ワシントンのリンカーン記念堂座像(The Haffington Post)

ワシントンのリンカーン記念堂座像(The Haffington Post)

 合衆国の歴代大統領の中で人々に最も敬愛されているのは、第16代大統領アブラハム・リンカーンだ。当時、辺境(フロンティア)と呼ばれていたケンタッキー州の貧しい開拓農家の家庭に生まれ、苦学して弁護士となったリンカーンは1854年、奴隷制の拡大反対を党是とする共和党創設に参加。分離独立を宣言した南部十一州との戦い、「アメリカ市民戦争」という建国以来最大の国家分裂の危機の中で大統領に就任し、自ら軍最高司令官と公言して鉄の意志で勝利を納めた。

 リンカーンは国外に出た経験がない。首都ワシントンに駐在するイギリス王国、フランス帝国、ロシア帝国の外交官たちは南部の指導者たちと親しく、ヨーロッパ列強にとってリンカーンは力量が未知数の政治家でしかなかった。独立から一世紀近くたって国力を充実させてはいたが、アメリカは依然、列強と肩を並べるまでには至っておらず、ヨーロッパはアメリカが強大になるのを望んではいなかった。列強は、アメリカの分裂を歓迎し、介入して自国の国益を増す絶好の機会ととらえていたのである。しかも、南部同盟は開戦前の1861年3月、3人の “外交使節” を欧州に派遣し、国家としての承認を獲得しようと動き出してしていた。リンカーンにとって強国の介入をいかにして防ぐか、その上でどのようにして軍事的勝利を収め、国家の統一を強固にするかが切羽詰まった至上命題だったのである。

南部を経済封鎖したアナコンダ作戦のイラスト(Library of Congress)

南部を経済封鎖したアナコンダ作戦のイラスト(Library of Congress)

 市民戦争は1861年4月12日に南部同盟軍の襲撃で始まったが、イギリスはその一カ月後の5月13日、戦争への中立を宣言した。中立とは、南北が交戦状態にあることを認める宣言で、いわば南部同盟の正式認知の前奏曲であり、イギリスが南部同盟側の支持に回ろうとしていることの表明でもあった。フランスもこの流れに足並みをそろえ、しかも戦況は南部同盟が優位に戦闘を進めていた。

 この年の11月には、米海軍(ユニオン軍)がイギリスの郵便船トレント号をキューバ近くで拘束し、乗船していた南部同盟の外交官2名を連行した「トレント号事件」が起きた。2人はユニオン軍の海上封鎖をかいくぐって南部を脱出し、ハバナ港で船を乗り換えイギリスへ向かおうとしていたのである。イギリスの国粋主義的首相のロード・パルマーストンは国家に対する侮辱であると態度を硬化させ、英植民地カナダに軍隊を送り大西洋へ海軍艦船を増派してアメリカを威圧した。しかし、リンカーンはこの危機を逆手に取り、内々に二人を釈放して結果的にイギリスをユニオン側に取り込んだ。イギリスとしても50万人の陸軍を擁するユニオン軍との軍事衝突は避けたいというのが本音だったのだ。

 大英帝国の弱点は、主要産業である綿織物工業が、原料の綿花の8割を米南部からの輸入に頼っていることだった。綿花の輸入が滞ればイギリス経済に大きな影響を与える。リンカーンの戦略は、まず海上封鎖で南部に経済的打撃を与え、併せてイギリスを揺さぶって牽制することだ。リンカーン率いるユニオン軍がとった作戦は経済封鎖。港があるミシシッピ川流域から東へ伸びる南部同盟軍の領域をすっぽり取り囲み、経済封鎖で締め上げる「アナコンダ作戦」、大蛇がじわじわと獲物を締め上げるように、一切の物資補給を止めたのだ。その裏でリンカーンはイギリスとフランスに対し、ユニオン軍が占領した南部の港から綿花を輸出すると約束、両国を懐柔した。

リンカーンの外交を担った国務長官ウィリアム・シワード(U.S. Department of State)

リンカーンの外交を担った国務長官ウィリアム・シワード(U.S. Department of State)

 こうした積み重ねの最終段階に、列強の介入を防ぐ強力な大義名分として奴隷解放宣言が登場したのである。奴隷制の拡大反対を掲げる共和党の大統領リンカーンは、1861年3月の就任演説では「奴隷解放」について言及しなかった。前の月にロシア帝国が農奴解放令を出したばかりで、最適のタイミングだったはずなのに、それをしなかった。なぜか。

