弾劾訴追された第17代大統領アンドリユー・ジョンソン(National Archive)と第42代大統領ビル・クリントン(The White House)

弾劾訴追された第17代大統領アンドリユー・ジョンソン(National Archive)と第42代大統領ビル・クリントン(The White House)

 世界の政治の仕組みの中で、「司法、立法、行政の三権分立」が最も機能しているアメリカで、行政の長たる大統領の地位をはく奪するには二つの手段がある。一つは憲法補正第25条が定めた病気などを理由に職務の遂行ができなくなったと判断された場合。もう一つは憲法第2条第4節の「大統領、副大統領、および合衆国のすべての文官は、反逆罪、収賄罪、その他の重大な犯罪や非行について弾劾の訴追を受け、かつ有罪の判決を受けたときは、免職される」との規定による場合だ。

 歴史的に弾劾訴追を受けた大統領は2人。第17代大統領アンドリュー・ジョンソンは議会の同意なしに戦争長官(現在の陸軍長官)エドウィン・スタントンを解任したかどで訴追され、第42代大統領ビル・クリントンはホワイトハウス内で女性研修生と不適切な行為を行い、その件について連邦大陪審で嘘をついて司法妨害したことなどを理由に訴追された。2人の大統領は上院に開設された弾劾裁判所で裁判を受けたが、免職には至らなかった。現在、下院では大統領ドナルド・トランプの訴追手続きが進んでいるが、下院議長ナンシー・ペロシは、大統領のウクライナ疑惑について、贈収賄罪に当たると主張している。

 さて、ここからアメリカ政治史の暗部に入る。アンドリュー・ジョンソンは、第16代大統領アブラハム・リンカーンの副大統領だった。

 ジョンソンは南部の貧しい家庭の出身で、テネシー州で仕立屋を開業した。幼少時に十分な教育を受けることができず、読み書きは妻の手ほどきを受けたという。しかし、黒人奴隷解放運動には与しなかったものの、奴隷を所有する裕福なプランテーション農園主を批判する弁舌は人気を博し、やがて政界に進出した。彼は州知事から、州議会議員、連邦下院議員と順当に階段を上り、アメリカ市民戦争が火を噴いた時には、連邦上院議員を務めていた。彼は南部出身の民主党員ではあるが、南部諸州が合衆国から離脱することは支持せず、南部出身の上院議員としてただ一人職に留まったため、南部人からは「裏切り者」扱いされたが、北部人からは「ヒーロー」と受け止められた。

 市民戦争が始まって3年、その勝敗の行方が見え始めた1864年は大統領選挙の年だった。再選を目指すリンカーンは、勝利を万全なものにするには民主党支持層からの得票も欠かせないと考え、奴隷制支持者であるジョンソンを副大統領候補に据え、再選を果たしたのだった。ところが2人が就任の宣誓を行ったわずか一週間後の1865年4月14日夜、悲劇が起きた。この日は、南部連合軍を率いる最高司令官ロバート・リーがユニオン軍(北軍)に降伏した5日後でもあるが、リンカーンは首都ワシントンのフォード劇場で観劇中に、南部の主張に共鳴する26歳の青年俳優ジョン・ブースに銃で後頭部を撃たれ暗殺された。これに伴い、アンドリュー・ジョンソンが第17代大統領に昇任したのである。

 アメリカ市民戦争は、合衆国から離脱した南部11州の反乱であり、勝利したユニオン軍は直ちに南部に将軍たちを派遣して軍政を敷いた。つまり占領政策が始まったのである。ジョンソンの使命は、敵対した南部を平和的に合衆国に取り込み直し、アメリカの再統一を図ることだった。再統一についてリンカーンはどのように思い描いていたのだろうか。

ケティスバーグの戦い(history.com)と墓標が整然と並ぶゲティスバーグ国立墓地(everipedia.com)

ケティスバーグの戦い(history.com)と墓標が整然と並ぶゲティスバーグ国立墓地(everipedia.com)

