▲慕田峪長城。薊鎮に属し、北京郊外にある外長城
◀万里の長城全図(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より)
中国の歴代王朝は、あたかも文明の配電盤のようにユーラシア大陸の東半分に興亡した。中国側の呼称になる東夷、西戎、南蛮、北狄の周辺諸民族があびるようにその恩恵を受け、独自の文化を育んだのはいうまでもない。西や南の諸民族は陸と海のシルクロードからこれに浴し、北方民族はユーラシア大陸の東半分を南北に画する万里の長城を介して中華の文明を享受したのである。万里の長城は農耕と遊牧の諸民族が攻防した歴代の古戦場として知られるが、そうした戦役だけではなく、影の部分では異民族間の知的な往来が頻繁におこなわれてきた。古来、ユーラシア大陸は農耕民族と遊牧民族の南北交流で文明が沸騰し、同時に東西をむすぶムーブメントが発生した。その意味で、長城は水陸のシルクロードと同じように、文明の伝達装置でもあったのだ。
これから渤海の沿岸に築城された山海関を起点に、万里の長城がゴビの砂漠に消える玉門関のむこうまで中国大陸を横断する旅に発つ。その前に、ここで万里の長城のあらましをおさらいしておこう。
長城の起源
現存する長城はその大半が明代に修築されたもので、中国の大地を東から西に貫いている。朝鮮国境を流れる鴨緑江畔の丹東市虎山から渤海湾沿いの山海関を経て西の果て嘉峪関に達し、柳園と敦煌の中間にある漢代の西湖長城、敦煌郊外の玉門関へと続く。漢代長城はそこからさらにゴビを東西に横切ってロプノール方面に延び、魔鬼城の風化土堆群を越えてタクラマカン砂漠に消える。
▲張家口の旧市街。この街の北郊外に宣府鎮に属する大境門がある
長城の起源には諸説がある。それを大雑把にまとめると、紀元前に戦国の七雄と称された秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓などの有力諸侯が他国との境に国垣を築いた。中国最初の統一王朝といわれる秦がそれらを連結して、北に展開する遊牧民族の撃退に使ったということになる。
これから万里の長城の全線を鉄路と路線バス、そして徒歩でたどってみよう。その途上にはおよそ7~10キロおきに「関」とか「口」、あるいは「堡」、「営」、「屯」、「台」などとよばれる関所が連なっている。嘉峪関、喜峰口、横城堡、安辺営、開州屯、司馬台などがそれだ。「関」や「口」は北方遊牧民族との通商や交通、あるいは軍事の要衝だった。周辺には互市が公設され、平時には遊牧や農耕で産した物資の交易が行われていたのである。長い歴史のなかで、平時はいくさに明け暮れた戦時にくらべてはるかに長いことは言うまでもない。「堡」や「営」、「屯」、「台」はその字が示すとおり、北方の辺境防衛に従事した屯田兵の駐屯地、あるいは見張り台のことであろう。
辺境防衛としての九辺鎮
明代の軍事行政区画に「九辺鎮」とよばれる地域防衛システムがあった。九辺鎮は東から、遼東鎮、薊鎮(河北省漁陽古地、および北京郊外)、宣府鎮(河北省宣化)、大同鎮、山西鎮、延綏鎮(陝西省延安、綏徳)、寧夏鎮、固原鎮(寧夏南部)、甘粛鎮に大別される。九辺鎮とは、辺境における九つの軍事防衛ラインとでもいう意味で、古来、北方から漢民族居住地域に侵入を繰り返した遊牧民族を撃退するための防衛線だった。
安徽省の貧農の家に生まれ、元末の紅巾の乱から身を興した朱元璋は揚子江一帯を平定して蒙古軍を中国から駆逐すると、南京で帝位(洪武帝)に就き、漢民族を主体とする国家、明を建国して中華を統一した。その後、東は遼東から西の甘粛まで版図を広げたが、それは同時に長大な西北地域における軍事防衛ラインの再構築をせまられたことを意味する。この防衛線の整備に乗り出したのが明朝三代目の皇帝、永楽帝である。