 リンカーンはヴィクトリア女王全盛時代のイギリスの議会や各界指導者たちの動向や奴隷制に反対する世論の高まりを知っており、奴隷制反対を真正面から突き付けられるとイギリスは南部同盟を公然とは支持できないと確信していた。ただ、就任式の時点では自分の主張を一時的に封印し、用意周到に自分の人脈やニューヨーク州選出の上院議員の経歴を持つ国務長官ウィリアム・シワードの人脈を駆使し、ヨーロッパの世論工作に乗り出したのだ。人脈は政治家、枢機卿、言論人、軍人、作家と多彩だった。ユニオンは1862年2月、ニューヨークで奴隷貿易商ナタニエル・ゴードンに絞首刑を執行、4月にはイギリスと締結した奴隷貿易禁止条約がアメリカ上院を通過し、米英の共通の足場が構築されて行く。そして1863年1月1日、リンカーンは満を持して「奴隷解放宣言」に署名したのだ。イギリスの戦争介入の野心はこうして最終的に封じられた。

 だが、市民戦争は思わぬ飛び火も招いていた。アメリカの内戦をチャンスととらえたフランス帝国のナポレオン3世は、イギリスとスペインを促して1861年12月に政情不安のメキシコ共和国に出兵したのだ。「アメリカはヨーロッパ内の紛争に介入しないが、ヨーロッパ勢力によるアメリカの西の領域の国に対する圧迫や勢力下に置こうとするいかなる試みも、アメリカへの敵対行動とみなす」というモンロー主義を掲げるアメリカへの公然たる挑戦だった。イギリス、スペインはほどなく撤兵したが、フランスは軍を進めて首都を陥落させ、新たな君主制国家を樹立するに至る。ナポレオン3世はオーストリア皇帝の弟、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフを甘言で誘い、皇帝に就任させる。完全な傀儡(かいらい)政権だった。ゲリラ軍の抵抗は続き、市民戦争に勝利したリンカーン政権はフランスのメキシコ遠征を非難し、撤兵を促した。メキシコ脱出を拒否した皇帝マクシミリアンはやがてゲリラにつかまり処刑され、印象派の先駆者マネの油彩画「皇帝マクシミリアンの処刑」で名を遺すことになった。メキシコ遠征はアメリカ市民戦争の副産物と言えなくもないが、結果的にアメリカの領域はヨーロッパが手を出せない確固たる地位に高まったのだ。

 1863年1月1日のアメリカの奴隷解放宣言の結果として憲法修正13条「奴隷制度と強制労働の禁止」、さらにリンカーン暗殺の約2か月後の1866年6月13日に連邦議会が発議した修正第14条「奴隷制廃止に伴う市民権の拡大、法による平等な保護、適正な法手続きなど」が誕生した。修正第14条は1868年7月28日に発効したが、この「適正な法手続き」は「デュー・プロセス」という法律用語で浸透しており、逮捕時のミランダ告知(黙秘権があること、供述は法廷で不利な証拠として用いられることがあること、弁護士の立ち合いを求める権利、自分で弁護士を付けることができなければ公選弁護士を付けてもらう権利があること)の4点を告知しなければ適正な法手続きと認められないことをはじめ、今日でも訴訟で大活躍する米国憲法で最も重要な条項の一つである。二つの憲法修正条項で、南部のプランテーション農園はとどめを刺されたのである。奴隷制を維持しても綿花がある限りイギリス、フランスは自分たちにつくはずという、南部同盟の戦略は、世界の趨勢を見誤ったものだった。

 リンカーンは戦時大統領として際立った見識と指導力のある大統領だった。だが、今日、ほとんど忘れ去られているが、独立宣言を体現した自由な民主国家として清国との外交関係に偉大な足跡を残した大統領であることは、いくら強調してもし過ぎることはない。

清王朝の近代化政策を推進した恭親王奕訴(writeopinion.com)

清王朝の近代化政策を推進した恭親王奕訴(writeopinion.com)

 清は当時、未曽有の国難に見舞われていた。「香港船籍のアロー号が掲げていたユニオン・ジャックが清の軍人に引き下ろされた」という「アロー号事件」を理由に、イギリスとフランスの軍隊が首都近くの天津に迫り、1858年の天津条約締結に追い込まれたのだ。市場開放を迫るため英仏が難癖をつけ、こん棒を振り回したという様相が強い。清が条約発効に必要な批准手続きを渋ると、英仏は1860年に北京へと軍を進め、略奪を重ねて美しい離宮・円明園も無残に破壊した。その結果として締結した北京条約では①天津、漢口、南京など11港を条約港とし、条約港居住外国人に旅行権を付与する②キリスト教の布教権承認とアヘン貿易の合法化③外交使節の北京常駐権④英国に香港(九龍半島)を割譲する、という清にとって屈辱的な内容だった。英仏と清との仲介に乗り出したロシアは、仲介の対価として清に北東部の領土、沿海州を割譲させた。港町ウラジオストックがある地域だ。

