キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第20回

高一生、蒋介石にまみえる

梅原龍三郎の代表作の一つ「北京秋天」(東京国立近代美術館所蔵。写真:Momat.go.jp)梅原龍三郎の代表作の一つ「北京秋天」(東京国立近代美術館所蔵。写真:Momat.go.jp)

 北京は、モンゴルの青き狼ジンギス・カンの孫、クビライ・ハーンが13世紀に建国した巨大国家、大元ウルスの冬の都である。「大元」とは「おおいなるもと」つまり「天」を指す。「ウルス」は「国」、「天の国」との命名はクビライの国づくりへの意気込みを示している。人種を問わずブレーンを集め、イスラム商人のネットワークを重用したクビライは、夏は内モンゴルの草原に築いた都・上都で過ごした。宮廷も官僚も軍隊も、年に二回、北京と上都の間を大移動したのである。更地に巨大な湖や草地を配しモンゴル高原の雰囲気に似せ、「大都」と命名した北京の地は、統治者たちには夏は耐えがたく暑かった。

 北京の美しさを表す代表的な言葉が「北京秋天」だ。うだるような暑さに包まれる北京のどんよりとした夏空に、一度モンゴル高原からの冷気を含んだ秋風が吹き込むと、空は表情を一変させどこまでも青く澄み渡る。画家・梅原龍三郎は1942年、その美しさを画布に描き「北京秋天」と題した。梅原は「秋の高い空に興味を持った。何だか音楽をきいているような空だった」と述懐している。

中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東(写真:bbc.com)中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東(写真:bbc.com)

 梅原の制作から7年後の1949年10月1日、天安門の楼上に立った毛沢東・中国共産党中央委員会主席は、甲高い声で高らかに中華人民共和国の建国を宣言した。

 しかし、まだ国民政府軍(以下「国府軍」)との内戦は続いていた。前年11月に吉林省の省都・長春(旧満洲国首都・新京)で国府軍が降伏し、12月に共産党軍が北京に入城すると、両軍の戦いは次第に南西部の大河・揚子江へと舞台を移す。1949年に入り国民政府が2月に広東に移転すると、これを追う共産党軍は4月に揚子江を渡って南京に入城した。蒋介石の経済的命脈を握る上海も5月下旬に陥落すると、国民政府は揚子江を遡って10月に四川盆地の東の入口の大都市・重慶に都を移し、重慶が陥落すると11月に四川省の成都に移った。内戦の経過は、上海を拠点とする揚子江以西勢力と、北京を拠点とする黄河側勢力とのせめぎ合いととらえると、理解しやすい。

共産党との和平協議に当たった李宗仁総統代理(写真:kknews.cc)共産党との和平協議に当たった李宗仁総統代理(写真:kknews.cc)

 国府軍は、蒋介石率いる中央軍と地方軍閥の寄り合い所帯で、統制が取れておらず無能で腐敗も横行していた。アメリカの中国方面軍総司令官で1944年秋から蒋介石付参謀長を2年間務めたアルフレッド・ウェデマイヤー将軍は「蒋介石は孫文の教訓にしたがって、立憲政府を熱心に樹立しようとしている」と肯定的に評価しながらも、「国府軍には、大軍を指揮する能力のある将軍は、ほとんど見当たらなかったし、中国を統治するための、教育された行政官と専門家が極度に不足していた」と述懐している。国民政府は、はなはだ弱体な政権だったのである。

◇雲南軍の裏切り

 戦いながらも共産党は地方軍閥の切り崩し・抱き込み工作を進め、各地で投降が相次いだ。長春の陥落は、市民を巻き込んで街を包囲した林彪指揮下の共産党軍による食糧封鎖が引き起こした壮絶な飢餓と、雲南省から派遣されて来た第六〇軍の寝返りによる、最も悲惨な負け戦である。長春は廃墟と化した。戦闘が揚子江へ向かって西へ西へと移っている最中、雲南軍を率いる雲南省政府主席・かんは、8月には密かに周恩来に、寝返る意思を伝えていたのだが、「狡猾ではあるが優柔不断(蒋経国評)」な盧漢は、模様見を決め込んでいた。そうこうするうちに十数万の兵を擁し、蒋介石が最も頼りにしていた広西軍はほとんど戦わずして敗れ、11月にヴェトナムへと逃げ込んでしまう。

