キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第01回

プロローグ

言語調査のため阿里山を訪れた淺井恵倫・台北帝国大学教授が撮影した矢多一生(南天書局)言語調査のため阿里山を訪れた淺井恵倫・台北帝国大学教授が撮影した矢多一生(南天書局)

 2010年元旦の夜。NHKラジオの「関西発ラジオ深夜便」は、いつものようにアンカー西橋正泰アナウンサーの穏やかな語りかけで始まった。日付が変わった2日午前1時台のサウンドオアシスは、特集「『一握の砂』と日本の抒情歌」だった。石川啄木の短歌集『一握の砂』が1910年に刊行されて百年の節目に当たり、啄木の詩の朗読とバリトン歌手山本健二の新CDアルバム『潮騒のうた』収録の曲とを交互につづった企画。その中の五曲目に聴く人を少なからず驚かせたであろう曲があった。曲の紹介はこうだ。

 「今度は『長春花・フロクスの花』です。この歌を作詞作曲したのは、台湾の高一生こういっせいです。高一生は台湾の先住民族ツォウ族の指導者で、蒋介石政権に反乱罪をでっちあげられ1954年に処刑銃殺されました。45歳でした。高一生は一番の歌詞を残し、二番、三番は後に竜口英幸がつくりました」

 窓辺に咲いたフロクスの花よ
 麗しい姿微風に揺れる
 ああ麗しい
 フロクスの花よ
 君に捧げる山々を越えて

音楽著作権を所有するヤマモト音楽事務所のご許可を得て楽曲をここに掲載します
上記プレイヤーからご聴取ください

 優美でやすらぎに満ちた歌曲は、艶やかで深く張りのある山本の歌声と相まって、新しい年を迎えた深夜の日本列島を温かく包んだ。日本ではほとんど無名の存在である高一生の歌曲がなぜ「日本の抒情歌」として紹介されたのか。それは、高一生がかつて矢多やた一生かずおと名乗った元日本人、日本統治下の台湾で日本の教育を受け、和歌や音楽に親しんだ先住民の俊英だったからだ。台南師範学校を卒業して教師の免許を取得すると故郷に戻り、学校で子供たちを教える傍ら派出所で巡査を務め、青年団の指導者としても生活改善運動や農業振興に取り組んだ。日本の敗戦で重圧から解放された高は、全先住民の指導者としてそれまで胸に秘めて温め続けて来た理想に向かい、先住民の結束と自治を目指す運動を提唱し始める。

祝山の展望台(標高2451m)から望んだ阿里山の森林地帯(筆者撮影)祝山の展望台(標高2451m)から望んだ阿里山の森林地帯(筆者撮影)

 ツォウ族が領域とする阿里山は、一つの山ではなく台湾中西部にある森林地帯を指す名称だ。台湾には、全島を南北に貫く脊梁山脈を中心に標高3000メートルを越える高山が255座も連なる(高雄市山岳登山協会)。そのほぼ中央にそびえるのが台湾の最高峰、標高3952mの玉山ぎょくさん(ツォウの言葉でパトゥンクオヌ)である。日本統治時代は新高山にいたかやまと呼ばれていた。ツォウ族は玉山を故地とする伝承を持ち、この玉山から西側に阿里山の原生林群が広がり、さらに、阿里山の森林地帯が西に向かって傾斜する標高800メートルから1500メートル辺りの丘陵地帯が高一生の故郷である。

台湾の最高峰・玉山(ツォウ語でパトゥンクオヌ/写真は台湾観光局より)台湾の最高峰・玉山(ツォウ語でパトゥンクオヌ/写真は台湾観光局より)

 実は、青年・矢多一生の肉声が日本へ向けてラジオで実況放送されたことがある。1936(昭和11)年12月13日、台湾放送協会台北放送局(JFKA)が午後6時半から放送した番組に出演したのだ。先住民の若者四人、タイヤル族の馬場武、ブヌン族の加藤直一、ツォウ族の矢多一生、パイワン族のラホロアン・ジプランが出演し、話と歌を披露した。この時28歳の青年・矢多は台南州嘉義郡達邦青年団長としてツォウ族の信仰、内地人(日本人)との関係、村の農業互助活動などについて語っている。電波はNHK熊本放送局が中継して日本全国、さらに中華民国や満洲国まで届いた。初めて耳にする台湾先住民の若者たちの声、しかも流暢な日本語による堂々とした意見表明は大きな反響を巻き起こした。台北放送局には早速大袋入りの内地便が届いた。台湾総督府警務局理番課が発行した「理蕃の友」に掲載された反響の手紙から一部を紹介しよう(原文のまま)。