 条約の結果、清は初めて、欧米諸国と日常的に外交関係を処理しなくてはならなくなった。咸豊帝の死後、ただ一人の男子である載淳が1861年に5歳で即位し同治帝となると、母親の西太后と叔父の恭親王奕訴(えききん)が実権を振るい、恭親王は外交を司る「総理各国事務衙門(がもん)」を創設し、自ら外交を掌握した。

アンソン・バーリンゲームの1858年の肖像(Library of Congress)

アンソン・バーリンゲームの1858年の肖像(Library of Congress)

 列強が清国に襲い掛かった国際情勢を見つめていたリンカーンは、対清外交に乗り出す。1861年6月、彼は法律家でマサチューセッツ州選出の上院議員、アンソン・バーリンゲームを全権公使に指名した。バーリンゲームは「あらゆる人に善を尽くす」を掲げるキリスト教メソジスト派の敬虔な信者で、厳格な人柄と相まって議会人の信望も厚かった人物である。バーリンゲームは、米清関係は平等と互恵主義に基づかなければならないとの信条から「協力政策」を提唱した。当時の北京の外交団はイギリスが仕切っていたが、バーリンゲームは温和な主張で威圧に流れがちな外交団の対清活動を柔軟にリードし、清の近代化のためにも西洋諸国に外交使節団を派遣するよう働きかけ続けた。ほぼ6年間にわたる北京生活でバーリンゲームは恭親王はじめ清国外交スタッフの尊敬と信頼を勝ち得た。1867年11月に任期満了となり彼の離任の宴席が設けられた際、バーリンゲームは「もし各国と問題が生じた時は尽力しよう」とあいさつしたが、この言葉は恭親王の心をとらえ、親王は直ちに皇帝に上奏文を提出、バーリンゲームは清が初めて西欧諸国に派遣する外交使節団の首席全権代表(弁理中外交渉事務大臣)に起用された。全権公使が、任期を終えたとはいえ赴任先の全権大使に任命されるなど前代未聞の出来事だった。清側は、不平等な関係を是正し近代化への協力を取り付けるには、バーリンゲームを置いて他に人なし、と判断したのだ。

バーリンゲーム(中央)が率いた清朝使節団(The South China Morning Post)

バーリンゲーム(中央)が率いた清朝使節団(The South China Morning Post)

 「蒲安臣」という名前を与えられたバーリンゲームは、約30人の使節団を率いてアメリカからヨーロッパへと回る。アメリカでは国務長官シワードとの交渉で1868年7月28日「バーリンゲーム-シワード条約(清米天津条約続増条約)」の締結にこぎつけた。清が初めて手にした平等互恵条約であり、相互に最恵国待遇を盛り込んだ。アメリカは清の内政に不干渉を表明し、清の領土割譲にも反対を規定、両国民の自由な往来や居住、貿易を保証した。さらにアメリカは清国市場や天然資源の入手に道が開かれ、将来の経済協力も規定、アメリカの鉄道建設への清国人労働者の参加が認められたのである。条約締結時、リンカーンは既に暗殺されてこの世の人ではなかったが、アメリカはバーリンゲームという類まれな人物により、東洋の老大国と米建国の理念に立脚した外交関係を結ぶことができたのだ。

 その後、バーリンゲームは欧州各国を訪れモスクワで客死した。49歳だった。彼と親交があった人気作家マーク・トウェインは「彼は善き人であり真に偉大な人物だった。彼の死でアメリカはかけがえのない息子を失い、全世界が唯一のしもべを失った」と追悼した。(文中敬称略)

 
【主要参考文献】
Abraham Lincoln and Foreign Affairs – Burton J. Hendrick(Little,Brown & Co.,1939)
Abraham Lincoln and William H. Seward – John Taylor(The Lehman Institute)
The Place of Abraham Lincoln in History – George Bancroft(The Atlantic)
The Burlingame Mission』Salvatore Babornes -(Foreign Affairs, November 23, 2017)
『近代米中平等互恵関係の構築に関する蒲安臣の功績』黄逸(或門WAKUMON 31)
『大清帝国と中華の混迷』平野聡(講談社学術文庫)