百鬼夜行の国際政治

第20回

対日戦へ米ソ同盟が始動

 軍人政治家ウィンストン・チャーチルは、1953年12月にノーベル文学賞を受賞した。平和賞ならともかく、政治家の文学賞受賞は初めて。二度目となる首相職にあったため、授賞式にはメアリー夫人が出席しスピーチを読み上げた。1948年から刊行が始まった彼の代表作『第二次世界大戦』は、この年秋に最終巻の第6巻『勝利と悲劇』が出版されていた。

 授賞式でスウェーデン王立アカデミーの会員による開会スピーチは冒頭、ジュリアス・シーザー、マルクス・アウレリウス(ローマ五賢帝の一人。著書に『自省録』)、ナポレオン・ボナパルトの名を挙げ「偉大な政治家であり戦士、かつまた偉大な書き手でもある者はとても稀である」とチャーチルへの文学賞授賞の意義を強調し、“言葉で絵を描く作家”と評されたチャーチルの文学活動の軌跡を紹介した。『第二次世界大戦』を読む度に、私は彼の深い人間洞察力、政治的な使命感の強さ、戦略的思考の的確さに魅入られる。

テヘラン会談の3首脳。左からスターリン、ローズヴェルト、チャーチル(US Library of Congress)テヘラン会談の3首脳。左からスターリン、ローズヴェルト、チャーチル(US Library of Congress)

 1942年8月にモスクワを訪問したチャーチルが、ソ連首相ヨシフ・スターリンと握手して成立した対ナチスドイツ同盟は、米国のレンド・リース法による軍需物資支援によって強化された。1941年12月7日、日本の真珠湾攻撃を機に米国は太平洋戦争に突入、4日後にナチスドイツが米に宣戦布告したことでヨーロッパ戦線へも参入した。米の日本に対する反転攻勢のきっかけは1942年6月のミッドウェー海戦の勝利だった。しかし、米大統領フランクリン・ローズヴェルトは、広大な太平洋の西端に位置する日本との戦いの困難さに、次第にいら立ちを強めていた。太平洋に日本本土を攻撃するための航空基地を持たない米国は、日本が築いた防衛線の島々を南から北へと上陸しては攻略する作戦を続けなくてはならなかったからである。

 一方、バルト海から黒海に至る3000kmもの戦線でナチスドイツと戦かっていたソ連軍は、ドイツ侵攻の半年後の1941年暮れごろから敵の進撃をようやく押し留め始めた。スターリンは一貫して、ヨーロッパ西部、とりわけ北フランスに戦端を開きドイツ軍を挟み撃ちするようイギリスに求め続けた。米英は暗号名「大君主作戦(後のノルマンディー上陸作戦)」と呼んだ上陸作戦を秘密裏に検討して大まかな合意に達しており、米英ソによる初の首脳会談をそのすり合わせの機会とした。これが1943年11月28日から12月1日までイランの首都テヘランで開かれたテヘラン会談の主題であった。

イラン初の石油井(The British Petroleum)イラン初の石油井(The British Petroleum)

 ではなぜ会談の開催場所がテヘランになったのか。イランはイギリスとソ連の影響下にあり、ソ連とは陸続きで国境を接していた。米国からの軍需物資は、北極海ルートだけでは不十分で、陸路の要がイランだった。しかも、中東の石油の歴史はこの地から始まっており、ナチスドイツの侵攻を許してはならない国だったのである。

 若干長くなるが、以下にイラン、イギリス、ソ連のせめぎ合いの歴史をたどろう。1908年5月、イギリス人ウィリアム・ノックス・ダーシーは、全財産を投じた7年がかりの探査でイラン南西部の油田開発に成功し、「アングロ・ペルジャン・オイル・カンパニー(APOC)」を設立した。当時34歳の海軍大臣チャーチルはこの報に飛びついた。イギリスでは炭鉱ストライキが頻発し、エネルギー供給の安定性を危惧していたからだ。チャーチルの奔走でイギリスは同社の株式の51%取得にこぎつけ、国策会社化に成功した。さらにチャーチルは海軍艦船の燃料を石炭から石油へと切り替え、艦船の機動力を飛躍的に向上させた。APOCは後にBP(ブリティッシュ・ペトロリアム=英国石油会社)へと社名を変えた。

 1914年に第一次世界大戦が火を噴くと「イラン王国(カジャール朝)」は中立政策をとったが、やがて疫病や飢饉で社会が混乱し始める。イギリスは、グルジア人将校レザ・シャーが1921年に起こしたクーデターを支援し、レザ・シャーの新王朝をイギリスの影響下に置いた。イランは世界最大の産油国となり、アーバーダーンの製油所は年間800万バーレルの石油をイギリスに輸出するまでに発展した。新国王は膨大な石油収入を国の近代化に投下し、道路網と鉄道網を急速に整備した。

