市民戦争・北軍ヴァージニア州の野戦病院(The History Rat)

市民戦争・北軍ヴァージニア州の野戦病院(The History Rat)

 ブエノスアイレスで昨年12月1日に開かれた米中首脳会談で、トランプ大統領は中国で違法に製造された薬物フェンタニルの米国流入対策として、製造業者を死刑に処すよう習近平主席に求めた。アヘンを精製した鎮痛剤モルヒネの100倍も強力とされるこの薬物により、2017年に全米で77000人が死亡したとトランプ大統領は主張し、習主席も取り締まりを約束した。報道を奇異に思われた方も多いだろう。貿易問題ばかりに焦点が当たった首脳会談ではあったが、薬物中毒が蔓延する米国と、その淵源たる清国との因縁を思い起こさせる異様なトップ交渉だったからだ。 

 清国の悲劇は、イギリス・東インド会社が清国との貿易赤字に苦しんで、18世紀から19世紀にかけて膨大なアヘンを持ち込み、人心も経済も荒廃させたことだ。

当局に押収されたフェンタニル(U.S. Drug Enforcement Administration)

当局に押収されたフェンタニル(U.S. Drug Enforcement Administration)

 清国では、銀が通貨の役割を果たしており、大小さまざまな形状の銀塊を、使用の都度その量目を図る方法で流通していた。税金は銀で納めなければならず、銀の需要はすこぶる旺盛。金より銀のほうが高い価値で取り引きされ、日本は江戸時代に岩見銀山から掘り出した大量の銀を輸出し金を入手していた。したがって清国商人が本当に欲しがったのは、異国の商品ではなく銀であり、とりわけ流通が容易なスペイン銀貨だった。スペインは植民地メキシコの銀山で潤沢に採鉱した銀で銀貨を鋳造し、世界の基軸通貨といえる地位を築いていた。東インド会社は銀貨を支払って清国から茶や磁器を輸入したが、同社が輸出しようとしたイギリスの織物はさっぱり売れず、貿易赤字は膨らむ一方。しかもイギリス本国からの商品輸入も銀貨で決済しなくてはならなかったのだ。

 ここで目を付けたのがアヘンだ。原料となるケシはイギリスの植民地インド・ベンガル地方で盛んに栽培されており、「ケシ坊主」と呼ばれる球形の未成熟の果実に傷をつけ、染み出した乳液を固めるとアヘンができる。清王朝は1729年にアヘンを禁止したが、知識階級や有力者たちは陶酔感を味わうためにひそかにアヘンを入手し、長いキセルで喫煙し楽しんでいた。商人は握りこぶし大に加工した黒い「アヘン・ケーキ」を約60㎏単位で櫃に詰め、密輸業者に売りさばいた。アヘンの隠語は広東語で「黒い虎」、常習すれば必ず牙をむき、身体や精神を蝕んだからである。

ケシ坊主(Wikipedia)

ケシ坊主(Wikipedia)

 禁制品を扱うため、東インド会社は賄賂で役人を買収し、広州港の沖合で密輸業者に荷を渡す仕組みをつくった。同社は1800年までに3000箱以上のアヘンを輸出、一箱につきスペイン銀貨約600ドルで販売したが、アヘンで稼いだ銀は会社の収支バランスを回復する目標額にはまだ届いていなかった。

 やがて清国一の豪商・伍秉鑑(ごへいかん)も密輸に手を出すようになり、アヘン喫煙は民衆へと広がって密輸量はうなぎのぼりに増えた。需要増で価格も上昇し、1805年から1809年にかけての5年ほどで輸出は4000箱、価格は一箱スペイン銀貨千ドルを越え、東インド会社は1806年に清国貿易の収支が黒字に転じたという。

 清王朝がアヘン取り締まりのため林則徐を湖広総督とした1837年には、イギリスは実に34000箱ものアヘンを持ち込んだ。アヘン中毒にかかった民衆はこのころ5000万人に膨れ上がったとの記録もあり、林則徐は1839年に軍を出動させてアヘン約2万箱を没収・焼却した。これが引き金となって両国はアヘン戦争(1839年~42年)に突入したわけだ。

 清国にアヘンを国策として売りつけた歴史的汚名は、イギリスが一身に背負わされている。しかし、あまり知られてはいないが、アメリカ商人も競って清国にアヘンを売りつけていたのである。イギリスの植民地から独立国となったばかりのアメリカにはまだ工業製品と言えるものがなく、朝鮮人参、ラッコの毛皮、燈火用鯨油、白檀(ビャクダン)と清国商人が喜びそうな品物確保に奔走したが、銀貨を調達しなくてはならない苦しい状況はイギリスと同じだった。

 アメリカ商人が目を付けたアヘンの産地はトルコ。最初は商船一隻当たり2、300箱ほどだったが、やがて各商人が500箱単位で密輸するようになり、さらに1500箱単位へと増大した。清国に密輸されたアヘン総量のうち、アメリカ商人の密輸量は10%程度とみられているが、それでも年100万ドルの売り上げをもたらしたのである。先に紹介したトーマス・パーキンスもジョン・マレー・フォーブスもアヘン密輸に手を出し、取引帳簿も残っている。唯一の例外はニューヨークの「オリファント・アンド・カンパニー」社で、宗教上あるいは道徳上の立場からアヘン密輸に反対し、決して手を出さなかったという。

