百鬼夜行の国際政治

第24回

『七人の侍』と『ムーラン』

映画「七人の侍」のポスター画像(videopass.jp)映画「七人の侍」のポスター画像(videopass.jp)

 「今度もまた、負け戦だったな。勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない」──日本を代表する名画「七人の侍」(黒澤明監督、1954年)の終幕、平和が戻った村で農民たちが楽しく歌って田植えするのを見やりながら、侍を率いて戦った勘兵衛(志村喬)は傍らの七郎次(加東大介)にこう語りかけ、ともに村を去る。何度見てもいい情景だと思う。

 『七人の侍』の舞台は、戦国時代の貧しい山村。村に“雇われた”七人の侍と、騎馬の野盗集団との戦いの話である。武を頼む侍と常に弱者だった村人との心理的葛藤、七人の侍の際立った個性の鮮やかな描き分け、土砂降りの雨の中で泥水のしぶきを上げて村内を駆け回る騎馬の野伏せりと、これに立ち向かう侍や村人との戦いなど、名場面の連続だ。七人の侍のうち四人は戦いに倒れ、土饅頭の墓には、卒塔婆に見立てた大刀が天を突き、戦いの非情さを象徴する。この映画の壮絶な戦闘の場面を見るたびに、私はユーラシア大陸の大地で繰り広げられた騎馬・狩猟民族と、農耕民族とのはてしない攻防の歴史に思いをはせる。農耕民族は、よほどのことがない限り騎馬民族にはかなわない。

ユーラシア大陸の衛星画像。中央付近で東西に延びる緑の帯が草原地帯(Mongol Army: Tactics, Weapons, Revenge and Terror)ユーラシア大陸の衛星画像。中央付近で東西に延びる緑の帯が草原地帯(Mongol Army: Tactics, Weapons, Revenge and Terror)

 騎馬・遊牧民族について理解するには、衛星画像でユーラシア大陸を俯瞰するのが一番だ。大陸の中緯度地方に東西に長く伸びる鮮やかな緑色の帯がある。西の端、黒海北岸のウクライナやハンガリーから東へ伸びて朝鮮半島の付け根辺りまで続く。これがステップと呼ばれる草原地帯であり、遊牧・騎馬民族の主要な活動の舞台だ。放牧生活は、草原の植生を破壊しないよう、言い換えれば家畜に草を食べつくさせないように気を配りながら、新たな草地を求めて次々に移動していく。モンゴルの遊牧に詳しい国立民族学博物館客員教授の小長谷有紀氏によると、モンゴル族の場合、馬を中心に牛、ラクダ、羊などを飼い、オス馬は発情して群れを乱さないよう去勢して群にとどめる。メスが子を産むと母親から子を引き離し、乳を搾って馬乳酒の醸造に用いる。騎馬として使用する多数の去勢馬の存在こそ、モンゴル族の軍事力の源だったという。ヨーロッパの遊牧の家畜がメスの羊やヤギが大部分で、オスは早々と肉用に売られるのとは対照的である。

 馬乳酒がどれほど飲まれていたかを示す面白い記録がある。13世紀半ば、フランス王ルイ九世は、1251年にモンゴル帝国第4代「カーン」となったモンケのカラコルムの宿営へ修道士を遣わした。帰国した修道士が王に差し出した復命書の中に、チンギス・カーンの一族の最長老で総司令官をしていたバトゥの宿営の描写がある。バトゥは宿営から一日の行程内に30人の男を配し、それぞれから毎日100頭分の馬乳酒、合計3000頭分の馬乳酒を届けさせたと書かれている。また、これとは別に一般住民には三日ごとに馬乳酒を届けるよう義務付けたという。

4世紀後半の柔然と北魏(Wikipedia)4世紀後半の柔然と北魏(Wikipedia)

 極東の島国の日本人は、日常的に日本周辺の地図しか目にしていないが、事あるごとに世界の中心と言いたがる隣国は、実はユーラシア大陸の東端、辺境の地であった。ユーラシアを東西に貫く草原のベルトこそチンギス・カーンが駆け抜けた舞台であり、世界の中心である。歴史を考えるときは、いつもこの衛星画像を思い浮かべた方が良い。