黄河と揚子江の位置を示す地図(写真:chugokugo-script.net)黄河と揚子江の位置を示す地図(写真:chugokugo-script.net)

 盧漢の裏切りを察知した蒋介石は雲南省に駐在する中央軍の部隊に攻撃を命じたが、軍団長たちは昆明空港を占領したところで引き揚げて来てしまった。国民党と共産党の双方に逮捕され監獄に入ったことで知られる大物記者・陸鏗りくこうは、この時の経緯を著書で紹介している。何と盧漢は、討伐軍の主力である第二六軍の軍団長・余程万を買収したのである。蒋介石は、申し開きに来た余程万を処罰せず、開口一番、こう尋ねた。「盧漢はいくらくれたんだ?」。余が「トラック4台分(の銀)です」と答えると、蒋介石は「盧漢にはあんなにしてやったのに、それっぽっちしかくれなかったのか。まあ、君たちが撤退してやったことは必ずしも間違いだったとはいえない。盧漢に貸しを作ったことになるからな」と言ったという。国府軍の体質を、これほど分かりやすく説明した逸話はないだろう。蒋介石はまだ反転攻勢の可能性を信じていたようだ。

 ところが盧漢討伐軍が引き揚げると、共産党軍はすかさず雲南省へ兵を進め、じわじわと成都の包囲網も狭め始めた。そして遂に1949年12月7日、国民政府は台湾省台北市に政府を移転すると発表したのである。直後の12月10日、蒋介石は成都の鳳凰山飛行場から台北市の松山空港に向かった。空港周辺は四川省の胡宗南が率いる部隊が守っていたが、敵軍はじりじりと空港に迫りつつあった。総統代理の李宗仁は、当事者としての職務をとうの昔にすっかり放棄しており、病気治療の名目で12月5日には香港から米国へ逃れていた。

◇共産党に和平協議提案

 命からがらの大敗走のように見えるが、実は違う。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの一般命令第1号は、台湾における日本の降伏手続き先を国民政府と指定、台湾の「代行管理」と日本軍の武装解除手続きを要請した。しかし、国民政府は当然の領土回復と決めつけ、台湾統治に乗り出して軍事基地整備も進めた。1946年10月21日、台北で“光復”一周年を祝う式典が開催されると、蒋介石と夫人の宋美齢が出席した。初めて台湾の地を踏んだ蒋介石は台中から景勝地の日月潭にちげつたんを訪れ、その美しさを「佳絶(この上ない美しさ)」と讃えて、「四十年革命に身を捧げ、日本と八年戦い、今遂に望みがかなった思いだ」と感慨をもらしたという。蒋経国も台湾の景色について「(故郷の)江南とそっくりだ」と日記に書き留めている。親子ともども、この地が気に入ったのである。

 この時以来、蒋介石親子は台湾と故郷の浙江省寧波の渓口鎮を本拠地として、足しげく台湾と大陸とを往復し、蒋介石は台北から7月にフィリピン、8月に韓国を訪問して両国の大統領たちとも会談を重ね、反共の姿勢を確認し合ったのだった。1948年8月からは空軍を台湾に移転させ、毎日50~80機の航空機が台湾海峡を往復、燃料や弾薬を運び込んでいた。海軍の艦船も26隻が移転済みだった。蒋介石は口頭による密命を発し、台湾統治の原資となる中央銀行の金や銀、米ドルを運び込ませており、国民政府の金庫は空になっていた。分かっているだけでも、金塊の量は約115㌧程度と見積もられている。