 さて、清国にアヘンを密輸して巨利を得たアメリカ商人たちは本国に売れ残りのアヘンを持ち込み、アヘンはアメリカ国内の上流階級に浸透し始める。アヘン類中毒の研究家デビッド・カートライトは、1827年から1842年にかけてボストン商人の主導により全米で毎年約12トン強のアヘンが持ち込まれたと推計している。アヘンは当時医薬品に加工されて頭痛、不眠症、下痢、胃痛、歯痛さらにはコレラの薬として販売され、米国ではだれもが自由にしかも無制限に購入できた。ボストンの医学雑誌「ボストン・メディカル・アンド・サージカル・ジャーナル」の1833年9月4日号は、神経症の薬としてアヘンを投与された女性の主治医が「長年のアヘン接種の習慣から抜け出す安全で確実な治療法があるだろうか」との質問を寄せている。当時からアヘンがもたらす常習性が問題視されていた証拠だが、特に田舎で孤独感にさいなまれがちな女性たちの間に急速に中毒が蔓延していったという。

アヘン取引の中心人物ウォーレン・ディラノ(FDR Museum)

アヘン取引の中心人物ウォーレン・ディラノ(FDR Museum)

 アメリカのアヘン密輸の中心人物は、マサチューセッツ州の捕鯨の町、フェアヘイブン出身で広州最大手の「ラッセル・アンド・カンパニー」を率いたウォーレン・ディラノ(1809~98)、第32代大統領フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(在任1933~45)の母方の祖父だ。デラノはイギリスのアヘン密輸を実質的に取り仕切っていたバクダッド生まれのユダヤ商人デビット・サスーンと手を組み、アヘンを安定的に仕入れた。サスーンは「極東のロスチャイルド」の異名を持つ凄腕の商人だった。

 イギリスは清国にアヘンを密輸させたが、サスーンに対しイギリス本国はもちろんヨーロッパへの流入を許さなかった。アメリカは1786年に極東で初の領事を広州に置き、サミュエル・シャーを任命したが、彼は職業外交官ではなく貿易商の代理人に過ぎなかった。何よりも、若い独立国家アメリカは財政基盤も弱く、アヘン商人が“自由競争”でもたらす富は大いに歓迎された。また、陸軍は軍事的理由からアヘンを必要とした。奴隷制度廃止問題で国を二分した市民戦争(南北戦争=1861~65)が勃発すると、軍の需要は一気に膨らむ。清国への密輸で富を築き、帰国して鉄道や不動産事業に手を広げ過ぎて左前になったデラノは、再度広州の地でアヘン密輸に取り組み、今度は米国陸軍に大量のアヘンを売り込み莫大な富を築いた。

 市民戦争は、身を隠す塹壕もない平原に両軍が対峙し、最新鋭兵器のナポレオン砲を打ちまくる凄惨な戦争で、両軍合わせて死者は約62万人、第二次世界大戦における米国の死者数の1.5倍以上の兵士が亡くなり、大砲で手足を吹き飛ばされたり、顔面を砕かれた兵士が続出した。外科の治療法として傷口にナイフでアヘンを直接塗り付ける処置が最も劇的な痛み止め効果を上げるとされていたほどだ。北軍は兵士に総量で1000万錠のアヘン錠剤、粉末アヘン8トン、さらにアルコールにアヘンを溶いたチンキを支給したという。南軍側にはそうした記録は残っていないが、アヘンを支給したのは同様だろう。その結果、どんな悲劇が持ち上がったか。故郷に帰還した兵士40万人から50万人がアヘン中毒にかかり、さらにゴールドラッシュの金鉱山や鉄道労働者として移民してきた清国人がアヘン喫煙の習慣を持ち込んだことも手伝い、19世紀末にはアメリカ人の200人に一人がアヘン中毒といわれるまでに薬物汚染が蔓延したのだ。ローズヴェルトは祖父の蓄財について政敵から糾弾されたが、沈黙を貫いた。

パーキンスのアヘン取引帳簿(Forbes House Museum)

パーキンスのアヘン取引帳簿(Forbes House Museum)

 アメリカの資本主義の基礎は,清朝の美しい絹織物や格調高い磁器とともに、どす黒い欲望の象徴とも言えるアヘンで築かれたのだ。ボストン商人たちは大学や病院、孤児院を設立し、鉄道網建設など社会資本整備に努力を傾注したが、そのことでアヘンに手を出した汚点が消えるわけではない。

 最後に、東インド会社は清国との貿易赤字対策として清国以外に茶の産地を必死で探し求めた。1823年、植民地インド北東部アッサムで、自生していた茶の木が発見される。葉が大きく樹高が10メートルを越すのも珍しくないほど大型のため、当初は茶ではないと否定されたが、12年後に英国王立学会がアッサム種の茶と認定し、一気に栽培が広がった。また、軍人出身で東インド会社職員だったチャールズ・A・ブルースは、アッサム地方より高地のインド北東部・ヒマラヤ山麓で、避暑地としてリゾート開発が進んでいたダージリンに清国から苗木を持ち込んで栽培に挑戦し続け1838年に栽培に成功、ダージリン茶が誕生した。やがて茶の栽培はセイロン(スリランカ)、アフリカのイギリス植民地ケニアへと広がった。イギリスは茶葉の自前栽培と品種改良に飽くなき挑戦を続けたが、今やイギリスを抜いてパキスタン、ロシアに次ぐ世界第3位の茶の輸入国になったアメリカは、自前栽培には挑戦しなかったのである。

 

    【参考文献】

  • “Fentanil Flows from China: An Update since 2017” U.S.-China Economic and Security Review Commission, November 26,2018
  • “A Fair, Honorable, And Legitimate Trade” American Heritage, December 2018
  • “Opium War Drug Kingpins” Globalsecurity,Nov.12,2016