軌道にレールを据える労働者たち(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』より。IMD6 Photo Gallery)

軌道にレールを据える労働者たち(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』より。IMD6 Photo Gallery)

 私が最も好きな映画作品の一つに、セルジオ・レオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト(昔、西部で)」がある。1968年12月封切りのイタリア映画だが、51年を経ても映画館で繰り返し上映されている名作である。学生時代に大学近くの名画座で連続2回観たのを皮切りに半世紀近く。今なお見るたびに新鮮な感慨が沸く。

 大陸横断鉄道の建設が進むアリゾナ州。鉄道を太平洋まで延伸することを悲願にしている余命短い鉄道王と彼を取り巻く3人のガンマン、さらに鉄道敷設予定地に隣接する農場主の再婚相手の元高級娼婦が絡み合う。封切り当初は「スパゲッティ・ウエスタン」と揶揄されたようだが、名声は直ぐに不動のものとなった。ガンマンたちが戦いを繰り返すなかで一人また一人と姿を消して行くのに反して鉄道敷設の槌音は高まり、ラストシーンは、鉄道建設の工事場面が大写しになって終わる。音楽劇のように全編にエンリオ・モリコーネの音楽が流れる。この映画は鉄道による新時代の夜明けを迎えた西部の発展を予感させつつ、かつてのワイルド・ウエスト、西部開拓時代へ別れを告げる挽歌なのである。

 さて、本題に入ろう。映画の冒頭で結婚披露パーティーの準備をする農場主の娘が「ダニーボーイ」を歌い、農場主の姓が「マックベイン」であることが明らかにされる。そう、アイルランド移民一家なのだ。

 イギリスの植民地アイルランドからの移民は、新大陸への新参者集団である。彼らはイギリスの圧制による迫害と貧困から逃れて米国を目指したが、その人数は1845年から7年に及ぶジャガイモ大飢饉によって激増した。1846年は約9万2千人、47年19万6千人、48年17万4千人、49年20万5千人、50年20万6千人と、5年間で約87万人が米国にやって来た。さらに1854年にはたった1年で約200万人。まさに奔流のように押し寄せたのだ。

アイルランドの首都ダブリンにあるポテト大飢饉の記念碑(Potato Pro)

アイルランドの首都ダブリンにあるポテト大飢饉の記念碑(Potato Pro)

 彼らは職業能力のない難民同然のカトリック教徒が大多数であり、プロテスタント移民が主流のアメリカでは取り分け苦難を強いられた。生きていくためには彼らは道路工事や運河開削工事の人夫、炭鉱労働者など、当時の社会の最下層の仕事に就くしかなかった。そんなアイルランド移民に夢を与えたのが、西部開発のためにリンカーン大統領が1862年5月に成立させた「ホームステッド(自作農場)法」だった。国有地を開放し「5年間で160エーカー(約65ヘクタール)の農地を自力で開墾し家屋を建てることができたらその土地と市民権を与え、さらに6か月後に新たな160エーカーの土地を1エーカー当たり1ドル25セントで売却する」という法律だ。相応の資力があって挑戦者の気概に満ちたアイルランド移民は西部を目指した。

 日々の生活に追われる普通のアイルランド移民は、政府が計画した巨大プロジェクト「トランスコンティネンタル・レイルロード(大陸横断鉄道)」の工事人夫の仕事に飛びついた。しかし、すんなり職を得たわけではない。社会にアイルランド人に対する偏見と差別が根を張り、都市部では反アイルランド移民暴動すら起き、求人広告では「アイルランド人お断り」という文言が常套句になっていた時代だ。

 鉄道建設は人海戦術が頼みであり、重労働だが雇用吸収力がある。全長約3千kmの工事に必要な労働者数は約14万人と見積もられていた。工事はもちろん測量から始まるが、鉄道敷設区域が定まるとまず軌道面を均す。軌道(線路)の幅は1420mm。最初に大きめの砂利を敷いて均し固め、次いで小さめの砂利を積み上げて固めて土台を作る。平らにすると枕木を等間隔に渡しレールを据える。当時のレールの規格は1ヤード(約90cm)当たり36kg。長さは約12mと約24mの2種類だったから、長いレールを据えるには横一列に並んだ30人ほどで約960kgのレールを抱え上げることになる。そして鉄の杭で枕木に固定して行く作業を続けるわけだ。

 大陸横断鉄道の工事はカリフォルニア州サクラメントから東へ向かう「セントラル・パシフィック鉄道」と、ネブラスカ州オマハから西へと向かう「ユニオン・パシフィック鉄道」の2社が政府に認可された。政府は二つの鉄道会社に対し「鉄路40マイル(64㎞)を建設するごとに国有地6400エーカー(2600ヘクタール)を与える」という破格の刺激策を設定し、2社に建設の進捗度を競わせた。

ユニオン・パシフィック鉄道の建設工事現場(history.com)