 1949年1月、中華民国総統・蒋介石は元旦の辞で共産党との和平を呼びかけた上で下野し、副総統の李宗仁が総統代理に就いて共産党との和平交渉に当たった。蒋介石は権謀術数の人物であり、国民党総裁という事実上のトップとして君臨、権力基盤は微塵も揺らいでいなかった。格下の李宗仁に和平協議という厄介な仕事を押し付け、身軽な立場を駆使して各地に督戦に赴きながら、台湾統治の準備を重ねていたのである。この年、上海陥落に備えた逃走手段確保のため、上海に近い浙江省舟山群島の中心地、定海に新たな空港を開港させている。大きな布石である。

 共産党との和平協議では、李宗仁は揚子江を隔てて国府と共産党が分割統治する提案を行ったが、毛沢東は揚子江を渡る原則を固持し、4月には50万の共産軍が江南に向かって進軍し始めて和平協議は破綻した。国民党台湾省支部主任委員の蒋経国は、既に家族を台湾に送っていた。この時点で、上海の呉淞ごしょう港から出港した国府軍は、既に30万人の兵士を台湾に運び終えていたし、立法委員(国会議員)や国民大会委員、政府の組織、故宮博物院や中央研究院、主要大学なども台湾入りを済ませていたのである。つまり、国の統治機構は引っ越しを終え、共産党軍との戦いだけが続いていたわけである。

◇戒厳令を敷いて台湾へ

 10月に入り、揚子江以西に配備されていた国府軍部隊は、台湾へ渡るため続々と福建省の厦門アモイに集結、ここから目の前の小島、金門島へ渡り強力な迎撃網を築いた。
 10月25日、海軍を持たない共産党軍は厦門で漁船を徴発して無謀とも思える上陸作戦を敢行、国府軍はこれを撃退して大勝利を収めた(古寧頭戦役こねいとうせんえき)。わずか3日間の戦闘で共産党軍の死者は国府軍の3倍強の約3900人に上り、5000人を越える兵が捕虜となった。この勝利により、国府軍は後顧の憂いなく金門島から台湾本島を目指すことができるようになったのである。

 蒋介石の布石のなかで、最高に効力を挙げたのは、中華民国憲法が1947年2月に施行されたことだ。憲法の規定通りに立法委員(国会議員)や憲法改正などを決める国民大会議員などを選挙で選出し終えており、民主主義の体裁を整えて共産主義勢力との違いを強調できる足場を固めていたのである。

 さらに、憲法を施行からわずか4カ月後に改正し、戒厳令という国家緊急権の施行を可能とする「動員戡乱どういんかんらん時期臨時条項」を制定し、これが5月10日に施行されたことは極めて重大である。「戡乱」とは反乱に勝利すること。総統には国防や治安の権限が集中し、国会や国民大会などの機能を停止させることができた。蒋介石は1949年1月に下野したが、蒋介石が最も信頼する腹心で台湾省主席の陳誠は、逸早く5月に台湾全島に戒厳令を敷き、蒋介石の台湾入りの準備を整え終えていた。戒厳令はこれから38年間も続くのである。

 蒋介石は1949年11月14日重慶に入った。共産党軍との戦いが大詰めを迎える時期の重慶に蒋介石が危険を承知で出向いたのは、四川省と雲南省に反転攻勢への望みをかけたからだ。蔣親子が重慶に腰を据えることで戦意が高まり奇跡が起きるかもしれないと考えたのだ、しかし、共産党軍の猛攻で12月1日に重慶は陥落、望みは絶たれたのである。こうして成都から台湾に逃げる他なくなった。

◇父は政権・息子は軍権

 蒋介石の重慶入りの少し前、蒋介石は国共合作を清算するある命令を下した。それは、日本と支那との戦いの最中に起きた世界を揺るがせた大事件、西安事変の最終決着をつけるためだった。西安事変を引き起こした軍閥の一人、楊虎城の処刑である。