 この戦争の帰趨を決する天下分け目の戦いとなった1863年7月のペンシルヴニア州ゲティスバーグの激戦に勝利したリンカーンは、国立墓地となったこの地で同年11月19日に追悼演説を行った。有名なゲティスバーグ演説だ。

 「87年前、我々の父祖は自由の精神に育まれ、すべての人は平等につくられているという信念に捧げられた新しい国家を、この大地に打ち立てた」との文言で始まる、単語数わずか272語の短い演説だ。「人民の、人民による、人民のための政治」という文言が流布しているが、この言葉を演説の文脈のなかで捉え直すとリンカーンの意図が理解しやすい。以下に私が訳出した演説の後半を示す。

 「ここで戦った人々がかくも気高く前進させてきた未完の事業をわれわれが受け継ぎ、残された偉大な責務に身を捧げ、神の下、この国に新たな自由を誕生させるため、人々の、人々による、人々のための政権を地上から消滅させてはならないと、われわれはここに集って固く誓うのである」

 リンカーンの信念は一貫している。すべての人が真に平等に扱われる国家の実現であり、奴隷制の完全な廃止である。
 だが、リンカーンの暗殺で、アメリカの運命は暗転した。大統領に昇任したジョンソンは、奴隷制を支持する民主党員として先祖返りの行動に打って出たのだ。

 リンカーンの死後一月後の5月、アメリカ市民戦争が正式に終結し南部同盟は消滅した。いよいよ「戦後」が始まり、ジョンソンは「南部諸州再建(リコンストラクション)」に着手する。
 彼が最初に打った手は、南部諸州のかつての指導者や元州政府高官たちほとんどすべてに恩赦を与え、彼らの思う通りの州政府再建を認めることだった。反乱を起こした南部人は反逆罪に問われるのが当然と思っていた連邦議会共和党が猛反発する中、南部各州は「ブラック・コード(黒人法規)」と呼ばれる黒人の自由や権利を制限する州法を次々に制定し、黒人を取り巻く状況は戦争前に戻ってしまった。

ゲティスバーグで追悼演説を行うアブラハム・リンカーン(Federalist)

ゲティスバーグで追悼演説を行うアブラハム・リンカーン(Federalist)

 共和党は次々と対抗する連邦法の法案を制定する。その一つが「1866年公民権法」で、すべてのアメリカ市民の平等と権利保護を定めた初めての連邦法だ。ジョンソンは拒否権を行使したが、上下両院がそれぞれ3分の2以上の多数で再可決して大統領の拒否権を覆し、1866年4月に成立した。ジョンソンは連邦政府に過度の権限を持たせてはならないという信条を常々口にしていたという。この信条が歴史の歯車を逆回転させ南部に誤った自由を与えてしまったのである。

 共和党の反撃の第一弾は前年の1865年の12月、奴隷制度と強制労働を禁止する合衆国憲法補正第13条を大部分の州が承認し、発効するようにこぎつけたこと。翌1866年6月に議会は「奴隷制廃止に伴う市民権の拡大、法による平等な保護、適正な法手続きなど」を盛り込んだ憲法修正第14条を発議(1868年7月発効)、さらに1869年2月には「投票権の人種差別禁止」を規定する憲法修正第15条を発議(1870年3月発効)と畳みかけた。

 憲法修正第14条はアメリカ憲法の精華ともいえ、とりわけ「適正な法手続き(デュー・プロセス)」条項は今日、犯罪捜査から妊娠中絶まで市民生活のすべて、さらには政治活動のすべてにわたり適正な法手続きを求める規定である。民主主義を守る最も重要な規定であり、アメリカの司法判断のゆるぎない基盤となっている。

 大統領弾劾との関りで特筆すべきは、共和党主導の連邦議会が大統領の権限行使を規制する法律も制定したことだ。議会上院の承認を得て就任した政府高官を大統領が勝手に解任することを禁ずる「在職権法(The Tenure of Office Act)」である。この法律の最大の狙いは、政権の大臣、とりわけ共和党のリーダー的存在でありリンカーンの遺訓を推進する戦争長官エドウィン・スタントンを守ることで、大統領の拒否権を覆して1867年3月に議会が制定した。

