第18代合衆国大統領ユリシーズ・グラント(The White House)

第18代合衆国大統領ユリシーズ・グラント(The White House)

 米国連邦議会下院は2019年12月18日夜(米東部時間)、第45代大統領ドナルド・トランプを「権力濫用」と「議会妨害」の2つの理由で弾劾訴追した。上院は与党共和党が多数議席を占めており弾劾(罷免)されることはまずない情勢だが、トランプは第17代大統領アンドリュー・ジョンソン、第42代大統領ビル・クリントンに続き、議会の弾劾訴追を受けた不名誉な大統領の仲間入りをし、歴史にその名を刻むことになった。トランプは米国史上まれにみるグロテスクな大統領ではあるが、彼に対する歴史的評価が定まるのはまだ先のことである。

 さて、黒人奴隷の解放に道筋をつけたエイブラハム・リンカーンの暗殺に伴い副大統領から大統領に昇格したアンドリュー・ジョンソンは、奴隷解放実現という歴史の歯車を逆回転させた。共和党はリンカーンの路線に回帰すべく、1868年の大統領選挙で最も強力な候補を指名した。米市民戦争(南北戦争)の英雄、ユリシーズ・グラントである。

 グラントは1862年2月、テネシー州ドネルソン要塞を包囲、南部同盟軍の准将サイモン・バックナーが降伏の意思を伝えて条件を尋ねると「無条件だ。しかも即刻降伏せよ」と迫った。この戦いで敵兵3万6000人を捕虜にし、野戦砲172門、ライフル銃6万丁を押収。南部同盟軍を率いる知将ロバート・リー将軍に苦戦を強いられていたユニオン軍は、この勝利が反転攻勢の号砲となり、“鉄の意思”の軍人グラントの名は全米に広まった。

 リンカーンは、南部を海路と陸路でぐるりと取り囲んで経済封鎖で締め上げる「アナコンダ(大蛇)作戦」を戦略の柱に据えた。南部を支援しようとするイギリス、フランスの介入を封じるためだ。作戦の成否は、北アメリカを南北に貫流する全長約3770キロメートル、流域面積約310万平方キロメートの大河で、経済の大動脈だったミシシッピ川をいかに制圧できるかにかかっていた。

市民戦争で力を発揮したナポレオン砲(civilwaracademy.com)

市民戦争で力を発揮したナポレオン砲
(civilwaracademy.com)

 この戦争を舞台にした1939年制作のアメリカ映画「風と共に去りぬ」では、アトランタで開かれた戦費集めのパーティーの場面で、クラーク・ゲーブル演じる船長レット・バトラーが、封鎖を突破して南部に物資を届けた英雄として参加者に紹介される。南部同盟が経済的苦境に陥っている状況をさらりと暗示したわけだ。

 グラントの軍は1863年5月中旬、ミシシッピ川が大きく蛇行する河岸近くの丘陵地に南部同盟軍が築いた要塞都市、ヴィクスバーグを包囲した。攻略は難しいと判断したグラントは、要塞の周囲に溝を掘って火薬を敷き詰めたトンネルで囲み、時の経過をじっと待った。食糧が尽きた住民は犬、猫、ネズミまで口にする飢餓状態に追い詰められ、包囲から2週間後、南部同盟軍は降伏した。この戦功でユニオン軍の総司令官となったグラントは1年後の1864年5月、ヴァージニア州での「オーヴァーランド作戦」で、40日間にわたって南部同盟軍の総司令官ロバート・リーを追撃し、ついに降伏させたのである。

 国を南北に二分して1861年から65年まで続いた市民戦争は、アメリカ史上最悪の戦争である。両軍合わせて62万人が戦死、負傷者は110万人に上った。太平洋戦争での米軍の死者は30万人だから、その2倍強が戦死、負傷者の外科治療にモルヒネを濫用したため、アメリカは薬物中毒が蔓延する国になった。兵器が発達した近代戦よりもなぜ死傷者がこれほどまでに多いのか。それは戦闘スタイルに要因がある。

1分間に900発の銃弾を発射したガトリングガン(civilwar.com)

1分間に900発の銃弾を発射したガトリングガン(civilwar.com)

 両軍とも武器の基本構成は同じで、歩兵はライフル銃を携行、これに騎兵と仏皇帝ナポレオン3世の時代から使われ始めた「ナポレオン・キャノン」と呼ばれる野戦砲が加わる。ユニオン軍が用いたのはマサチューセッツ州スプリングフィールドで製造されたライフル銃、南部同盟軍はイギリス製のライフル銃を用いたが、どちらも命中精度が高くないため、戦闘は横一列に隊を組んでの一斉射撃に頼るしかなかった。つまり密集戦なのだ。その密集陣形に野砲を撃ち込み、騎兵が突撃する。戦場はなだらかな平原であり、しかも戦線はあちこちへと移動する。騎兵の攻撃を阻む柵は築いても、歩兵が身を隠すに十分な深さの塹壕を掘る余裕はあまりなかったようだ。その結果、一つの戦闘ごとにおびただしい血が流れて数千人単位の兵が死亡する壮絶な戦いを繰り広げたのである。