▲得勝堡全景。大同鎮に属し、屯田兵の兵営だったところ
東端の遼東鎮は、鴨緑江口から瀋陽を経由して山海関までの区間で、このことから明代には山海関以東の朝鮮国境にある鴨緑江口まで長城がのびていたことがわかる。全長は1950余里(1里=0.5キロで換算すると975キロ)と長大だ。
薊鎮は河北省の渤海沿岸にある山海関から漁陽古地を通過し、北京郊外の居庸関まで約1200里(=600キロ)の区間を指す。途中には角山長城、喜峰口、黄崖関、司馬台、金山嶺、古北口、慕田峪、八達嶺などが展開し、長城の白眉と賞讃しても言いすぎではない雄姿を見ることができる。
宣府鎮は居庸関から河北と山西の省境を流れる西洋河(陽高県)沿岸に到る区間で、全長は1023里(=512キロ)に達する。沿線には紫荊関、倒馬関、独石口、宣化古城、張家口(大境門)などがある。京師(首都)防衛の要で、長城は幾重にも張り巡らされ、突破は困難を極める。独石口は長城の北限として注目すべきだろう。
大同鎮は山西と察哈爾右翼前旗(内蒙古自治区)の省境にある鴉角山から鎮口堡(天鎮県東北)までの647里(324キロ)区間で、察哈爾の遊牧地帯から襲来する騎馬民族を撃退するために設けられた。沿線には平遠堡、威遠堡、得勝堡、新栄長城などが認められる。
山西鎮は南下する黄河の沿岸に設けられ、偏関から保徳までの254里(127キロ)区間で、長城が深い山谷で黄河を渡りオルドスに進入する絶景が眼前に広がる。
延綏鎮は楡林鎮とも称され、保徳から黄河を渡り、対岸の清水営(陝西省府谷)から花馬池営(大塩池=寧夏回族自治区)までの1200里(600キロ)で、途中には神木長城や鎮北台(楡林郊外)、靖辺営、定辺営などオルドスと陝西の境域に展開する長城や烽火台(烽素燧=狼煙台)などを望むことができよう。
▲得勝堡。内部は土色の街で、街路は碁盤目状に整然と仕切られている
寧夏鎮は大塩池から南の固原方面、西北の霊武市(銀川南郊)に向かう複数の長城を有する。そこから賀蘭山麓をかすめて黄河沿いに西南の喜鵲溝(寧夏中衛と甘粛白銀の境界を流れる黄河南岸)まで2000里(1000キロ)の区間を指す。延綏鎮の南辺から寧夏鎮にかけては内外に平行して大小2本の長城が走り、防衛の要衝であったことがわかる。
固原鎮は陝西省の定辺営西南から花馬池(大塩池)の南郊を経由して甘粛の靖遠北郊に至り、黄河東岸を南行して蘭州西方をかすめ、洮河が黄河に合流する辺りまでの1千里(500キロ)区間を指す。長城本線から西南に延びた支線で、往事の辺境防衛の複雑さが窺えよう。
最後は甘粛鎮だ。蘭州北郊から出発した長城の支線が寧夏との省境にある白銀市の景泰県で長城本線と合流し、砂漠地帯を西北方向に驀進する。河西回廊を武威、山丹、張掖、酒泉と進み、明代長城の終着地である嘉峪関に至る1600余里(800キロ)の区間である。砂漠を走る長城の北には甘粛と内蒙古阿拉善左旗、右旗との境を劃す阿拉古山や合黎山の山並みが幾重にも展開し、南には万年雪を冠った祁連山脈が白く輝いている。
農業遊牧境域地帯と烽火台
長城に登って南北の大地を眺めてみよう。薊鎮から山西鎮あたりまでは、南の沃野に田畑が整備され、農耕が営まれている。北の大地に視線を転じると、そこには草もまばらな縹渺とした遊牧地帯が広がっていることが多い。長城は農耕と遊牧の境目を貫通する農業遊牧境域地帯のど真ん中を走っているのだ。この農業遊牧境域地帯は驚くことに広大なユーラシア大陸の東岸から中央アジアを突っ切り、アフリカ大陸の西岸まで続いている。
