百鬼夜行の国際政治

第19回

地上の野獣 vs 海の野獣

エルベ川の橋上で握手する米兵(左)とソ連兵(Sputnik)エルベ川の橋上で握手する米兵(左)とソ連兵(Sputnik)

 世界を覆うコロナ禍のただ中、ほとんど話題にならなかったが、米ソ首脳は4月25日に「エルベの邂逅かいこう」75周年の共同声明を発表した。1945年4月25日、ドイツの首都ベルリンを目指し、東から進軍してきたソ連軍と西から兵を進めたアメリカ軍がベルリンの南約130キロメートル地点、ライプツィヒ近郊のエルベ川西岸で出会い、両軍の兵士は破壊されたエルベ川の橋上で握手した。別々の戦場で戦ってきた両軍兵士が初めて出会ったのだ。両国にとっても、第二次世界大戦史にとっても象徴的な出来事となった。二週間後の5月8日ナチスドイツは無条件降伏し、それから3カ月後の8月8日、ソ連はヤルタ会談での約束通り日本との中立条約を破棄し、満州に攻め込んだのである。

 「優秀なゲルマン民族がスラブ人を奴隷化し、反社会的犯罪者に等しい共産主義者を滅ぼす」と人種差別戦争を仕掛けたドイツ。ソ連は2700万人もの犠牲者を出し、凄惨極まりないドイツとの戦いに勝利した。そのソ連がなぜ、ウラル山脈を越えて満州から南樺太、さらに千島列島へと攻め込んだのか。1991年のソ連崩壊後、国家の機密文書や公開されなかった要人の日記なども次第に明るみに出始めている。北方領土の謎解きは、そのまま百鬼夜行の国際政治の舞台をたどる旅である。戦争という非情の舞台ゆえに、そこには「外交の基礎は軍事力にあり、軍事力の基礎は経済力にある」という国際政治の原理が凝縮されている。

「ハネムーンはいつまで続くのか」と独ソ不可侵条約を皮肉る漫画(Reddit)「ハネムーンはいつまで続くのか」と独ソ不可侵条約を皮肉る漫画(Reddit)

 第二次世界大戦は「ナチスドイツの電撃的ポーランド侵攻が原因」と解説されることが多い。それは物事の半面であり妥当性を欠いている。「ナチスドイツとソ連が手を組んで始めた戦争」というのが歴史の真実だ。後にソ連は米英と同盟してナチスドイツと戦い勝利したが、戦争の火ぶたを切り秘密協定でポーランドを分割した当事者としての汚名を消し去ることはできない。現ロシア大統領ウラーディミル・プーチンは2014年11月に「ナチスドイツとの条約に何ら誤りはない。ソ連は戦争がしたくなかっただけだ」と強弁。欧州連合(EU)の主要機関である欧州議会が2019年9月に採択した「独ソ不可侵条約とその秘密協定は第二次世界大戦の開戦に決定的な役割を果たした」との決議を、プーチンは事あるごとに非難している。

 1939年9月1日、ドイツは戦車2750両、大砲9000門を擁する計60個師団と急降下爆撃機ユンカースJu-87を核とする航空機1300機を投入し、後に「電撃作戦」と呼ばれることになる戦いを展開した。二日後の9月3日、ポーランドと軍事同盟関係にあった英仏がドイツに宣戦布告する。両国が開戦前にドイツに取り続けた宥和策から、「英仏には戦う度胸はない」と踏んでいた総統アドルフ・ヒトラーには、想定外の戦線拡大となった。

 ドイツ軍は、航空機と戦車で奇襲をかけ首都ワルシャワを目指して一気に攻め込んだ。航空部隊は開戦初日にポーランド軍の航空基地を爆撃し、ほぼすべての航空機約400機を飛び立たせることなく破壊して制空権を確立。同時に、軍用車両による機動力を特徴とする装甲師団6個師団(1師団は1万2千人~1万3千人)が先鋒となり突進、後続の陸上部隊が占領域を広げた。装甲師団は国境から約220キロメートルを一気に突き進み8日にはワルシャワに迫った。首都は15日に陥落した。

ソ連軍のポーランド侵攻を報じたシカゴ・サンデー・トリビューン紙ソ連軍のポーランド侵攻を報じたシカゴ・サンデー・トリビューン紙

 ソ連はワルシャワ陥落を見届けた上で17日、33個師団の兵、戦車約4700両、航空機3300機、野砲5000門をもって東からポーランドに襲いかかった。ポーランドは10月6日に降伏。ソ連はこの侵略劇でポーランドの領土をナチスドイツと東西に分割し、山分けした。スターリンはさらに領土拡張の野心を膨らませルーマニア、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)を併合、そしてフィンランドへと侵攻する。