ユニオン・パシフィック鉄道の建設工事現場(history.com)

 先行して1863年に着工した「セントラル・パシフィック鉄道」が頭を痛めたのは労働者確保だった。初めはメキシコ移民、自由民となった元黒人奴隷、アメリカ市民戦争(南北戦争)の南部同盟出身の捕虜などを使ったが、なかなかうまく行かない。そこでアイルランド移民にお鉢が回ってきた。頑強で粘り強く働くため評価は高まったが、賃上げを求めてすぐにストライキを打つとか、酒に溺れやすいという悪評もついて回った。工事を急ぐ会社は、試しに馬車による荷物運びという補助業務に50人の清国人を雇ってみた。何しろ着工前年にカリフォルニア州知事に当選したレランド・スタンフォードが就任演説で「カリフォルニア州を“アジアのカス”から守る」と公言したほど、清国人は蔑視され、まともな労働力とはみなされていなかった時代だ。

 ところが、この試験的な雇用は会社を驚かせる結果をもたらした。アイルランド移民の月給が35ドルだったのに対し清国人は27ドルと、23%も安い差別的賃金で長時間労働もいとわない。自分たちできちんとした料理を作り、お湯を沸かして茶を飲む習慣で、川や池の水をそのまま飲んで病気にかかりがちなアイルランド移民より健康だったし、酒を飲んで暴れることもない。海抜2000m地帯のシエラネヴァダの山岳や峡谷を切り開く工事では、ニトログリセリンやダイナマイトを使ってトンネルを掘ったり、山を削ったりする危険な業務で命を落とす者が続出したが、不平を言わず反抗もしない。会社にとって清国人移民は理想的な労働者であり、その数はわずか5年で1万2千人に膨れ上った。

 やや遅れて1865年から工事を始めたユニオン・パシフィック鉄道は、西部の大平原を横切るルートで技術的には困難は少ないはずだった。ところが、大平原を自らの領域とするスー族、アラパホ族、シャイアン族、コマンチ族という勇猛果敢なインディアンの襲撃、狙撃や資材の焼き討ちなどが絶えず、工事のスピードはなかなか上がらなかった。こちらにも清国人移民やアイルランド移民が工事に加わったが、労働力の主体となったのはインディアンに立ち向かえる元軍人だった。

 こうして1869年5月、サクラメントから鉄路で約1110km、オマハから約1750km地点に当たるユタ州のグレートソルト湖近くのオグデンで、二つの鉄道は結ばれた。鉄道の開通前は、東部からカリフォルニア州に向かう旅はあまりに危険なため、船で南アメリカ南端のホーン岬を回って太平洋に入り、北上してサンフランシスコ沖に向かう航路が一般的だった。航海には6か月を要し、費用は1000ドルもかかった。これが鉄路だとわずか6日間、費用もわずか150ドルで済んだ。

セントラル・パシフィック鉄道の建設工事現場(history.com)

セントラル・パシフィック鉄道の建設工事現場(history.com)

 鉄道は清国人移民の貢献によって完成したといっても過言ではない。しかし、アイルランド移民や白人労働者たちの心には「自分たちの仕事を奪い、生活を脅かす集団」という感情が心の奥底に刻み込まれた。もともと清国人移民はゴールドラッシュを契機にカリフォルニア州にやってきたのだが、金鉱山で働く清国人移民は白人労働者より安い賃金で働いたため、鉱山主は喜ばせたものの、白人労働者の怒りを買い、敵意すら芽生えさせていた。ゴールドラッシュが終わると、清国人移民は市の中心部へと移りレストランで働いたり、洗濯屋や肉屋、雑貨屋などを開業したりして地域社会に根を張り始めていた。洗濯屋は白人の主婦を家事労働から解放して歓迎されたし、近郊の農園で働く労働者は野菜作りの技術を評価されてもいた。しかし、大陸横断鉄道建設における清国人移民の大活躍は、白人ブルーカラー層の警戒心を掻き立てるほうに作用した。

 1871年、ロサンゼルスで反清国人暴動が起き、清国人18人が殺害された。これ以後、清国人への襲撃や職場破壊が頻々として続き、彼らは暴力的攻撃から身を守るためにチャイナタウンを形成したが、これがまた不気味さをあおる結果につながった。1873年、ヨーロッパの証券市場の暴落が米国の銀行を直撃、投資家は鉄道会社から資本を引き揚げ始めた。以後5年に及ぶ不況の号砲だった。丁度この時期、東部では「8時間労働制」を求めて労働組合運動が勃興し、労働者の地位を守る運動は、いち早くカリフォルニア州の中心都市、サンフランシスコに伝播した。大陸横断鉄道建設がもたらした労働市場の自由競争が低賃金で働く清国人に軍配を上げ、1876年から1878年までの3年間、職を失い極貧にあえぐ白人労働者たちは、慈善団体の食事援助でかろうじて生き延びる者が多かったのである。サンフランシスコ市始まって以来の事態だった。政府の不況対策がうまくいかなかったせいだが、労働者たちの怒りは攻撃のはけ口を求めた。

