リンカーン記念堂上空を編隊飛行する海軍のブルーエンジェルズ(US Navy photo ,July 4, 2019)

リンカーン記念堂上空を編隊飛行する海軍のブルーエンジェルズ(US Navy photo ,July 4, 2019)

 アメリカの首都ワシントンで7月4日に行われた今年の独立記念日の祝賀式典は、航空ショーと見まがうばかりの異様なものだった。リンカーン記念堂から連邦議事堂に至る東西約3キロメートルのナショナル・モールを埋めた人々の上空を、大統領専用機エアフォース・ワンを手始めに、海兵隊のVH-92オスプレイ、海軍のブルー・エンジェルス・チーム、空軍のB-2スピリット・ステルス爆撃機とF-22ラプター・ステルス戦闘機、沿岸警備隊のC-130輸送機、陸軍のAH-64アパッチ・ヘリコプターが次々に飛行したのだ。しかも大統領が演説するリンカーン記念堂前には、陸軍のアブラハム戦車とブラッドリー戦闘車両(軽戦車)を配するという念の入れようだ。第45代大統領ドナルド・トランプは「米国に敬礼を(サリュート・トゥー・アメリカ)」と題したスピーチで軍を讃えご満悦の表情だった。

 しかし、独立記念日の主役は「独立宣言」である。この祝日に、歴代大統領は独立宣言に敬意を表し、記念式典などには顔を出さないか、控えめに参加するだけにとどめるのが慣例だった。1951年、例外的に独立記念日にスピーチをした第33代大統領ハリー・S・トルーマンは、リンカーン記念堂の真向かいに立つワシントン記念塔を会場に選んだ。朝鮮戦争の戦況を報告し「朝鮮戦争で亡くなった兵士たちはアメリカ市民戦争(独立戦争)の死者と同様に、人民の人民による人民の政府のために戦い倒れたのだ」と語り「この国の民衆は独立以来175年にわたり、自由のために共に立ち上がってきたのだ」と共産主義との戦いの意義を強調したのだった。

米政治雑誌Politicoの風刺漫画(2019年7月4日)

米政治雑誌Politicoの風刺漫画(2019年7月4日)

 リンカーン記念堂での独立記念式典を自己㏚の場にしたトランプに対し批判の嵐が渦巻き、メディアの政治風刺漫画家には格好の題材を提供した。
 リンカーン記念堂は1914年2月、陸軍工兵隊によるポトマック川改修工事で生じた埋立地に着工し、8年後の1922年5月に完成した。古代ギリシャの神殿を思わせる壮麗な石造建築であり、12本の柱の中央に高さ約5.8メートルのリンカーン座像を据えている。第16代大統領エイブラハム・リンカーンの死から半世紀余りを経て記念堂を建設したのは、アメリカが初めて遠征軍を送った第一次世界大戦と深い関係がある。

英紙The Timesの風刺漫画(2019年7月5日)

英紙The Timesの風刺漫画(2019年7月5日)

 リンカーンは建国以来最大の国家分裂の危機だったアメリカ市民戦争に際し、合衆国陸海軍総指揮官として強靭な指導力で先頭に立って北軍を督励し、奴隷制維持を掲げて分離独立を目指した南部諸州との戦いに勝利した。米国を分裂させて、すなわち国力を削いで甘い蜜にありつこうと南部支援を画策していたイギリスやフランスの動きを外交的に封じ込め、しかも奴隷解放宣言を発して若き国家アメリカはもとより、世界が進むべき針路を示したのである。ただ、両軍合わせて約62万人と、太平洋戦争の戦死者のおよそ2倍もの兵士が命を失った悲惨な戦争の傷は深く、南北の感情的な対立は長く尾を引き、南部は経済的発展からも取り残された。

 第一次世界大戦は、アメリカの兵士が北軍や南軍の旗ではなく、初めて星条旗の下で共に戦った戦争である。第28代大統領ウッドロー・ウィルソンは「世界を民主主義にとって安全にしなければならない」と議会に参戦を求める演説を行い、1917年4月に参戦を宣言。議会から権限を付与された大統領は、21歳から30歳までの男性に兵役登録を義務付けた。これにより1918年9月までに約2390万人が登録し、このうち約400万人が軍役に就いて、200万人がヨーロッパ戦線へと向かった。

 参戦前、戦争省(旧陸軍省)の軍人はわずか12万6000人、少数ながら黒人の志願兵や軍関係の仕事をする軍属はいた。ところが大戦に参加するには絶対的に兵員が不足しているという状況から、「二級市民」として差別を受け、州によっては軍から締め出されていた黒人も兵役登録の対象となった。この結果約38万人が就役、20万人が戦場に送られた。黒人兵は通信兵や工兵、トラック運転手など補助的な軍務に就くことが多かったが、黒人だけで編成されたほぼ1万5千人規模の二つの師団、第92師団と第93師団は最前線で戦い、第93師団の第369歩兵連隊(1500人規模)はフランス軍の指揮下に入って大活躍し叙勲を受けたのだ。彼らはニューヨーク市出身者の部隊で「ニューヨーク・ヘルファイターズ(ニューヨークの地獄の戦士)」と呼ばれて凱旋した。38万人もの黒人が軍務に就きアメリカのために戦ったことは、黒人の社会的地位向上の大きな端緒となった。

 このような経過から、リンカーン記念堂は北部と南部との和解と統合の象徴、白人と黒人との統合の象徴を目指したものだったのだ。公民権運動の先頭に立ったマーチン・ルーサー・キング牧師が1963年8月のワシントン大行進をリンカーン記念堂で締めくくり「私には夢がある」という有名な演説を行ったのも、上述した歴史的経過を踏まえてのことだったのである。ちなみに、独立記念日に異例の演説をしたトルーマンは1948年、軍隊における白人と黒人との混合編成を命じた大統領でもある。