 ナチスドイツがソ連に侵攻すると、イギリスはソ連と連携し1941年の7月から8月にかけて、イラン国王に対し同国内に居住するドイツ人の鉄道技師ら約2000人の国外追放を要求した。国王がこれを拒否するとイギリスは南部から、ソ連は北部からイランに侵攻して開戦、圧倒的な軍事力を前に、国王は皇太子レザ・パーレビの説得により8月29日に停戦に合意した。イギリスとソ連は畳みかけて国王にドイツとの外交関係断絶を要求、国王がこれを拒否するとソ連軍は9月16日にテヘランへ進撃。ここに至って皇太子レザ・パーレビが新国王に即位してソ連とイギリスの占領政策への協力を表明し、翌1942年1月、イランとイギリス、ソ連の3国は同盟条約を結んだ。

ベル社の工場でソ連への輸送を待つ2000機の米戦闘機P-63キングコブラ(The World at War Magazine)ベル社の工場でソ連への輸送を待つ2000機の米戦闘機P-63キングコブラ(The World at War Magazine)

 この3国同盟成立により、米国のレンド・リース法による軍需物資は船でイギリスからイランに運び、鉄道でイランからイギリス領イラクを通ってソ連のアゼルバイジャンへと運ぶ大動脈ルートが確立した。イランは1943年9月にドイツに宣戦布告、史上初の英米ソの3国首脳会談の開催に象徴的な意味を与えたのである。また、スターリンは鉄路によるアクセスが可能な都市での会談開催を要求し、英米はテヘランでの会談に同意した。実はスターリンにはある思惑があった。ローズヴェルトの取り込みである。

 米英がヨーロッパ大陸に上陸して東西からナチスドイツを挟み撃ちするには、米英はまず北アフリカに駐留するイタリア軍やドイツ軍を制圧して背後の安全を確保し、さらにはスエズ運河と地中海の安全を万全なものにする必要があった。

 ドイツと同盟関係にあったイタリアは1940年6月10日、ドイツ軍のパリ侵攻4日前に英仏に対し宣戦を布告し、アフリカ東端の紅海とインド洋をつなぐ要衝の地、イギリス領ソマリランドに侵攻した。この地域のイタリア植民地エリトリアとエチオピアには合わせて約20万の兵を配置した。さらにイタリア植民地のリビアに駐留する30万の兵をイギリス領エジプトに向け東進させた。パリを占領されるとフランスはナチスドイツに降伏し、イギリスは当面、スエズ運河を守備する5万の兵でイタリアの軍勢に立ち向かわなければならなかった。

ドイツの暗号作成機(The Imperial War Museum)ドイツの暗号作成機(The Imperial War Museum)

 態勢を整えるのに時間がかかったイギリスは11月から反撃を開始、12月にはリビアとアフリカ東端の「アフリカのつの」からイタリア軍を駆逐し、残るはチュニジアだけとなった。見かねたヒトラーは翌1941年2月、将軍エルヴィン・ロンメル率いる機甲師団をイタリア軍救援に派遣した。北アフリカの砂漠地帯での戦闘では、イギリス兵が「砂漠のキツネ」と呼んだロンメルが知略を駆使して優勢に戦いを進めた。イギリス軍は増援を重ねて立ち向かったが、それでもドイツ潜水艦Uボートの輸送船攻撃で補給に苦しんだ。局面を打開したのは、最も解読が難しかったドイツ海軍の「暗号作成機(エニグマ・デコーディング・マシーン)」をイギリスが入手したことだ。天才数学者アラン・チューリング率いるチームが暗号解読に成功し、イギリスはUボートを次々に撃沈してロンメル軍への補給を断った。この暗号解読の成功は長らく極秘とされ、ドイツの暗号作成機を使っていた日本軍は太平洋戦争で暗号をことごとく解読されてしまった。アラン・チューリングは今日「人工知能の祖」と呼ばれている。

暗号を解読した数学者アラン・チューリング(The National Portrait Gallery)暗号を解読した数学者アラン・チューリング(The National Portrait Gallery)

 米英は北アフリカのドイツ・イタリア軍にとどめを刺すべく、1942年11月8日、10万7千の兵をモロッコのカサブランカ、アルジェリアのオランとアルジェに上陸させる「たいまつ作戦」を決行した。

 フランス領北アフリカではナチスドイツの傀儡政権となった仏ビシー政権の12万人の軍がカサブランカやアルジェに駐留していた。英米はフランス軍との戦闘は何としても避けたかった。米国は作戦決行の半年ほど前から、勇猛さで知られるフランスの将軍アンリ・ジローと秘密交渉を重ね、彼を秘密裏に地中海の入口にある英領ジブラルタルまで連れて来ることに成功したが、土壇場で和平交渉は決裂した。