多くの人たちがイメージする長城は北京の八達嶺や居庸関の雄姿が一般的だが、あれは内長城とよばれる第二線、あるいは第三線の建造物で、遊牧世界と直接に境を接する第一線の外長城ではない。北京を北方の異民族から防衛するため、堅牢な長城は京師(首都)を二重にも三重にも取り囲んでいた。長城の「城」という字に日本語の「城」というイメージは薄く、むしろ壁(ウォール)という意味に近い。万里の長城が英語でグレート・ウォールと称される所以である。
▲新栄長城の烽火台。得勝堡から西に数キロ離れたところにある
壁としての長城はそれだけでは軍事防衛施設としての役割を充分に発揮することはできない。長城に数百メートルおきに構築された敵楼(見張り台)に充分な兵員が任務に就き、同時に必要な武器を備えていることが求められる。ここで見張りに当たる兵隊は敵の襲来を察知すると間髪を入れずに直近の烽火台(烽燧台=狼煙台)に連絡して昼間は天高く黒煙をあげ、夜間には火を焚いて近くの軍隊駐屯地に知らせた。黒煙や火を焚く原料には、狼の糞が使われた。肉食動物である狼の糞には油分が多く含まれているので燃やすと油煙を含んだ漆黒の煙を放ち、炎は勢いよく燃え上がったからだろう。烽火台から上がる煙や火に「狼煙」の二文字が当てられた所以である。
烽火台から狼煙の連絡を受けた軍隊の駐屯地は関城とよばれた。一辺が数百メートルの城壁で囲まれた関城には敵楼で任務に就いている以外の大量の兵員が控えており、平時には農作業などをして食糧の一部を自給した。長い堅牢な壁としての長城に見張り台、敵の襲来を知らせる狼煙台、そして敵を撃退するための兵隊が駐屯する関城が揃って、長城はその防御能力を存分に発揮することができたのである。
長城の総延長
すでに述べた九辺鎮の距離を区間ごとに足し上げていくと、その総延長は5438キロになる。これが永楽帝の号令で築かれた明代長城の長さだが、それは長城研究者によって計算の根拠が違うので数字は微妙に異なる。
現在、歴代の長城の遺構も多数残っており、中国文物研究所の景愛研究員は紀元前の戦国長城=8186キロ、秦始皇長城=7860キロ、漢代長城=8057キロ、北魏長城=1602キロ、東魏長城=100キロ、斉長城=810キロ、隋代長城=1022キロ、唐代長城=464キロ、遼代長城=5キロ、金代長城=213キロと計算している。
▲山丹長城。武威と張掖の中間の蘭新公路沿いにある土長城
歴代王朝の長城はそれ以前の時代に築かれた長城を修築して繋げながらその時々の辺境防衛の必要に応じてルートを一新しているので、いったい各時代の長城の総延長がどのくらいになるのか算出するのは困難をともなう。敦煌博物館で長城研究をする学芸員によれば、重複する区間を差し引いた歴代長城の総延長は約1万2000キロに達するという。妥当な数字であろう。1里を500メートル(商務印書館編『古代漢語詞典』2006年)とすれば、1万2000キロは2万4000里という計算になり、まさに万里の長城という表現が相応しい。
〔参考文献〕
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)
羅哲文『長城』(清華大学出版社、2008年)
景愛『中国長城史』(上海人民出版社、2006年)
董耀会『長城万里行』(河南科学技術出版社、1988年)
妹尾達彦『長安の都市計画』(講談社選書メチエ、2001年)
青木富太郎『万里の長城』(近藤出版社、1972年)