西安事変を引き起こした楊虎城将軍(写真:kknews.cc)西安事変を引き起こした楊虎城将軍(写真:kknews.cc)

 1936年12月12日、共産党軍を北へと追いつめ、あと一歩で勝利をつかめる段階で督戦のため西安にやって来た蒋介石・国民党委員長を、張学良と揚虎城の軍が捕えて監禁、共産党との内戦停止と挙国抗日を要求し、国共合作へと向かわせたクーデターである。張学良は奉天軍閥を率いた張作霖の長男で、日本が父親を爆殺すると、28歳の若さで軍閥を引き継ぎ、やがて蒋介石の陣に加わった。揚虎城は陝西省出身で、西安を拠点とする西北部の軍閥の中心人物だった。二人は共産党との内戦に反対しており、張学良が周恩来と気脈を通じて反乱の筋書を練ったのである。西安事変は蒋介石が受けた人生で最大の屈辱であると同時に、共産党国家を誕生させてしまうことになる分水嶺であった。二人の身柄はこの時点で蒋介石の手中にあった。楊虎城については9月17日、重慶で家族とともに処刑、顔には硫酸をかけて判別できないようにしたのだという。もう一人の首謀者・張学良は軍事法廷で裁いた上で監視下に置いていたが、台湾に帯同し半世紀以上軟禁した。大陸の要人とのつながりが深く、秘密の情報交換のパイプとして利用できるとの判断だったのだろう。張学良は李登輝総統により事実上軟禁を解かれ、その後ハワイに渡った。

上陸阻止の杭が打ち込まれた金門島の海岸。対岸のビル群は厦門の市街(写真:clarin.com)上陸阻止の杭が打ち込まれた金門島の海岸。対岸のビル群は厦門の市街(写真:clarin.com)

 1950年2月、台湾に逃れて2カ月ほど後に、蒋介石は中華民国総統に復帰、3月には長男の蒋経国を国防部総政治部主任に据えた。軍の人事権を一手に握る強力なポストである。政権は蒋介石、軍権は最も信頼できる息子の蒋経国と、親子で統治に乗り出したわけだ。地方軍閥もいなければ、共産主義も浸透していない台湾で、親子は“純化”した政治環境で独裁統治を始めたのである。したがって台湾に来て初めて、蒋介石は絶対的な独裁者の地位に就くことができたと言える。しかも、幅約130㌔の台湾海峡が共産党軍の侵攻を阻む天然の要害となって守っているのである。

 こうしてみると、台湾があったればこそ蒋介石親子は命を長らえることができ、その後の統治も実現できたのだ。軍事政権が押しかけ、そのまま居座られた台湾の人々にとっては、不条理この上ない暗黒の運命を呪う日々が始まる。しかも、共産主義勢力が浸透していないにもかかわらず、統治する政権が市民を標的とする白色テロは続発するのである。白色テロは、フランス革命で王権が国民を弾圧した事例に基づく言葉で白色は王家の色である。

◇蒋介石、阿里山で祈る

 舞台はようやく高一生の故郷、阿里山に戻る。国府軍が金門島の戦いに勝利した少し後の1950年11月5日、蒋親子は阿里山で蒋介石の63歳の誕生日を祝った。月明かりの下、阿里山の霊峰・祝山に登り、厳かに日の出を迎えた蒋介石は「東を向いて直立し、天地にたいして祈願をこめた」と経国は記している。阿里山の崇高な景色に、親子は心身が引き締まる思いを抱いたのであろう。

角板山を訪れた蒋介石。左の黒いスーツ姿は林瑞昌、その右が蒋経国(写真:blivedoor.jp)角板山を訪れた蒋介石。左の黒いスーツ姿は林瑞昌、その右が蒋経国(写真:blivedoor.jp)