 上陸作戦に赤信号が点滅し始めた決行前日、事態は劇的な展開を迎える。フランス提督で軍総司令官フランソワ・ダルランが、息子の急病見舞いでたまたまアルジェに来ていることが判明したのだ。米は交渉相手をダルランに切り替え、ほとんど軟禁状態で決断を迫った。すでに米軍上陸部隊とフランス軍駐留部隊は一部で砲火を交えていたが、戦闘が本格化する前にダルランは北アフリカの全フランス軍に降伏を指令し、上陸作戦への致命的な打撃は回避された。上陸を果たした米・英軍はドイツ・イタリア両軍をチュニジアへと追いつめ、1943年5月13日、両国の部隊を降伏させた。米英軍は次いでイタリア南部に上陸し、イタリアは1943年9月3日に降伏した。だが、ドイツ軍は依然、ローマ以北のイタリアを占領していたのである。これがテヘラン会談のほぼ3カ月前の状況である。

暗号文を作成するドイツ兵(Das Bundesarchiv, Feburuar 1941)暗号文を作成するドイツ兵(Das Bundesarchiv, Feburuar 1941)

 1943年11月28日、いよいよ3巨頭によるテヘラン首脳会談が始まる。初日、まずスターリンが戦況報告し「対独戦はウクライナ地域以外目覚ましい進展がない」と報告し、一日も早い米英の上陸作戦実施を促した。ローズヴェルトは米国にとってとりわけ重要な太平洋の戦況から説明。スターリンはすかさず「対ドイツ戦に全力を集中しなければならない現時点では、日本との戦闘に入ることはできない」と前置きし「参戦時期はドイツ降伏後になるであろう」と付け加えた。この一言はローズヴェルトを喜ばせるに十分だった。ローズヴェルトはまた、米英の爆撃機がソ連領内の飛行場を使ってドイツ軍を攻撃する段取りをスターリンに要請、対日戦ではシベリアに米軍のための飛行場を確保して日本本土を爆撃する構想を披露した。

アルジェリアに上陸する米軍(The Pinterest)アルジェリアに上陸する米軍(The Pinterest)

 本題の「大君主作戦」の上陸地点の議論では、スターリンはフランス北部を主張、チャーチルはイタリアにドイツ軍が駐留し、イギリスの同盟国トルコが未だドイツに宣戦布告していない状況を踏まえ、南フランス、北イタリアあるいはバルカン方面へも軍を割くべきだとの意見だった。チャーチルは上陸地点をフランス北部に限定すると、ドイツが軍を各方面から増派する可能性があると懸念していた。チャーチルは、第一次大戦の対トルコ戦でダーダネルス海峡に突き出したガリポリ半島への上陸作戦を指揮、英仏陸軍と第一次世界大戦のために独立間もないオーストラリア陸軍とニュージーランド陸軍で編成したアンザック軍合わせて合計21万4000人が戦死(病死を含む)する大敗北を喫した経験があったのである。作戦を立案・遂行した海軍大臣チャーチルは責任を取り辞任、敵前上陸作戦の難しさは、チャーチルの骨身にしみていた。

 もう一つ。チャーチルはイタリア北部への上陸作戦を実施することにより、大戦終結後間違いなく強国となるであろうソ連が、中部ヨーロッパを勢力圏に置く野心を牽制しておきたかったのだ(チャーチルの不安は戦後的中することになる)。スターリンは、チャーチルがそのような“疑念”を抱いていることを十分承知していた。だからこそローズヴェルトにフランス北部への上陸作戦を支持するよう促したのである。

 テヘラン会談では、スターリンの対日参戦のリップサービスが効いた。しかも外交常識では信じがたいことだが、ローズヴェルト一行はテヘランのソ連大使館を宿舎としていた。テヘランの治安状況をソ連側が誇張し、ソ連大使館を宿舎にするよう勧めたのである。この措置はローズヴェルトの自尊心をくすぐった。ソ連との同盟はチャーチルが切り開いたものだが、大使館ではスターリンといくらでも意見交換できるし、「スターリンの扱い方は自分の方が上だ」と思い込んでいたようだ。「ローズヴェルトはスターリンと私的に接触し、自分に会うのを避けている」とチャーチルは回想録に記している。

 ローズヴェルトは思い付きを直ぐ口に出す政治家だった。テヘラン会談直前のカイロ会談で、チャイナへの思い入れが強いローズヴェルトは、雑誌タイムの表紙を度々飾った国民政府総統の蒋介石の招待を強く主張。彼は蒋介石に、国民政府軍支援のため、大君主作戦の前にベンガル湾へ上陸作戦を行うと約束してしまった。後で知らされたチャーチルは、大君主作戦の成否は兵員や軍用車両などを海岸線まで運ぶ上陸用舟艇(ランディング・クラフト)の確保にかかっており、ベンガル湾で上陸作戦を行う余裕はないと猛反対し、阻止した。実際、連合軍は大君主作戦には第一段で16万人の兵と艦船7000隻を投入したのだが、艦船のうち5000隻が上陸用舟艇だった。テヘラン会談当時、米英の造船所は全力で上陸用舟艇を建造していたのである。