 大統領ジョンソンは同法が憲法上の正当性を欠くと連邦最高裁に訴えたが却下された。諦めきれないジョンソンは戦争長官が自分に敬意を払わないことを理由に1868年2月21日、在職権法に違反して彼の解任に踏み切ったのである。これに反発した共和党は直ちにジョンソンの弾劾訴追にとりかかる。

 では、共和党が法を制定してまでその地位を守ろうとした戦争長官エドウィン・スタントンとはどんな人物だったのか。スタントンは法律家出身で、市民戦争開始直後の1862年1月にリンカーンが戦争長官に起用した。軍の情報漏れを防ぐため情報伝達に電信を利用するよう踏み切ったのをはじめ、軍の装備を輸入から国産へと切り替えて軍需産業を育て、軍備や兵員の効率的な輸送のため鉄道の利用を提案した。1863年9月には、わずか10日で2万人の部隊を2400キロメートル離れたユニオン軍の将軍の下へと輸送する離れ業も成し遂げた。このように卓抜な軍略の才能を発揮して彼はリンカーンの右腕となり、ジョンソンの昇任後も職にとどまったのである。

リンカーンの右腕と評された戦争長官エドウィン・スタントンの肖像画(National Portrait Gallery)

リンカーンの右腕と評された戦争長官エドウィン・スタントンの肖像画(National Portrait Gallery)

 ジョンソン政権の閣僚とはなったが、スタントンは南部に融和的な大統領を批判、とりわけ、奴隷制度と強制労働を禁止する合衆国憲法補正第13条が発効しているのに、黒人の公民権を否定する法律を制定している南部諸州に対して、ジョンソンが大統領、つまり連邦政府の長としてとして何ら介入しようとしないことを厳しく指弾したのだった。

 大統領によるスタントンの解任は、明らかに「在職権法」違反だった。下院は解任から3日後の1868年2月24日にジョンソンの弾劾訴追を議決、上院は3月13日に弾劾裁判所を開設した。アメリカ建国以来、初めての事態だ。大統領の罷免には上院54議席の3分の2に当たる36人の賛成が必要だったが、3月26日の評決の結果は賛成35人。解任にはわずか1票足りなかった。

 ジョンソンは首の皮一枚で職にとどまることができたが、政治的には死に体同然となった。
 この大統領の下で、南部諸州は再び奴隷州となり、リンカーンが掲げたゲティスバーグの誓いは踏みにじられた。彼の昇任と時を同じくして南部各地には「白人至上主義者」の反社会的団体「KKK(クー・クラックス・クラン)」が沸き起こり、黒人や黒人を支持する白人、ユダヤ教徒などにリンチ殺人を行い、絞首刑のように木の枝にぶら下げ続けた。黒人の女性ジャズ歌手ビリー・ホリデイは1939年に「奇妙な果実」と題する歌を発表した。「南部の木には奇妙な果実がなる 葉には血がついている 根にも血がついている」という歌詞は、感情を抑制して語りかけるように切々と歌い上げる歌唱と相まって、米社会に衝撃を与えた。

 NAACP(全米有色人種地位向上委員会)の調査によると1882年から1968年までの全米のリンチ殺人の犠牲者数は4743人、このうち黒人が7割超の3446人、白人は1297人となっており、今なおユダヤ教徒の礼拝所が襲撃される事件も後を絶たない。ジョンソンに直接的な責任はないとしても、KKKを生む機運を醸成した政治家としての道義的責任は免れないだろう。

 南部の黒人差別の解消は、およそ一世紀後の1964年公民権法の成立まで待たねばならなかった。

(本文中敬称略)

 
〔主な参考文献〕
“Andrew Johnson Impeached” The Voice of America.
“The Civil Rights Act of 1866 History and Impact” Robert Longley (Thought Co)
“History of Lynchings” The CRISIS Magazine Lynching Articles (NAACP)
“The History of White Supremacy in America” Carl Skutsch (The Rolling Stone, August 19, 2017)