装甲車輌をも破壊するA-10戦闘機(The U.S. Air Forse)

装甲車輌をも破壊するA-10戦闘機(The U.S. Air Forse)

 数は多くはないが最新兵器もあることはあった。インディアナ州に住む物理学者リチャード・ガトリングが1861年に発明した「ガトリング銃」だ。6本の銃身を円形に束ね、手動でクランクを回転させながら連続発射する銃で、1分間に600発の弾丸を発射し敵兵をなぎ倒した。これ1台で歩兵150人分に相当する威力があったという。ガトリング銃は今日の戦闘機にも用いられており、1972年に就役した米空軍のA-10戦闘機は“時代物”ながら、1分間に3900発の弾丸を発射して装甲車両をも破壊する威力を誇る。ミサイルよりはるかに安価で効果的な装備ゆえに、空軍はいまだ同機を退役させることができない。

 ジョージ・ワシントンに次いで史上2人目の最高司令官となったグラントは1822年オハイオ州の丸太小屋暮らしの貧しい家庭に、6人兄弟の長男として生まれた。父は皮なめし業を営んでいた。血まみれの皮を扱う家業の手伝いになじめなかった彼は、地元選出議員の推薦で陸軍士官学校に入り、軍人の道を歩み始める。独立後初めての対外戦争であるメキシコ戦(1846年~48年)に参加し、米側の死者1万3000人という悲惨な戦いを体験。新たな領土となったカリフォルニア州の太平洋沿岸の駐屯地にも派遣され“単身赴任”生活を送った。物静かで感受性が強い人物として知られた半面、兵営で酒浸りになっているところを度々見咎められたようだ。家族と離れて暮らす軍人生活の寂しさを紛らわせるため、あるいは戦場で血まみれの死体を目にすることに耐えられなかったためとも伝えられている。一旦、軍役を退いたが、市民戦争が起きると彼は請われて軍務に復帰し、指揮官として頭角を現した。勝利のためには自軍の被害をいとわず突き進み、「屠殺人」と批判を浴びた彼の戦闘指揮や軍略をリンカーンは高く評価し、最高司令官に引き上げたのである。

 グラントは政治には何の野心も持っていなかったが、大統領アンドリュー・ジョンソンの政策に反対していることは広く知られていた。共和党には願ってもない候補者と映ったのだ。人々は最高司令官から初代大統領になったジョージ・ワシントンを彼に重ね合わせ、選挙は楽勝だった。のちに著名な歴史家となるヘンリー・アダムズは、若き政治ジャーナリストとしてグラント政権の誕生を追っていた。曾祖父は第2代大統領ジョン・アダムズ、祖父は第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズ、父チャールズ・フランシス・アダムズは上院議員からイギリス大使に任命されるなど、ボストンを代表する富裕で華麗な一族の成員だった。アダムズは父の私設秘書としてロンドンに赴き、政治の生の舞台を観察し続けた。

 1869年3月4日、グラントは第18代大統領に就任した。グラントが選んだ閣僚にアダムズは慨嘆した。日和見主義者、金の亡者の政治家、無名のグラントの友人…。「グラントの(閣僚)指名は聞く者を恥じ入らせる効果しかなかった。グラント自身はそうではなかったが」とアダムズは自伝に記している。

 共和党のリーダーたちは、市民戦争の後始末、経済再建と南北の融和、それに黒人奴隷解放の着実な進展をグラントに託したはずだった。ところが期待を集めた就任演説で彼はこう宣言したのだ。
 「この国のもともとの占有者、インディアンに対する公正な処遇は慎重な検討に値する課題だ。私は彼らの文化の発展や完全な市民権獲得を目指すいかなる方策にも賛成する」
 共和党員の間に激震が走った。市民戦争に勝利した英雄からは、戦争の原因となった黒人奴隷問題についての言葉は全くなかった上に、想定外のインディアン問題の公約が突如明らかにされたからだ。なぜか。

 グラントが少年時代から友情を育み、市民戦争では彼の軍事秘書となったエリス・パーカーは、セントローレンス川流域の大部族、セネカ・インディアンの俊英で、部族を代表して米政権と度々交渉を重ねた部族の外交官だった。南部同盟軍総司令官のリーがグラントに降伏した際、降伏文書の草案はパーカーが作成した。グラントが絶対的に信頼する人物だったことが分かる。大統領に就任したグラントはパーカーをインディアン問題の担当長官に任命したが、施策は西部の白人、議会、さらには有力部族からも猛反発を買い続け、破綻してしまう。

