キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第11回

米国生まれの「理想の教育」

ミズーリ州(赤の部分)の位置(nationsonline.org)ミズーリ州(赤の部分)の位置(nationsonline.org)

 米国中西部のミズーリ州はアメリカの中央部、体に例えれば「へそ」に位置し、国を南北に貫く大河ミシシッピ川の西側に開けた土地である。ミズーリ・インディアンの部族名に由来するこの地は1821年10月、合衆国第24番目の州に昇格した。当時のミズーリは「フロンテイア(辺境)」、つまり大西部への入口だった。この地には、1845年から始まったアイルランドのポテト飢饉により米国にやって来たアイルランド人や、1848年3月にドイツ各地で起きた争乱(市民革命)を逃れたドイツ人が多く移り住み、やがて大豆やトウモロコシを中心とする平原の豊かな穀倉地帯へと発展していった。また、1848年にカリフォルニアで金鉱山が発見されると、アメリカの人々はこの州を基点に、西へ西へと移動し始める。

ミズーリ州の拡大図(nationsonline.org)ミズーリ州の拡大図(nationsonline.org)

 辺境の地ミズーリ州を象徴するものに「ポーニー・エクスプレス」がある。同州からカリフォルニア州までの約3100キロメートルの区間を、駅伝のように馬で190の駅をリレーして10日間で郵便物を輸送する仕組みで、1860年4月から始まった。西部劇の題材にもなっているこの郵便配送網を担うライダーたちは、月給125ドルと記録されており、当時としてはかなりの高給取りだったようだ。

ポーニー・エクスプレスを描いた切手(Public Domain)ポーニー・エクスプレスを描いた切手(Public Domain)

 矢多一生の心を魅了した同州の教師マリー・ターナー・ハーヴェイ(1869-1952)が、自ら希望して同州北東部アデーア郡ポーター地区のポーター・スクールに赴任したのは1912年(大正元)夏。同校は、一教室で日本の小中学校にあたる一学年から八学年までの児童生徒が一緒に学ぶ複式学級校だ。典型的な農村の小学校で、築後20年たっていたが一度も修理の手が入らず、校舎は屋根に穴があき、壁土ははがれ落ち、床板もあちこちはがされていた。暖房用石炭ストーブは部屋の半分しか温めることができず、しかも煙が教室にこもるという惨たんたる有様。教室の黒板は取り付けた位置が高すぎて低学年の子どもには届かない状態だったという一事からしても、教育環境に心が配られていなかったことは歴然としていた。井戸も便所も使える状態ではなく、窓ガラスは割れてカーテンもなく、なにより一冊の本さえなかった。近くを州道や鉄道が通っているため、夜になると行商人たちが教室に侵入して宿泊所代わりに使うのが常態化し、荒れるにまかされていたのである。こんなありさまだから、教師は一学期勤め上げるのがやっとで、一年間続いた教師は一人もいなかった。

ポーニー・エクスプレスを描いた路線図(Public Domain)ポーニー・エクスプレスを描いた路線図(Public Domain)

 学校が荒れ果てているからといって、広さ23平方キロメートルのこの地は決して貧しい寒村ではなく、むしろ郡内でも最も豊かな地域だったのである。1830年代に白人が入植し始め、石炭鉱山開発に取り組んだ地区の有力者ジョン・ポーターが、中心部に約4000平方メートルの学校用地を寄付して1892年に開校した。ハーヴェイがやって来た当時は約30世帯がトウモロコシ栽培や酪農で暮らす、働き者が多い裕福な土地だった。ただ、平原で土地が広く、隣の家まで2キロメートルや3キロメートルの距離というのが普通で、まとまった集落というものがない。日ごろ隣人と言葉を交わす習慣もなく、コミュニティー意識が生まれようがなかったのだ。

マリー・ターナー・ハーヴェイとポーター・スクール(Truman State University)マリー・ターナー・ハーヴェイとポーター・スクール(Truman State University)

 当然ながら、人々の目は東へ約5キロメートルのアデーア郡の中心都市、カークスヴィルに向かう。地区に五つも小さな教会があるのに、日曜礼拝は多くの人が集う町の教会へと通う住民が多かったのである。ポーター地区の親たちは自分たちが暮らす土地や学校にまるで関心がなく、子どもたちをカークスヴィルの学校に通わせたがる家庭の方が多かった。ハーヴェイが赴任した時、この地区の就学児童は56人もいたのに、ポーター・スクールに通う児童はわずか7人に過ぎなかった。こんな荒れ果てた学校を希望したハーヴェイとは、どんな人物だったのだろうか。

 結婚前の彼女の名はマリー・ルイーズ・ターナー。同州セントルイスの農村で育ち農村の小学校で教育を受けたマリーは、同州カンザスの教育大学を卒業して教員資格を取得、セントルイスで教え始めると声望は一気に高まり、25歳にして年収1200ドルを支給される校長に選ばれた。セントルイス郡で3人目の女性教育指導者となったのである。当時の教師の年収は400ドルから600ドルとされていたから、いかに評価が高かったかがわかるだろう。