 テヘラン会談での終戦後のドイツ問題の話し合いでは、ローズヴェルトは突然、「ドイツ5分割案」を披露し、その場の皆を唖然とさせた。ドイツとイタリアと日本を「無条件降伏(アンコンディショナル・サレンダー)」に追い込む方針も、ローズヴェルトが1943年1月、チャーチルとのカサブランカ会談最終日の記者会見のさなかに、突然ぶち上げたものである。果てしない殺戮を連想させるその言葉は、居合わせた者たちを凍り付かせた。チャーチルは困惑した。会談では何一つ決定していなかったはずだったからである。結局、この言葉は撤回されなかった。

車中のローズヴェルトとハリー・ホプキンス(US Library of Congress, September 1938)車中のローズヴェルトとハリー・ホプキンス(US Library of Congress, September 1938)

 当時のアメリカは、国力はあるが世界の舞台に立つには外交的には未熟であった。ローズヴェルトは正規の外交ルートである国務長官のコーデル・ハルや駐ソ連大使のアヴェレル・ハリマンよりも、官僚出身で彼のスピーチライターでもある私設秘書ハリー・ホプキンスを重用し、モスクワでのスターリンとの交渉もホプキンスに頼っていた。チャーチルはホプキンスについて「ロシアに対する彼の友好は広く知られており、彼は実に好意的な歓迎を受けた」と記している。今日でも彼がソ連のスパイだったという疑念は、完全には払しょくされていない。チャーチルと異なり、ローズヴェルトには共産主義への警戒心がまったくなかった。スターリンにとって、これほど御しやすい首脳はいなかっただろう。

 テヘラン会議の合意の骨子は①大君主作戦を翌1944年5月中に実施し、上陸地はフランス北部だが、南フランスも一体となった作戦とする②大君主作戦と同時にソ連はドイツが反撃のため西進するのを阻止すべく攻勢に出る、の2点である。軍事面ではジョン・ディーン少将率いる米軍事使節団をモスクワに常駐させ、ソ連領内からの米英爆撃機によるドイツ軍攻撃や、ソ連が対日参戦のために必要とする装備や軍需物資についてソ連と協議することになった。つまり、テヘラン会談によって、米ソ軍事同盟が構築されたのである。ソ連の対日戦の準備はここから動き出した。

 米軍の最高機関、統合参謀本部に1944年10月18日付で「最高機密」指定の電信文(M21412)が届いた。発信元はモスクワに滞在する軍事使節団長のディーン少将。対日戦準備のためスターリンが米に求めた軍需物資の概略を報告した文書である。やや長くなるが以下に示す。

 燃焼性の高いガソリン(100オクタン)12万トン、自動車用ガソリン7万トン、合計容量1万2千トン分の組立式燃料貯蔵タンク、食料18万トン、衣服や医療用品1万4500トン、多目的ジープ500両、水陸両用車1000両、軍用トラック3万両、雪かきブルドーザーなど種々の空港用装備、C-47輸送機400機、C-54輸送機100機、軍用通信機材計2万トン、フリゲート艦10隻、コルヴェット艦20隻、機雷敷設艦2隻、掃海艇30隻、対潜哨戒艦50隻、他に小型船舶多数。鉄道用として蒸気機関車500両、貨車5000~6000両、鉄路800km分の線路などとなっている。スターリンは、シベリア横断鉄道に直ぐ着工できるよう、すべて太平洋ルートで輸送するよう求め、カムチャッカ半島東岸のソ連軍港ペトロパブロフスクの利用を提案。さらに「ソ連が対日参戦する前にアメリカが千島列島を攻撃して占領することが望ましい」とのスターリンの意向も、この電信文は伝えている。

 日本を驚愕させた1945年8月のソ連の満州侵攻は、まさに米軍が丸抱えでソ連に準備させた作戦だったのである。

(本文中敬称略)

 

〔主な参考文献〕
“Foreign Relations of the United States : Diplomatic papers, The conferences at Cairo and Tehran, 1943” Office of Historian, Foreign Service Institute (United States Department of State)
“Closing the Ring” Winston Churchill (RossettaBook, LTC)
“World War Ⅱ : Fighting in North Africa, Sicily and Italy” Kennedy Hickman (ThoughtCo.)
“The Strange Alliance, The Story of our Efforts at Wartime Co-operation with Russia” John R. Deane (The Viking Press, January 1947)
コラムニスト
竜口英幸
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。2018年4月、福岡市の集広舎から「海と空の軍略の100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」を出版。
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