 阿里山ツォウ族のリーダー高一生は、日本の敗戦後に呉鳳郷(現・阿里山郷)の郷長に任命され、耕地が狭い阿里山の民を豊かにするため、台南県に約2千㌶の新天地を求めて開墾し移民を進める構想を練った。そして台湾銀行から50万元の融資を受けることが決まり、保証人は台湾先住民のリーダーで高一生の同志、台湾省議員の林瑞昌(ロシン・ワタン)が引き受けた。林瑞昌は北部タイヤル族の頭目の家に生まれ、台湾医学専門学校を卒業して先住民出身で初の医師となり、高一生とともに長らく先住民の若者を指導してきた中心人物だった。二人は国民党の統治下で先住民の豊かな生活を目指して活動し始めたのである。

蒋経国夫人(左2)を迎えて歓迎のあいさつをする高一生(中央)(写真blivedoor.jp)蒋経国夫人(左2)を迎えて歓迎のあいさつをする高一生(中央)(写真blivedoor.jp)

 林瑞昌は1950年に蒋介石を地元の角板山(現・桃園市復興郡)に招いて祝宴を催している。翌年高一生は、ヘリコプターで阿里山を訪れた蒋介石に呼び出されて宿泊先の阿里山賓館に訪ね、誕生日を祝った。漢語が不得手な高一生と妻春芳のために、台中師範学校卒で漢語も英語もこなせる長女の菊花が通訳した。蒋介石とは造林の大切さについて1時間ほど話をしたという。菊花は「鋭く光る眼でじっと見つめられると、とても怖かった」と会談の様子を語り、玄関口では蒋の側近に「今日はご機嫌でよかった。ありがとう」と礼を言われたという。また、二回目は総統夫婦に陽明山の草山別荘に呼ばれ、蒋介石夫人は帰り際に「美しい包装のチョコレートを私のポケット一杯に詰め込んでくれた」と菊花はその時の様子を筆者に語った。さらに1951年3月13日には呉鳳郡の婦人団体名で総統夫人に「婦女先導」という指導力を讃えるペナントを贈る式典が゜あり、高一生、菊花、台南県議会議員の湯守仁らが参加、夜の宴会には蒋介石が出席し、高一生はじめ参加者には豪華な贈り物が与えられた。4月5日からは蒋経国夫人の蒋方良しょうほうりょう(ロシア名:ファイナ・イパーチエヴナ・ヴァフレヴァ)が阿里山を慰問に訪れると、高一生はロシアの伝説的名歌手シャリアピンのレコードを自宅から持参し「ヴォルガの舟歌」を聞かせ、彼女を感激させたという。林瑞昌も高一生も湯守仁も至誠の人だった。新しい統治者との意思疎通はうまく行きつつある、とだれもが思っていた。

◇白色テロの標的に

 だが、国防部の下部機関で総統への忠誠を競い合っている保安司令部の見方は異なった。高一生と林瑞昌の二人は、先住民の自治構想を公然と語った要注意人物だったのである。しかもツォウ族の若者は、1947年に起きた2・28事件の際、嘉義市民を暴動から守れという高一生の指示を逸脱し、血気にはやって嘉義の水上飛行場で国府軍に発砲するに至った。事を聞きつけた高一生は、即座に山に戻るよう命令して事件を収めた経緯がある。若者を率いた湯守仁は旧日本陸軍に召集されて満洲で戦った経歴の持ち主であり、楽野村村長の武義徳は高一生と長年青年団活動を共にした後輩である。悪いことに、高一生に保護を求めた台南県長・袁國欽を阿里山でかくまったのだが、県長はその後大陸に逃亡、共産党に亡命してしまった。

1945年末の家族写真。中央左から2人目が妻の春芳(写真:gjtaiwn.com)1945年末の家族写真。中央左から2人目が妻の春芳(写真:gjtaiwn.com)

 保安司令部は1949年初め、阿里山に山地治安指揮所を開設し、内偵に入った。こう書くと厳正な捜査が行われたように誤解されるかもしれないが、白色テロの時代、保安司令部のやり口は、身柄を拘束しさえすれば罪名は何とでも付けるし、容疑名なしの逮捕も当たり前だった。以下、白色テロの典型例である高一生のケースで、このでっち上げ事件の経過を明らかにしよう。