 貧しいケンタッキー州の開拓家庭に生まれたリンカーンは、読み書きができない父親の下、正規の学校教育を受けた期間は通算1年にも満たなかった。彼が共和党の大統領指名候補として生い立ちや経歴を党に説明するために提出した「身上書(自叙伝風スケッチ)」によると、成人した彼はイリノイ州に移って店員、郵便局長、測量士などの職業をこなし、ミシシッピ川沿いに居住するインディアンと軍との戦闘である1832年の「ブラック・ホーク戦争」で義勇兵の隊長に推されて戦った。この功績が地域に認められ、彼は同州の下院議員に当選、これを機に独学で法律の勉強に猛然と取り組み、1936年秋に弁護士試験に合格。翌年、州都スプリングフィールドに移って友人と共同弁護士事務所を開き、声望を得た。

ドイツ兵と戦う黒人兵士を讃える絵画。星条旗とリンカーンも描かれている(The library of Congress)

ドイツ兵と戦う黒人兵士を讃える絵画。星条旗とリンカーンも描かれている(The library of Congress)

 リンカーンにはまとまった著作はなく、残されているのは上述の身上書とわずかな書簡、大統領就任演説原稿などしかない。独学で弁護士資格を取得するほどの知力と法律センスを備えていた彼は、どういう経過で黒人奴隷解放を目指したのだろうか。身上書では、1837年にイリノイ州議会にリンカーンが提出した奴隷問題に関する抗議書で、「奴隷制度は不正義と悪政によって築かれている」と指摘し、この立場は生涯一貫していると記述している。また、1820年に奴隷州であるミズーリ州と自由州であるメーン州を同時に連邦に加入させるための妥協措置として成立した「ミズーリ互譲法」は、北緯36度30分以北の地における奴隷所有を禁止していたが、リンカーンは同法が1854年に廃棄されると「それまで心中に抱いていた政治観が一変した」と衝撃を隠していない。リンカーンはそれ以上詳しくは記していないが、奴隷所有制が再び拡大しかねないとの危機感を抱いたことは間違いないだろう。法律家兼政治家としての活動から、政治による奴隷解放へと進む決意を固めさせた事件だったと言える。

 リンカーンは友人宛ての書簡で独立宣言の精神を繰り返し称揚した。『英国王ジョージ3世の政治的奴隷だったアメリカは「すべての人は平等につくられた」との自明の理を掲げて独立を果たした。独立を願った先人は「奴隷制度の平和的消滅を求めた精神の持ち主だったのである』と表明している。また別の書簡では『アメリカは急速に堕落へと向かっているよう私には思える。われわれは一国家として「すべての人は平等に造られた」と宣言して出発した。しかし、今ではこれを「すべての人は平等に造られた。ただし黒人を除いて」と読み替えているのだ』など、リンカーンの純粋な精神をほとばしらせている。

 奴隷制の拡大反対を党是とする1854年の共和党創設に参加したリンカーンは、堂々たる論客ではあったが、大統領の座に近かったわけではなかった。ところが青天の霹靂ともいうべき大事件が起きた。1857年3月6日の連邦最高裁「ドレッド・スコット判決」である。

 黒人奴隷のスコットはミズーリ州の軍医に仕え、主人とともに西部を転々としたが、主人が亡くなると奴隷所有が禁止されている州に戻った。しかし、軍医の未亡人はスコットとその妻子は自分の財産であると主張し、「奴隷所有禁止州に移った自分は自由人」と主張するスコットは敗訴、訴訟は連邦最高裁へと移った。訴訟では黒人の憲法上の地位が争われたが、判決は「憲法起草者が黒人を合衆国市民の範疇に含めていたと解することは到底できない」と述べて、何と奴隷制度に憲法上の支持を与えたのである。最高裁長官のロジャー・B・テイニィーは、自身が黒人奴隷所有者だった。

ドレッドとハリエット夫妻の1857年6月27日の新聞イラスト(Chicago History Museum)

ドレッドとハリエット夫妻の1857年6月27日の新聞イラスト(Chicago History Museum)

 リンカーンは6月下旬にスプリングフィールドで判決を批判する演説を行い「この判決は政治問題となった。判決の根拠は明らかに誤りであり、独立宣言の起草者たちが、すべての人は平等に造られていると記したのは、未来に向けて最も自由な社会の基準を設定したからだ」と述べこう演説を締めくくった。
「皆さんは来週独立記念日を祝うだろう。その際独立宣言を読み返してほしい」
 誕生間もない共和党は、党綱領を連邦最高裁から全否定されたに等しかった。アメリカ市民戦争の引き金になる司法の決定に立ち向かえるのはリンカーンを置いて他にない。共和党が党の存続をかけてリンカーンを必要としたのだった。
 こうしてリンカーンは大統領選挙、アメリカ市民戦争へと激動の時代に乗り出す。彼が一貫して胸に抱いていたのは独立宣言にある「人は平等に造られた」という文言に対する純粋で揺るぎのない信念なのである。

 

【参考文献】
“Fighting for Respect::African-American Soldiers in WWⅠ” Jami L. Bryan (January 20,2015 Military.com)
“Lincoln’s Autobiographies of 1858-60” Abraham Lincoln Online
“Letter to George Robertson” August 15, 1855 (Abraham Lincoln Online)
“Letter to Joshua Speed” August 24, 1855 (Abraham Lincoln Online)
“Speech on the Dred Scott Decision by Abraham Lincoln” June 26,1857 (Constituting America)
『別冊ジュリストNo.139 英米判例百選』藤倉皓一郎・木下毅・高橋一修・樋口範雄(有斐閣)