、さらに西進して蘭州北郊をかすめて河西回廊の武威にまで延びているのだ。固原鎮の総延長は約450キロで、元朝の崩壊とともに北帰したモンゴルがふたたびオルドスに南下したため、明朝が西安府を防衛する目的で築いたものであることは言うまでもない。
ゴビをのたうつ山丹の土長城
武威の長途客運站(長距離バスセンター)を出発したバスは、河西回廊の蘭新公路を武威から山丹にむけて疾走する。「蘭新」とは蘭州の「蘭」と新疆ウイグル自治区の「新」のことで、ウルムチ経由カザフスタンやキルギスなどの中央アジア諸国に通じる大動脈である。砂漠のオアシスをいくつかやり過ごしていく。街並みが終わると樹林や牧草地が少なくなり、やがて石ころだらけの荒野になる。さらに走ると、ふたたび草木が深くなって集落があらわれる。古来、西域の広大な沙漠地帯はオアシス都市で結ばれ、そこを人がたどって東西の文化が交流した。
△山丹長城。内蒙古とゴビの境をなす山並みが幾重にも重なって美しい
右手の車窓には内蒙古自治区との境をつくる山並みが幾重にもつらなり、そのふもと近くを長城が西進している。土長城である。渤海湾沿いの山海関以来、農業と遊牧の境域地帯を進んで漢民族の居住地域を遊牧民の襲撃から護ってきた長城が、ここにきてなぜ農業遊牧境域地帯の西北に位置するゴビに侵入してきたのか。それは、古来、漢民族王朝が西域に興亡した西遼(カラ=キタイ)や西夏などを激しく恐怖し、みずからを防衛し、西域との交易路を確保するための戦略構築物として長城を位置づけてきたからだろう。砂漠を驀進する細長い長城は、まるで砂礫の原野をのたうつ巨龍が周辺の異民族を追い払っているかのように見える。バスの左手後方には、残雪に輝く祁連山脈の雄姿がいつまでもあとを追ってくる。この山は漢民族居住地域から吐蕃を退けた天然の要害であったのだろう。
山丹まであと10数キロという辺りで、高速道路と長城が交差している。このため巨龍の腹部はぽっかりと削りとられ、そこを蘭新公路が貫通していく。切断された場所は長城口と名付けられ、あたかも以前からあった名勝のように装われている。世界遺産を破壊して道路を通したので、現代になってその照れ隠しに付けた名前にちがいない。
△山丹市街。土が露出した空き地で屋台が店を開いている。大きな「鑲牙」(入れ歯)の看板がおもしろい。中国の田舎では、露天の歯医者はめずらしくない
蘭新公路を降りたバスは山丹の街区に進入していく。山丹は古名を「甘州」と称した張液に属する小県である。張液の西には夜光杯で有名な酒泉があり、そこは近代以前まで「粛州」とよばれた。甘粛省はいまでこそ省都を蘭州に置いているが、軍事戦略の上で西域経営が必須だった過去の時代においては、この地域の中心はあくまでも甘州と粛州だった。現在の甘粛という省名がこれら2都市の頭文字を冠していることからもその重要性を見てとることができよう。
長途客運站にほど近い山丹賓館に旅装を解き、付近の散策にでかける。歩いてまわることができる規模の町らしい。中国の中小都市がどんどんコンクリートやアスファルトで覆われていくなかで山丹にはまだあちこちに土の地面が残り、そこに露天商が店を開いて客を集めている。むかし懐かしい中国の風景だ。ファストフード店に入る。メニューを見ると、伽哩飯(カレーライス)があるではないか。ずっと粉食地域を旅してきたので、米飯が懐かしい。山丹は輪郭のはっきりしない田舎町なので、カレーライスの想い出だけが深く印象に残っている。
△ゴビをうねる山丹長城。張液にむかう蘭新公路沿いを巨龍のような長城がうねっている
翌日、張液にむかう公路の左手にも土長城がうねっていた。山丹は西域における長城の宝庫といえよう。バスに乗ってそんな風景をながめていると、自然環境が苛酷な砂漠の道行きを巨龍が並走してくれているような気になってしまうのだ。
〔参考文献〕
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)
景愛『中国長城史』(上海人民出版社、2006年)
譚其驤主編『中国歴史地図集』元・明時期(中国地図出版社、1982年)
中国地図出版社編『甘粛省地図册』(中国地図出版社、2002年)
中国地図出版社編『陝西省地図册』(中国地図出版社、2001年)
中国地図出版社編『寧夏回族自治区地図册』(中国地図出版社、2003年)
護雅夫『李陵』(中公叢書、1974年)