 ソ連の決断はナチスドイツと英仏とを天秤にかけた末の選択だった。ソ連を秘密警察と恐怖で支配する首相ヨシフ・スターリンは、当初はナチスドイツの東進を警戒し、イギリス、フランスに対し対独同盟の構築を呼びかけていた。しかし、協議は1939年7月に至ってもまとまらず、スターリンは方針を百八十度転換しヒトラーと手を組む。ソ連はポーランドとの不可侵条約を破棄し、8月23日に「独ソ不可侵条約」を結んだ。つまりソ連がポーランド側につくことはないと保証することで、ヒトラーのポーランド攻めを可能とする舞台を整えたわけだ。

急降下して爆弾を投下するドイツのユンカースJu-87(Imperial War Museum)急降下して爆弾を投下するドイツのユンカースJu-87(Imperial War Museum)

 この背景には、第一次世界大戦にさかのぼる三か国の疑心暗鬼がある。大戦はバルカン半島の紛争を発端に1914年8月1日にドイツ帝国とロシア帝国が互いに宣戦布告し、イギリス、フランスもドイツに宣戦布告して始まった。そして英仏ロ3国は9月5日にロンドン条約を締結して同盟を結び「単独でドイツとは講和しない」、つまり途中で戦線を離脱しないことを誓い合った。ところがロシア革命で1917年10月にウラーディミル・レーニンが率いるボルシェビキ(共産主義)政府が誕生すると、直ちにドイツとの講和に動き出し12月には独ソ休戦協定が成立、残された英仏は苦難に満ちた戦闘継続を余儀なくされた。英仏にとって独ソの蜜月は最大限の警戒を要する事柄である。ソ連にしてみればロシア革命に干渉して軍隊を送り、反革命勢力を支援したイギリス、フランス、日本、アメリカには抜きがたい不信感があったのだ。簡単には握手できない。提携相手の選択は賭けでもあった。

 新興国ソ連の経済状況はどうだったのか。スターリンは農業国から工業国への大転換を目指して1928年から集団農場の導入を手始めに三度目の五か年計画に入ったばかりだった。集団農場政策ではまず農地や生産資材を所有する数十万の富裕な農民を処刑し、1000万人を越える貧農を共同農場へと組み込んだ。これに従わない者も多く、農業の混乱は天候不順も重なって甚大な被害をもたらし、1932年から33年にかけて大飢饉が発生、少なくとも500万人が餓死した。これには1000万人との推計もある。さらに極端に猜疑心が強いスターリンは1936年から38年にかけて「大粛清」を行い、60万人を処刑、数百万人を収容所へ送って強制労働を課した。この粛清で軍幹部や高級将校が根こそぎ処刑され、ソ連軍は独ソ戦で大変な苦杯をなめることになる。

 第二次大戦後、スターリンの死により首相の座に就いたニキータ・フルシチョフは1956年のソ連共産党第20回大会の秘密報告で、スターリンを厳しく批判する演説を行った。「(1934年の)第17回大会で選ばれた党中央委員会の委員と候補139人のうち98人、すなわち70パーセントが(1937年から1938年にかけて)逮捕され、銃殺された」と。それは独ソ戦前夜に、スターリンが「人民の敵」の烙印を押した中枢の指導者たちだった。世界は悪魔ヒトラーとスターリンとの握手に驚愕したが、スターリンもまた、“悪魔”だったのである。

ドイツ軍の機甲師団(Gettyimages)ドイツ軍の機甲師団(Gettyimages)

 1939年、ドイツのポーランド侵攻でドイツに宣戦布告したイギリスは、10月半ばまでに北フランスに16万人の遠征軍を送り込み、さらに増派を続けて翌年初めには2倍の兵力とした。英仏の戦争費用の分担割合はイギリス3に対しフランスが2と取り決めていた。しかし、装備は貧弱だった。なぜか。第一次世界大戦で英国経済は疲弊したため、国力の回復を優先し「向こう10年間は大きな戦争はない」との想定で防衛支出を10年間最小限にとどめる「10年ルール」を導入、この政策は延長されて1932年3月まで続いた。製造業は衰退し軍備の開発はままならず、1939年から航空機の供給はアメリカに依存、パイロットもアメリカで養成訓練を受けていた。

 ドイツ軍は5月10日、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグに攻撃を開始し、あっさりフランスへ侵攻、英仏軍は後退を続けてドーバー海峡に面したダンケルクまで追い詰められた。ここでイギリスは軍の艦船に加えて民間の漁船やヨットなどを総動員し5月27日から6月4日にかけて約33万8千人の兵をイギリスの地に回収した。「ダンケルクの戦い」と呼ばれる大脱出劇である。5月に首相に就任したウィンストン・チャーチルは「1940年のイギリスには2万の兵、200門の大砲、戦車50両しかなかった」と回想録に記している。