「只今島民青年諸君の放送を聴いて感銘多大、乃ち聊か四君に敬意を表し度く拙著四部別封にて發送仕候」(評論家・高島米峯氏)、「今夕御局全國中継相成候ひし馬場、加藤、矢田三氏御住所御示教相賜り度右御依頼申上候」(釜山府・今田亮平氏)、「十二月十三日の夜 ハルバルと臺北の彼方からなつかしいお話を聞かして戴きまして有難う存じました。ほんとうになつかしい兄弟に會ふような気持でした」(水戸市役所・大高實氏)、「只今ラヂオを通じ御地の特殊事情の一端を承はることが出来まして誠に有難う御座いました。吾々同胞である貴種族の方々を、皆さん方の様な日本内地の人と異ならない方にまでご指導くださる方は、大變な御努力が要つた事と存じ感激にたへません」(満洲國撫順・池田氏)

 番組の伏線は前年の1935年(昭和10)にある。台湾統治40周年を記念した台北博覧会開催中の10月末、台北市の警察会館で初の「高砂族青年団幹部懇談会」が開かれたのだ。「高砂族たかさごぞく」とは、皇太子時代に台湾を訪問した昭和天皇が台湾先住民について命名を求められた際に「高砂族」がよろしかろうと助言し、誕生した名称だ。琉球語で台湾を指す言葉「タカサング」と、能や謡曲の定番で祝意を込めた「高砂」を融合させたようだ。

台北放送局から実況放送する先住民の若者たち(右から二人目が矢多。「理番の友」より)台北放送局から実況放送する先住民の若者たち(右から二人目が矢多。「理番の友」より)

 台湾では現在、元からずっと住んでいる人々の意味を表す「原住民族」との政府の公式用語を用いる。漢語で「先住民」とすると「昔はいたが、今はいない」という意味になってしまうからだ。行政院原住民族委員会が原住民族と認めたグループは16族、2020年8月時点での人口は約56万4千人である。高一生が出自とするツォウ族は6710人という少人数の民族である。台湾の先住民は太平洋全域の島々やフィリピン、インドネシアなどの民と共通性を持つ「オーストロネシア語族」に括られ、台湾では現在失われている言葉も含め26の言葉が分類されている。民族ごとに言葉が異なり、話し言葉はあるが文字は持たなかった。彼らは山地の猟場や境界をめぐって互いに激しい抗争を続けて来た人々である。

 懇談会に出席した32人の青年は、台北帝大の教授陣や警察官僚を前に、習い覚えた日本語で互いの将来の抱負を語り合った。この懇談会は、台湾の先住民の間で名実ともに日本語が共通語となったことを世に知らしめた画期的な出来事だった。翌年の放送は、生の声で内地の日本人にこのことを知らせた、輝かしい瞬間だったのである。

 だが、日本が育てた台湾の俊英ゆえに、敗戦で日本が去った後の彼らには、苛酷な運命が待ち構えていた。
 日本の円滑な戦後統治のため、米国第33代大統領ハリー・トルーマンは1945年8月14日付で、米太平洋陸軍司令官のダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命、日本は9月2日に降伏文書に調印し、日本政府と軍は最高司令官の管理下に置かれた。極東に平和が戻ってくると世界が期待したが、そうはならなかった。同日、マッカーサーの参謀長リチャード・サザーランドが発出した総司令部(GHQ)一般命令第1号は日本軍の降伏手続きの相手先として「満洲を除くチャイナとフォルモサ(台湾の美称)は総統・蒋介石、朝鮮半島の北緯38度線以北と満洲はソヴィエト極東軍最高司令官、北緯38度線以南の朝鮮、琉球諸島、フィリピン諸島は米太平洋陸軍最高司令官」と命じた。満洲ではソ連軍は接収した武器や装備を共産党軍に引き渡し、日本の占領地では共産党軍の朱徳らが直接日本軍から武器を接収するという事態も起きて、国民政府軍と共産党軍の軍事バランスが逆転し始めた。蒋介石の国民政府軍に追われ、延安の辺境に逃げ込んでいた毛沢東に曙光が差し始めたのである。また、降伏手続きのために設定した朝鮮半島の北緯38度線は、南北分断の出発点となってしまった。蒋介石は1945年8月末、福建省主席を務めた陳儀を台湾省行政長官に任命、彼は10月24日に台北に赴任し、翌日、中華民国政府と連合国の代表として日本軍との降伏文書調印式に臨んだ。そして、国民党政府はそのまま台湾に居座わり、軍権がすべてを支配する戒厳令を38年間も続けるという、世界に例のない苛政を敷き、台湾の民にとって暗黒の日々が始まったのである。

 今日、多くの日本人にとって台湾は人気の観光地だが、台湾の歴史、とくに先住民の指導者たちのことはほとんど知られていない。日本と台湾との結びつきを辿りながら、日本が育んだ無垢な魂の持ち主、音楽と家族と自らの民族をこよなく愛した高一生の物語をこれから始めよう。

(文中敬称略)

 

〔主な参考文献〕
◎『理番の友 第四年十一月号、第五年十二月号』臺灣總督府警務局理番課
◎『原語による台湾高砂族伝説集』台北帝国大学言語学研究所(南天書局)
◎ “General Order No.1 Office of the Supreme Commander for the Allied Powers” 国立国会図書館デジタルコレクション

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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