サンフランシスコの大衆扇動家デニス・カーニイ(San Francisco Museum)

サンフランシスコの大衆扇動家デニス・カーニイ(San Francisco Museum)

 こうした情勢下、一人の大衆煽動家が誕生する。デニス・カーニイ。サンフランシスコで馬車3台による運送業を営むアイルランド移民だ。21歳で米国に来たカーニイには取り立てて政治的背景があったわけではないし、生活に困窮しているわけでもなかった。ただ、彼は日曜ごとに市の中心部の空き地で開かれる自由集会「サンド・ロット」に参加し、演壇に立つうちに、労働者たちが醸し出す空気に反応したようだ。人々の心をつかむ自らの弁舌に酔い、集会では激越な調子で「清国人は出ていけ」を繰り返して聴衆をあおるようになり、自警団を組織して市中の清国人襲撃を繰り返した。

 当時、サンフランシスコでは地元紙二紙が激しい部数獲得競争を繰り広げていたが、二紙は労働者の支持を取り付けようと集会でのカーニイの演説全文を掲載し、彼の言動を英雄のように誉めそやしたため、彼への支持は高まり続け、影響力も増した。1877年春、経営難に苦しむ東部の鉄道会社数社が賃金を10%カットしたことで大争議が発生、カーニイはこの争議の支援の意味も込めて9月に初めて労働組合結成にこぎつけた。31歳だった。その年の暮れには「サンフランシスコ労働者党」と改名し、失業問題を中心にさらなる活動に取り組む。こうしたカーニイの運動は、労働組合を指導下に置き大統領選の勝利目指す戦略を描いていた民主党には絶好の機会と映り、カーニイに近づき共闘を組んだ。

 カーニイの次の目標は州憲法に清国人排斥を盛り込んで法制化することであり、カリフォルニア州憲法制定会議に猛烈なロビー活動を続けた。会議の構成員48人のうち20代が9人、30代が30人と若者が中心であり、彼が目標を完全に達成するのはさして困難ではなかった。

 1879年に制定されたカリフォルニア州憲法の第19条は驚くべきことに「チャイニーズ(清国人)」のタイトルを堂々と掲げ、第1項で「外国人の存在がもたらす重荷と悪行から州と州民を守るためあらゆる手立てをとる」と立法趣旨を規定。第2項で「この憲法制定後は同州のすべての企業が清国人とモンゴル人労働者を雇用することを禁止する」と定めた。さらに第3項で「州内のすべての行政機関と公共の機関は清国人を雇用してはならない」と規定し、第4項で州内の全市と全郡に対し清国人を完全に追放するか、居住地の制限権を与えることを盛り込んだ。

 その上で、連邦議会に対し国家レベルの強力な移民制限を嘆願したのである。この嘆願が連邦議会を動かし、1882年5月に清国人の移民を向こう10年間停止するために制定した「チャイニーズ(清国人)追放法」につながり、大統領も署名し法律となった。

清国人追放を呼びかけるポスター(Humboldt State University)

清国人追放を呼びかけるポスター(Humboldt State University)

 米政府がメキシコ政府からカリフォルニアを買い上げたのは1848年。2年後に合衆国の31番目の州として認められた若い州であり、社会に確固とした指導者層がまだ形成されてはいなかったことが背景にある。何しろ、ゴールドラッシュが起きる前の同州の人口はわずか1万人ほどと推計されているのだ。カーニイが30代そこそこで労働運動の指導者として頭角を現すことができたのも、州の世論が過激路線に走ったのも、急速に人口が増えた州の統治機構の成熟度がまだ十分ではなかったためと思われる。

 リンカーン大統領が清国に向けて手を差し伸べ対等の立場で結んだ条約の精神は、こうして己が弁舌の才と人心操縦に酔った一人のアイルランド移民出身の大衆扇動家と、党勢拡張のみに奔走した国政政党の手により葬り去られたのだ。そしてこのカリフォルニア州の狂気は、やがて日本人の排斥へとつながって行くのである。カリフォルニア州憲法第19条の「チャイニーズ」条項が廃止されたのは。73年後の1952年のことである。

(本文内・敬称略)

 
【参考文献】

  • “Irish Immigration” Spartacus Educational
  • “Transcontinental Railroad” History.com (Sep 11,2019)
  • “Workers of the Central and Union Pacific Railroad” PBS
  • “Illustrating Chinese Exclusion” Thomas Nast
  • “The Sand Lot and Kearneyism” Jerome A. Hart (The Virtual Museum of the City of San Francisco)
  • “Constitutional History of California” Paul Mason (California State Legislature, 2817-18 Edition)