 さて、このユーラシアの東端では、日本人になじみ深い「魏」「呉」「蜀」が鼎立した三国時代以降、漢人王朝の勢力は次第に衰え、4世紀初めにはステップの東端の地、モンゴル高原にモンゴル族の初めての国家「ロウラン(柔然)」が成立した。これに刺激されるように周辺の遊牧・狩猟民族がモンゴル高原周辺から続々南下し、中原の地に「五胡十六国」と呼ばれる非漢人国家群を打ちたてる。そして4世紀末に「せんぞく拓跋たくばつ(原音は不明)」が遊牧民の部族連合国家「北魏」を建国し、40万騎以上の大兵力で周辺国を圧倒して乱立の時代に終止符を打つ。これ以降、揚子江流域を境に北に遊牧民の国家、南に漢人の国家が並立する時代となる。

 北魏は現在の内モンゴル自治区東部のシラムレン川流域から興り、現・山西省大同を最初の都とした。王の尊称としてロウランが用いた「かん」を継承し、この言葉は後にチンギス・カーンの「カーン」に当たる語として遊牧民国家で使われて行く。北魏は共通語を持たない諸部族間の公用語として漢語を採用したが、揚子江以北には漢人はおらず、古代の漢語の発音は消失したと言われている。彼らの戦の流儀は、降伏すれば命は助けるが、歯向かえば皆殺しし財産を奪いつくす。だから漢人は恐れて南へ逃げたのである。ウォルトディズニーが今年9月4日から公式動画配信サービス、「ディズニー・プラス」で配信を始めた最新作「ムーラン」は、この北魏王朝で6。世紀ごろに生まれた五言古詩(無名詩)の「木蘭辞」が元になっている。

ディズニー映画「ムーラン」のポスター(公式ホームページより)ディズニー映画「ムーラン」のポスター(公式ホームページより)

 少女ムーランは「各戸から一名の成人男子を出さねばならない徴兵の布告」を受け、病弱な父親に代わり男装して北方のえびすの国へと出征し、勲功を上げて帰郷する」という、素朴でおおらかな叙事詩だ。原作詩では、王が徴兵命令を出す部分は「可汗大點兵 軍書十二巻」とあり、「可汗」という語を用いて遊牧部族の王であることを示している。徴兵については「家々から出すべき兵の名を数え上げ(點兵)」、「その名簿は十二巻にも及んだ」と大軍を集めたことを示し、名簿には父親の名前が記されている。さらにムーランが市場で馬、馬具、ブーツを買い求める記述は、戦の道具は自前で準備しなければならない遊牧民の戦の習慣をきちんと踏まえて表現している。両親に別れを告げたムーランはその日の夕暮れに黄河のほとりに宿営、翌日には「黒山」の麓、現在の遼寧州西部・錦州市の黒山に着き、ここから「燕山」、河北州の燕山山脈に来ると、胡の騎馬の悲しげな鳴き声が風に乗って聞こえて来たと戦場を描写している。北魏の民には慣れ親しんだ地名で古詩は親しみやすいものだったろう。ムーランが10年に及ぶ戦を終えて帰郷し軍装を解くと、戦友たちはムーランが女であることを知り驚愕する。なぜ気づかなかったのか。その理由として古詩は地面を駆け回るウサギは隣がオスかメスかなど頓着しないと、ユーモラスに煙に巻いている。

 京劇の伝統的演目でもあり、戦前の日本で映画化されたこともある有名なこの作品をディズニーは1998年にアニメーション版に仕立て好評を博した。今回はカンフーの大スターや有名女優を起用した実写版である。映画の主要な撮影地はニュージーランドだが、新疆ウイグル自治区でも撮影した。筆者は公式ページの映像しか見ていないが、衣装や化粧法、都市の構造など時代考証に突っ込みどころ満載の、いわゆる娯楽映画に仕上がっているようだ。だが、映画は思わぬ展開で波紋を広げることになる。

 まず、制作途上の昨年8月、ムーラン役の中国系アメリカ人女優リュー・イーフェイが「香港警察を支持する」とツイッターに投稿してボイコット運動に火が付き、逆に中国政府は「あっぱれだ。彼女こそ中華の子だ」と擁護に回り火に油を注いだ。そして映画が公開されると、映画のエンドロールに「中国共産党新疆ウイグル自治区宣伝部」「トルファン地区党委宣伝部」「トルファン地区公安局」「高昌区党委宣伝部」「ピチャン県党委宣伝部」への謝意が記載されていることが分かった。新疆ウイグル自治区では政府が職業教育と称して100万人を収容所に入れて漢語教育を強制しており、世界的な批判の渦中にある。習近平総書記は9月下旬の「中央新疆工作座談会」における演説で「イスラム教の中国化を堅持せよ」とまで指示している。イスラム教の精神は断じて認めないという決意だろう。日本ウイグル協会は即座に「ディズニー社が中国共産党による東トルキスタンでのジェノサイド(集団殺戮)に、事実上加担していると解釈せざるをえない」と批判の声を上げた。さらに、米連邦議会の有力議員たちは、同社の最高経営責任者ボブ・チャペックに対し、新疆ウイグル自治区での映画ロケに関し、公安や宣伝機関との関係を説明するよう求める書簡を送り、政治問題化している。