 1952年9月10日、政府は高一生、湯守仁、武義徳など阿里山ツォウ族の指導者7人を、会議と偽って嘉義市竹崎にあった呉鳳郷の宿舎に呼び寄せ逮捕、身柄を台北市の保安司令部に移した。 高一生らの逮捕後、台南県や保安司令部は阿里山各所で村民大会を開かせた。そこで発表した当局の見解は「高一生は山地の悪逆無道なボスであり、悪事の限りを働き、規律を乱し、山地政令遂行に悪影響を及ぼした」というものだった。阿里山の民に対する威嚇、脅しであり、以後、密告などに協力せよという暗黙の命令であった。

獄中から妻に宛てた最後の手紙(写真:高英傑氏提供)獄中から妻に宛てた最後の手紙(写真:高英傑氏提供)

 高一生の容疑は、移住のための銀行融資のうち30万4千元を仲間とともに着服したというものだった。ところが湯守仁には容疑名すらなく、7人を横領事件で一括りにするのは無理との判断に至る。そこで保安司令部は親共産主義者たちによる反乱計画という、まったく別のとんでもない筋立てを組み立てた。親共勢力の摘発には報奨金も出る。今度はタイヤル族の林瑞昌も巻き込み、彼を12月に逮捕。容疑が空白だった湯守仁は、共産スパイと共に「蓬莱解放委員会」なるものを組織して反乱と政府転覆を企てた首謀者に仕立てられた。高一生や林瑞昌ら4人は政府転覆実行者との位置づけで、軍事法廷にかけられたのである。逮捕された時、高一生は47歳、林瑞昌は55歳だったが、21歳で最年少だった湯守仁を首謀者と認定、案件名も「高山族湯守仁等人案」と命名された。湯の軍歴が睨まれたようだ。1953年7月の判決は湯守仁、高一生、林瑞昌ら6人に死刑、無期懲役1人、懲役12~15年各1人となった。

◇総統決済で量刑加重

 あまり知られていないが、軍事法廷の核心は、保安司令部から国防部を経て参謀総長や総統府参軍長が審査した「最終上申書」は、総統・蒋介石の決済を受けなければならないことである。目を通した蒋介石は、判決の一部を覆してさらに厳しい罰を課すよう指示。この結果、楽野村長の武義徳の量刑は懲役12年から無期懲役に引き上げられた。罪の軽重の最終判断は、蒋介石の一存なのだ。あまたの政治案件の中で、蒋介石は高一生の案件を特に重視し「反乱集会者たちは一切を許さない」との厳しさを示した。

 翌年の1954年2月に刑が確定、台北憲兵隊は4月17日、湯守仁、高一生、林瑞昌 ら6人を新店(現・新北市新店)の政治犯収容所で銃殺した。処刑から10日後、家族に遺体を引き取りに来るよう通知があり、高一生の亡骸には、気丈な長女菊花が対面した。「いくつもの遺体が折り重なるように大きな木箱に放り込まれた状態で、腐乱して判別できず、きらりと光る歯でやっと父と分かった」と菊花は筆者に語った。遺体は荼毘に付して阿里山に持ち帰り、自宅の裏庭にある「キユパナの丘」に葬った。伝承によると、同族グループによる村への奇襲攻撃を防いで勝利した際、敵が伝統的なツォウ族のリユックサック「ケユプ」を残して行ったことから、この場所を「ケユパナ」呼ぶようになったという。戦勝を語り継ぐ聖地である。ここに葬るのは、高一生の遺言だった。

「パイナナ」の名で人気を博した歌手時代の菊花(写真:高英傑氏提供)「パイナナ」の名で人気を博した歌手時代の菊花(写真:高英傑氏提供)