 フランスを降伏させると、ドイツは7月から航空機によるイギリス攻撃を開始した。「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる戦いが始まった。今や孤軍奮闘となったイギリスだったが、戦闘機「ホーカー・ハリケーン」の改良と新鋭機「スピットファイア」の量産体制に目途がつき、ドイツ戦闘機を圧倒する戦いを繰り広げることが可能となる。しかし、ロンドン空爆は10月末まで続いたのである。

「バトル・オブ・ブリテン」を象徴する英機スピットファイアの編隊(History Hit)「バトル・オブ・ブリテン」を象徴する英機スピットファイアの編隊(History Hit)

 国家財政はもっと深刻だった。開戦に踏み切った時、イギリスの資金は保有する金をすべて売却してもわずか45億ドル、現在の円換算で4860億円しかなかったのである。同年のドイツの軍事予算は現在の価値で1220億ドルと、イギリスの1.5倍だった。英政府は南アフリカで金を増産し、ウイスキー、上等の毛織物、陶器などぜいたく品の輸出を推進、開戦から16カ月で資金を20億ドル積み増した。

 英国が迎えた最大の危機に際し、チャーチルは豪胆な決断を下した。「可能な限り(軍需品を)何でも注文し、将来の財政問題は運を天に任せる」。11月に入り、イギリスは受け取った商品の全代金を現金で支払った。都合45億ドル──それでも注文総額の半分にも満たなかった。しかも手元にはわずか20億ドルしか残っていない。

 ここで救世主が現れた。11月に米国第32代大統領フランクリン・ローズヴェルトが三選を果たすと、彼はイギリスの窮状を救う奇策を思いついたのである。武器・装備をイギリスに輸出するのではなく「現物貸付」あるいは「リース」という方式にすれば、参戦に反対する連邦議会や国民は納得するだろう、という構想だ。こうして彼は1941年3月、「レンド・リース法」に署名した。日本では「武器貸与法」と訳されているが、これは正確ではない。同法の対象は武器、弾薬など軍需物資から工作機械、金属など工業用原材料、ガソリン、食料、衣料品と、ありとあらゆる物資を網羅している。1933年に周囲の反対を押し切ってソ連を国家として承認した彼は、同法の適用対象国にソ連を加えた。

 ほどなく世界を驚愕させる日が到来する。1941年6月22日、ドイツがルーマニアやフィンランドの軍を含む300万人を越える規模で、バルト海から黒海に至る西の国境全域でソ連に奇襲攻撃をかけたのだ。不可侵条約はヒトラーの空証文だった。「イギリスと戦っている間は、ドイツはソ連に刃を向けることはない」と“確信”していたスターリンは、茫然自失に陥って別荘にこもり、直ぐには反撃の指揮を取れなかった、とフルシチョフは回想している。ドイツ軍の電撃作戦は、大粛清で経験豊富な指揮官を失っていたソ連軍を大混乱に陥れた。ソ連軍は最初の3日間で航空機約3900機を失い、年末には被害は1万300機に膨らんだ。戦車部隊は初戦から総崩れとなって年末までに2万500両、野砲は6万門を失った。戦車の損失は年間生産台数の3.3倍に相当する。戦闘による死傷者は毎週15万人のペースで積み上がり、ドイツ軍は年末には国境から1600km進軍して首都モスクワに迫った。これがスターリンの油断と粛清の対価だった。占領地ではドイツ兵4250人で編成した処刑専門部隊「アインザッツグルッペン」がユダヤ人狩りを行い、大量殺戮を繰り返して犠牲者は150万人にも上った。

 一方ロンドンには、ドイツのソ連侵攻の報にいささかも動じない男がいた。首相チャーチルだ。諜報機関の情報によりドイツの攻撃が迫っていることをスターリンには度々警告していた。官邸で開戦の報告を聞いたチャーチルは「満足そうに微笑んだ」と首席秘書官サー・ジョン・コルビールは記録している。同夜、チャーチルは国民向け特別ラジオ演説に臨んだ。

 ナチスの体制は、共産主義の最悪の形態と何ら変わるものではない。(ロシア革命以来)過去25年間、私ほど一貫して共産主義に反対してきた者はいないし、私のこれまでの発言の一片たりとも取り消すつもりはない。しかし、眼前に展開している光景に、すべてが消え去った。今こそ私は女王陛下の政府を代表した決定を宣言しなければならない。われわれはヒトラーとナチス体制のすべてを、痕跡をとどめないまでに破壊する。ナチズムに対して戦う全ての人々あるいは国家は、われわれの援助を受けるだろう。ロシアとロシア国民に対し、われわれにできるあらゆる援助を与える」(筆者抄訳)。