ナントの歴史博物館。左上はジンギス・カーンの肖像画(Daily Male)ナントの歴史博物館。左上はジンギス・カーンの肖像画(Daily Male)

 「ムーラン」騒動のほとぼりさめやらぬ10月12日、フランス発の衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。西部ロワール川河畔の都市ナントの歴史博物館が、中国内モンゴル自治区フフホト(呼和浩特)市の内蒙古博物院の協力を得て数年がかりで開催を準備してきた「ジンギス・カーンとモンゴル帝国展」について、中国政府の政治的介入に抗議し中止を発表したのだ。

 同館の声明によると、中国政府は「ジンギス・カーン」、「帝国」、「モンゴル」という文言の削除と、「テキスト、地図や図面、カタログ、メッセージ類」などすべての制作物の検閲を求めたという。ベルトラン・ギレー館長は「(中共の)新しい国の物語を推し進めるために、モンゴルの歴史と文化を完全に消し去り書き替えるという偏った政治原理に基づく主張だ」と中国政府を鋭く批判し、「歴史家や専門家の助言を受け、人道的、科学的、倫理的価値観を守るため展覧会の開催中止を決めた」と表明した。中国政府は仏語の「マンチューリ(満洲)」の文言についても不使用を求めたという。

 内モンゴル自治区では小中学校の教育現場で9月からモンゴル語を追放し漢語教育を義務づける“改革”が導入され、父兄によるボイコット騒動が広がっている。さらに他の少数民族の居住地、チベット自治区でも漢語教育を推進、遼寧省や吉林省では朝鮮族の子弟に対する漢語教育への切り替えの動きが進んでいるという。中国ではこれまで56民族を「中華民族」、つまり「世界の中心にあって最も文化が進んでいる民族」との建前で民族政策を実施してきており、チンギス・カーンは民族英雄と位置付けていたはずだったが、その路線を今回否定したことになる。漢語教育の推進で共産党指導部への求心力を高める政策である。今年のアメリカ大統領選挙を騒がせた「白人至上主義ホワイト・スーパマシー」の向こうを張る「漢人至上主義」と言っていいだろう。

 騎馬・遊牧民族王朝と漢人王朝の関係では、漢人は野蛮な騎馬・遊牧民族を「漢化」、つまり文明の高みに引き上げてきたという、上から目線の立場をとりがちだ。しかし、それは誤りである。

 秦の始皇帝が統一国家を樹立する百年ほど前、世に「戦国時代」と言われた紀元前3世紀、秦に隣接する秦人と同祖の国「ちょう」は、北部の遊牧民族国家・中山国との戦いに度々敗れ、苦難を強いられていた。紀元前326年に即位した武霊王は、野蛮で卑しい「てき」と蔑んできた中山国の戦闘スタイルを取り入れないと戦に勝てないと確信し、臣下の猛反対を押し切って「胡服騎射」への全面的な切り替えを断行。戦車と歩兵を用いる戦法を捨て、ズボンを履いて馬上から弓矢を射る騎兵の機動戦で遂に中山国に勝利した。これ以降、漢人国家は競って「胡服騎射」を取り入れた。

 北魏王朝で紀元467年に即位した孝文帝は国家財政を安定させるため、国民に平等に農地を与えて収穫高の一定割合を納めさせる「均田制」を創始、これが唐王朝を経て日本に伝わり、「班田収受の法」となる。さらに482年、漢人の風習である「同姓婚禁止」を取り入れて鮮卑族に適用、漢の制度を採り入れて官僚の俸禄制度を創設し、王朝の基盤を固めた上で洛陽へと遷都したのである。北魏が漢語を公用語としたのは、部族間に共通語がなかったためであり、「漢化」されたわけではない。騎馬・遊牧民族の国家は、北魏に続く「隋」、「唐」、「西夏」、「金」、「元」、「北元」、「後金」、「清」がある。だから「漢化」などという表現は不適である。