 残された家族には苦難の日々が始まった。高一生・春芳夫婦は、五男六女の子沢山(長男は早世)だった。妻・春芳はショックから立ち直れず泣き暮らすばかりで、長女菊花がやむなく高雄の米海軍基地で歌手となった。「パイナナ」の芸名でラテン音楽を得意とし、迫力と張りのある歌声で人気を博したという。歌手生活は次男・高英傑が教員になって家計を支え始めるまで15年間に及び、米兵の10倍、月300ドルの収入で大家族を養った。

 苛酷な日々は、より陰湿に、かつ執拗に始まった。菊花には結婚後も秘密警察が“公然”と付きまとったのである。「監視下にあること」を片時も忘れさせないようにする、心理的暴力と言っていい。1974年、42歳になった彼女は、意を決して当局の求めるままに「台湾独立運動には関わりません」という誓約書を出す。これで尾行はぴたりと止んだ。当局は、20年もの長きにわたって菊花を精神的に追いつめ、苦しめ続けたのである。また、林瑞昌の長男で教員だった林茂成は、勤務先の学校を短期間で転々と異動させられ、これまた秘密警察が公然と張り付いて、周囲の者に対し彼に近づかないよう威圧した。周囲から孤立させて苦しめたのである。白色テロは命を奪うだけでは終わらないのだ。無期懲役の判決を受けた楽野村長・武義徳は、台東市沖の太平洋の絶海の孤島、島全体が刑務所になっている緑島監獄に送られ、絶望の日々を過ごした。20年以上が経った1975年、蒋介石の死で武義徳は仮釈放されたのである。

◇ ◇ ◇
キユパナの丘の父の墓で祈る菊花さん(2004年筆者撮影)キユパナの丘の父の墓で祈る菊花さん(2004年筆者撮影)

 高一生の刑死から30年、暗黒のとばりに覆われた台湾に、遂に光が射し始める。1984年10月、蒋経国の伝記を出版したばかりの米国在住の台湾人ジャーナリスト江南(劉宜良)が、台湾マフイアの幹部にロサンゼルスの自宅ガレージで暗殺される事件が起きた。在米華人社会は沸騰、米当局も米国籍を持つ江南が白昼暗殺されたことに強い不快感を抱いた。しばらくして米連邦捜査局(FBI)は、マフィア幹部と台湾国防部情報局幹部との電話のやりとりを録音したテープを入手。ほぼ同時に蒋経国は情報局幹部3人の逮捕と軍事法廷送りを指示した。事件の背景に、蒋経国の二男・蒋孝武が絡んでいるとの疑惑や江南が三重スパイであるとの説も錯綜し、一時は外交問題に発展しかけた。しかし、公開で開かれた軍事法廷が「3人の個人的犯行」と断定すると、事件はうやむや感を残しながらも鎮静化したように見えた。当時の国際情勢の下では、アメリカも台湾を叩き過ぎるわけにはいかなかったのだ。

ワシントンポスト紙のキャサリン・グラハム社主のインタビューを受ける蒋経国(写真:國史館)ワシントンポスト紙のキャサリン・グラハム社主のインタビューを受ける蒋経国(写真:國史館)

 ここに至って、蒋経国は思い切った手を打つ。1986年10月7日、米ワシントンポスト紙のキャサリン・グラハム社主と編集局長を招いてインタビューを受け、その冒頭、蒋経国は戒厳令解除と民主国家として歩む方針を突然表明したのである。まさに青天のへきれき。この大ニュースは世界を駆け巡った。やがて蒋経国は蒋家の人間を権力の座から遠ざけ、台湾人の農業経済学者・李登輝を見出してバトンタッチ、台湾は民主化の道を大きく進むことになる。