 この瞬間、歴史の巨大な歯車が回った。イギリスが自国のために発注した軍用装備をソ連に回し支援するという苦渋の決断をしたのだ。だが、ロシア政府からは何の反応もなかった。チャーチルは7月に入り二度にわたりスターリンに親書を送り、ようやく12日にイギリスとロシアの協定が成立。これを受けて8月21日、輸送船団の第一陣がスコットランド北部オークニー諸島のスキャパ・フロー海軍基地を出港し、アイスランドの西側を通りバレンツ海のソ連軍基地ムルマンスクへ向かった。レンド・リース法に基づくソ連支援には米国も加わり、9月22日に米英両国は補給使節団をモスクワへ送り支援が本格化した。同年中に戦車669両、翌1942年1月までに5510両がソ連軍に届いた。最終的には支援は戦車約2万1500両、トラックなど軍用車両は約50万2000台、戦闘機や爆撃機は約1万8000機に達した。

モスクワで歓談する首脳。左端がチャーチル、右から二人目がスターリン(Imperial War Museum)モスクワで歓談する首脳。左端がチャーチル、右から二人目がスターリン(Imperial War Museum)

 1942年5月下旬、イギリスとソ連は「双方の同意なくドイツと単独講和しない」というアングロ・ソヴィエト条約を締結。チャーチルは8月にモスクワを訪問し初めてスターリンと会った。スターリンの要請で帰国予定を一日延ばした15日、スターリンはチャーチルを自宅に誘い、午後8時半から翌朝の2時半まで7時間以上も酒杯を重ねた。座が盛り上がったところで、6月下旬に白海にあるソ連の貿易港アルハンゲリスクへ緊急支援物資を運ぶ英米の商船団(PQ17)が、ドイツ潜水艦の攻撃を受け35隻中24隻が沈没して英米の軍艦が護衛しきれなかった事件をスターリンが取り上げ、イギリス海軍の能力を揶揄した。気まずい雰囲気になりかけたが、海相を務めたチャーチルが「私は英海軍のことなら何でも知っている。ロシアは地上の野獣で、イギリスは海の野獣だ」と切り返すと、スターリンは上機嫌に戻り、首脳会談の公式コミュニケもまとまった。チャーチルは冷酷な独裁者の心を掴み、二日酔いの頭痛に耐えながら帰国の途に就いたと回想録に記している。

イギリスの港から積み出されるソ連向け戦車(Radio Free Europe / Radio Liverty)イギリスの港から積み出されるソ連向け戦車(Radio Free Europe / Radio Liverty)

 レンド・リース法による支援について、ソ連は長らく貢献度を貶める路線を貫いていた。しかし、ソ連崩壊後、新しい真実が明るみに出た。フルシチョフは「米国が助けなかったら我々は戦争に勝てなかっただろう」と回想録に記していたのだ。軍の重鎮ゲオルギー・ジューコフ元帥に対する情報機関KGBの盗聴記録も衝撃的だ。「人々は、同盟国は我々を助けなかったと言っている。しかし、アメリカの援助物資なしには戦争を継続できなかったことを否定できない。アメリカは死活的に重要な爆薬や弾薬を供給した。膨大な量の鋼鉄もそうだ。アメリカの鋼鉄なしに我々は戦車の生産を立ち上げることができただろうか。だが、今、人々は必要なすべての資源は自前で持っていたと自慢しているのだ」と。

 レンド・リース法はソ連の起死回生の原動力だった。そしてこのレンド・リース法こそ、ソ連の満州攻撃から北方領土占領へ至る軍略を可能にしたのである。

(本文中敬称略)

〔主な参考文献〕
«”Comrades and Brothers” Churchill and Stalin and the Moscow Conference of 1942» Paul Chamberlin (Columbia university)
«Barbarossa to ‘Berlog’- Soviet Air Force» Weapons and Hardware of Warfare
◎『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』志水速雄 (講談社学術文庫1977年12月10日)
◎『第二次世界大戦』W・S・チャーチル、佐藤亮一訳 (河出書房新社、1983年12月3日)
«All For One :One For All -The Story of Lend – Lease» Office Of Lend-Lease Administration (Washington D.C.)
«’We Would have Lost’ : Did U.S. Lend-Lease Aid Tip The balance In Soviet Fight Against Nazi Germany?» Robert Coalson (Radio Free Europe / Radio Liberty, May 07,2020)
コラムニスト
竜口英幸
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。2018年4月、福岡市の集広舎から「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」を出版。
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