 教室で子供たちに直接教える機会がなくなると、彼女は教授法や教育カリキュラムの研究に取り組み、マサチューセッツ、ニューヨーク、アイオワなど各州の教育機関が開催する夏季研修コースに参加するようになった。そして講義に出向いたカークスヴィル・ノーマル・スクール(教員養成校)で、数学教授のヘンリー・クレイ・ハーヴェイと知り合い翌年結婚、カークスヴィルで暮らし始めたのである。

 この地でマリーは様々な女性団体のリーダーとして活動し始め、次第に都市の学校と農村の学校の格差に目を向けるようになる。そうした折、ポーター・スクールに子どもを通わせている教育熱心な家庭からの相談を受ける。彼らは「都市の学校に通う子供たちが、農村の心を失いつつある」と危機意識を持っていたのだ。

 若くして名声を確立してからも指導法の研鑽を重ね続け、四十代半ばの知力気力とも充実して農家の発想や行動様式を知り尽くした超ベテラン教師が、月給50ドルという新米教師のような報酬で、満を持して乗り込む覚悟を固めたのである。

矢多一生が読んだ『ハーベー先生』(筆者撮影)矢多一生が読んだ『ハーベー先生』(筆者撮影)

 マリーは、郡の教育委員会と交渉し「3年間、学校運営の完全な自由裁量を認める」という条件と、「集落内に教師用の住宅を確保する」という、二つの条件を認めてもらう。マリーの取り組みで、同校は一年にして一躍全米の農村教育の理想モデルとなり、日本を含め世界各国から視察団が訪れるまでに発展した。

 矢多一生がポーター・スクールのことを知ったのは、山形県出身の教育社会学者、田制佐重たせいすけしげの著作、『ハーベー先生──小学校を中心とする理想的農村の建設者』(文教出版、大正15年2月刊行)を、出版後間もなく手に入れたことによる。田制は当時、幼児教育の祖であるドイツのフレーベルやフランスの啓蒙思想家にして教育家のルソーなど、教育学に関する著作をたくさん出版しており、師範学校の学生にはよく知られていたのかもしれない。同書は1919年にニューヨークの出版社が刊行したエヴェリン・デューイの著書『大人のための学校-ポーター・スクールの再生』を全面的に下敷きにしている。当時、日本は慢性的な不況で農村は疲弊し、全国的に労働争議が頻発するという社会不安が高まっていた。田制はポーター・スクールの実践に学び、農村教育のあり方を示したいとの思いから執筆したようだ。ただ、田制がポーター地区を「寒村」と訳したのは、米国の農業事情に疎かったためと思われる。

ハーヴェイへの傾倒を示す矢多の書き込みハーヴェイへの傾倒を示す矢多の書き込み

 矢多は1930年(昭和5)3月に台南師範学校を卒業しているが、同書を入手したのは在学中のことだ。矢多が所持していた本には、矢多の感想がびっしりと書き込まれ、傍線も至る所に引かれている。矢多の肉筆は、この本への書き込みと獄中から家族に当てた書簡しか残っていない。矢多は同時代の記録である『ハーベー先生』に鉛筆で60箇所にも及ぶ書き込みをしており、ほとんど全てのページといっていいくらい文章に傍線を引いている。

 メモには日付を打っているものもあり、一番古い日付は「昭和三年一月二十七日」。書き込みのある矢多の蔵書は、台湾で矢多研究を最初に手掛けた陳素貞がコピーして装丁し『ハーべーせんせい』と題した冊子に仕立てている。矢多の書き込みは文字が小さく不鮮明なところが多いが、判読できる部分は農村教師を目指す矢多の心の躍動をたどる貴重な資料といえる。また日付が時系列ではないのは、何度も読み返して感想を書き込んだことを裏付けている。

 同書の最初の方では、矢多は「自分が赴任したら生徒数が俄かに増えるだろうか」、「果たして真実に自分の赴任を期待しているだろうか?」と不安な気持ちを素直に書き込んでいる。しかし、読み進むうちに気持ちが高ぶり「吾が村は若い 吾が村は天恵に富んでいる 故に血潮に燃ゆる如き意思を以て祖先伝来の美しき耕地を耕して耕して耕して遂に無尽蔵なる黄金をみたし…」と村の発展の姿を描いたり、「理想の自治的模範農村は今や阿里山の森林麓に建設されん」という決意を高らかに宣言した個所もある。これほどまでに青年・矢多の心をわしづかみしたハーヴェイは、一体どんな学校運営の取り組みを重ねたのだろうか。また、彼女の業績を紹介したエヴェリン・デューイという女性は、どんな人物だったのか。次回に詳しく紹介したい。

 

【主要参考文献】
◎ “New Schools for Old” Evelyn Dewey(E.P. Dutton & Company)
◎ “The Early Biography of Marie Turner Harvey, Kirk’s Protege”(Truman State University’s Special Collection)
◎『ハーベー先生』田制佐重(文教書院)
◎『ハーベーせんせい』陳素貞編

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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