 白色テロの全体像が大まかながら明らかになったのは、行政院法務部(法務省)が軍部との協議を重ねた上でまとめた報告書を、立法院(国会)に提出してからだ。報告によると、戒厳時期軍事法廷が受理した政治案件は29万407件で、無実の罪を着せられた受難者は少なくとも14万人にも上ることが分かった。軍には、政治犯の銃殺前と銃殺後とを比較する顔写真を添えた報告書を、蒋介石総統に提出しなければならない、おぞましい義務があったことも分かった。この点だけでも、白色テロの最高責任者は蒋介石であると非難されても仕方なかろう。

 2018年12月7日、台湾行政院(内閣)は高一生など27人の軍事法廷での有罪判決を取り消し、名誉を回復する公告を発表した。処刑から64年もの歳月を経ていた。

高一生との思い出を語る武義徳さん(2004年筆者撮影)高一生との思い出を語る武義徳さん(2004年筆者撮影)

 明治から昭和にかけて日本が育てた先住民の最高の俊英、矢多一生こと高一生は、音楽に生き、家族に生き、そしてツォウ族発展に身を捧げた。朝は子どもたちの枕元に手回しの蓄音機で音楽をかけて起こし、日本の昔話を語って聞かせた。妻とは、暇さえあれば小型のピアノを弾いて一緒に歌っていたという。二男英傑さんによると夫婦は「荒城の月」を最も愛し、「赤とんぼ」や「浜辺の歌」もよく歌ったのだった。また、獄中からの妻あての別の手紙では「この手紙の中に夢を沢山入れましたから、今晩から私の夢をうんと見てね」と妻への愛を実に率直に語っている。

苦難の人生を歩んだ林瑞昌の長男、林茂成さん夫婦(2005年筆者撮影)苦難の人生を歩んだ林瑞昌の長男、林茂成さん夫婦(2005年筆者撮影)

 彼が日本語で作詞作曲した歌曲は「フロクスの花」、「登山列車」、「つつぢ山」、「鹿狩りの歌」など。ツォウ語で作った歌は「塔山の歌」、「友を想う」、「玉山に登る歌」、「移民の歌」など数多い。これらの歌で、彼は弱小部族であるツォウ族の人たちに故郷や文化に誇りを持つことの大切さを教え、精神を奮い立たせようとしたのだ。獄中で作った遺作「春の佐保姫」は日本語で作詞し、「誰が呼びます みやまのもりで 静なよあけに 銀の鈴のような うるわし聲で」と、哀愁を帯びたメロディーが美しい。そして、獄中から妻に宛てた最後の手紙は万葉歌人・山上憶良の歌「白銀も 黄金も 玉も 何せむに 勝れる 宝 子に如かめやも」を引用して「家と土地さえあれば好いです。立派な子供が澤山居るから」と子どもへの深い愛情を表現しつつ、「私の無実な事が後で分かります」と遺言している。彼の音楽同様に、彼の魂の純粋さで貫かれた、哀愁漂う手紙である。

 台湾にはかつて、このような「日本人」が居た。そのことを忘れてはならない。

(完)


〔主要参考文献〕
◎『蒋介石』保阪正康(文藝春秋)
◎『蒋経国回想録』蒋経国、青木俊一郎訳(東洋書院)
◎『中国妖怪記者の自伝』陸鏗、青木まさこ・趙宏偉訳(筑摩書房)
◎『蒋中正遷台記』陳錦昌(向陽文化)
◎『蒋経國傳』江南(前衛)
◎『蒋経国』丁依著、鈴木博訳(批評社)
◎『第二次大戦に勝者なし』A・C・ウェデマイヤー、妹尾作太男訳(講談社学術文庫)
◎『張学良はなぜ西安事変に走ったか』岸田五郎(中公新書)
◎『我が父ロシン・ワタンの一生』林茂成(1975年4月17日)
◎『白色テロルと高一生』張炎憲(2008年4月19日、天理大学での記念講演)
◎『臺灣地區戒厳時期五〇年代政治案件史料彙編〈3〉』臺灣省文獻委員會編印
◎『高一生研究3号』天理大学国際文化学部下村研究室気付・高一生研究会

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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