ナント歴史博物館のサイトナント歴史博物館のサイト

 さてナントの歴史博物館は中止した「ジンギス・カーンとモンゴル帝国展」に代わる同内容の企画展を2024年10月に、中国を除く各国、バチカン市国や欧米の博物館の協力を仰いで開催すると発表している。ジンギス・カーン、モンゴル帝国の足跡はユーラシア大陸の至る所に刻み込まれており、展示する文物集めには困らない。そうした中で最も有力な協力国がモンゴル国である。1924年にソ連に次ぐ世界で二番目の社会主義国家、モンゴル人民共和国として出発し、1989年のソ連崩壊に伴い社会主義を事実上放棄して1992年2月に「モンゴル国」と改めている。首都のウランバートル市には巨大なジンギス・カーン像がある。公用語はモンゴル語である。

 ではなぜ、モンゴル民族はモンゴル国と中国領の内モンゴル自治区とに分断されているのか。これには日本の大陸進出と「満洲国建国」も深く関わっている。チンギス・カーンの孫フビライが樹立した元王朝が漢人の明王朝に敗れると、モンゴル民族は内部抗争を続け18世紀半ばに満洲族・清王朝の支配下に入った。1911年に辛亥革命で清王朝が倒れ中華民国が成立すると、モンゴル民族に独立の機運が高まり、中華民国に戦いを挑む。しかし、これにロシア帝国が介入し、モンゴル民族は中華民国統治下の自治区に組み入れられる。日本が大陸に進出し満洲国を建国すると、内モンゴルのモンゴル人たちは再び独立への夢を抱く。日本はモンゴル人の指導者デムチュクドンロブ(徳王)らを支援し、彼は1937年10月に「モンゴル連盟自治政府」を設立する。日本は満洲国軍にモンゴル人を組み込んでソ連・モンゴル共和国連合軍とノモンハン戦役を戦った経過がある。

内蒙古博物院のサイト。「永遠に党に従い、中国夢を共に築こう」の標語が強烈だ(2020年11月3日)内蒙古博物院のサイト。「永遠に党に従い、中国夢を共に築こう」の標語が強烈だ(2020年11月3日)
ロシア、モンゴル国と内モンゴル自治区を示す地図(plantatree.gr.jp)ロシア、モンゴル国と内モンゴル自治区を示す地図(plantatree.gr.jp)

 しかし、1945年2月のヤルタ会談の秘密協定でソ連首相スターリンは、対日参戦条件の第一項目として「外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持」、中華民国との国境緩衝地帯として衛星国の存続保証を求めたのだ。1945年8月、ソ連軍とモンゴル人民共和国軍が内モンゴルと満洲に侵攻すると、モンゴル連盟自治政府と満洲国は崩壊。ソ連とモンゴル人民共和国とはモンゴル民族の統一国家樹立へと動いたが、中国共産党が1949年10月に政権を握ると社会主義国間の連携が優先され、内モンゴルは「内モンゴル自治区」として中国に留め置かれて今日に至っている。モンゴル民族揺籃の地である内モンゴルは、歴史に翻弄され続けて来たのである。

 戦後75年を迎えた今年、ナントの歴史博物館がモンゴル民族の英雄チンギス・カーンの企画展を中止したことで、自由に民族の英雄を戴けるモンゴル国と、今やモンゴル語とジンギス・カーンまで奪われようとしている内モンゴル自治区との、民族分断の悲劇が改めて白日の下にさらされることになった。

(文中敬称略)

 

〔主な参考文献〕
◎『狩猟と遊牧の世界』梅棹忠雄 (講談社学術文庫)
◎『モンゴル牧畜システムの特徴と変容』小長谷有紀(E-journal GEO Vol.2(1)34-42,2007)
◎『中央アジア・蒙古旅行記』カルピニ/ルブルク (講談社学術文庫)
◎『魏書』芮傳明 新選 (中華書局)
◎『史記 趙世家第十三』司馬遷 (中華書局)
◎ ≪Le report de l’exposition Gengis Khan : le choix d éontologique d’un musee≫ Musée d’histoire de Nantes
◎『日中戦争への道 満蒙華北問題と衝突への分岐点』大杉一雄 (講談社学術文庫)
コラムニスト
竜口英幸
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。2018年4月、福岡市の集広舎から「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」を出版。
関連記事