 再選後の1873年3月の就任演説では「市民戦争で奴隷は解放され市民となったが、公民権(選挙権)はまだ認められていない。これは誤っており、是正されなければならない」と述べたが、時遅しだった。彼の唯一の功績とされているのは、1871年4月に議会が制定しグラントが署名した「クー・クラックス・クラン(KKK)法」である。同法に基づき大統領は、白人至上主義者のKKKが黒人へのテロ行為を繰り返していたサウスカロライナ州の9つの郡に戒厳令を敷き、数千人を逮捕した。ただ、グラントが直接乗り出したのはこれだけで、以後は関心を持たなかったようだ。

降伏文書に署名するリーと座って見守るグラント(絵画、The American Battle Field Trust)

降伏文書に署名するリーと座って見守るグラント(絵画、The American Battle Field Trust)

 グラント退任後の1883年、連邦最高裁は「連邦政府が殺人や暴力行為を罰するのは州政府の権限を侵す」として同法を憲法違反であるとの裁決を下した。これにより、市民戦争後に南部の軍人が核となって誕生したKKKは野放し状態になり、その後のアメリカ社会に深く根を下ろすことになるのである。
 「汚職とスキャンダルと酒盛り」──これが2期8年の彼の政権の代名詞となった。根が淳良な英雄は、政治家としての才能が全くなかったのだ。政権のスキャンダルは義弟の甘言に乗せられて政府所有の400万ドル相当の金を売り払った「ブラック・フライデー」、財務省高官が酒造業者から賄賂を受け取った「ザ・ウイスキー・リング」、戦争長官(陸軍長官)がインディアン居留地での営業免許を求めた業者から賄賂を受け取った「ザ・インディアン・リング」と噴出し続けた。

 失意のうちにホワイトハウスを去ったグラントは1877年5月、休養を兼ねて家族とともに2年間の世界一周の旅に出る。旅にはニューヨークヘラルド紙の記者ジョン・ラッセル・ヤングが同行し、記事を送り続けた。イギリスからヨーロッパ各国、エジプト、ロシアと訪問先で大歓迎を受け、さらにインド、ビルマ、ヴェトナム、清国と回り、日本を最終訪問地にした。

グラントと清国の総督・李鴻章

グラントと清国の総督・李鴻章

 清国では総督・李鴻章、朝廷で近代化を進める洋務派の指導者・恭親王奕訢(えききん)からそれぞれ盛大な宴席に招かれた。2人は前大統領に朝貢国だった琉球(沖縄)問題で日本への口添えを繰り返し依頼する。しかし、グラントは「今は一介の市民であり、そのようなことを話す何の権限も持ち合わせていない」と丁重に断り、清国が平和的解決を望んでいるという意向は伝えると約束した。一行は1879年6月21日に長崎に上陸、グラントは8月10日に明治天皇を表敬訪問した。天皇はその後、度々グラントの宿舎を訪問。26歳の青年君主と波長が合ったのか、グラントは天皇に「断固とした意志と独立の気概を持ち、(駐日英国公使)パークスが主導するヨーロッパ列強の威圧的な政策に、決然とした抵抗を貫きなさい」と助言した。

明治天皇を表敬訪問するグラント夫妻(絵画、Yale Archives)

明治天皇を表敬訪問するグラント夫妻(絵画、Yale Archives)

 グラントの旅は米国民に逐一伝えられ、帰国後、各地で市民の熱狂的な歓迎を受けた。「世界の国々で歓待される私の姿に、私の名声も共和党の威信も回復するだろう」と考えたグラントの狙いは半ば当たったが、共和党への逆風は続いた。
 リンカーンに愛された闘将グラントは彼の遺志を継げなかったが、国民はグラントを愛した。ニューヨークでは150万人を越える人々が彼の葬列を見送ったという。

(本文中敬称略)

 
〔主な参考文献〕
“Ulysses S. Grant: Well-Meaning” The Voice Of America (July 02, 2017)
“5 Most Lethal Weapons of the Civil war” Kyle Mizokami (The National Interest, September 2, 2016)
“Pour One Out for Ulysses S. Grant” Adam Gopnik (The New Yorker, September 25, 2017)
“Henry Adams and the Age of Grant” Brooks D. Simpson (Hayes Historical Journal, Spring, 1989)
“Ulysses Grant’s Failed Attempt to Grant Native Americans Citizenship” Mary Stockwell (The Smithonian Magazine, January 9, 2019)
“Grant’s Tour Around the World” J.F. Packard (Forshee & McMakin, 1880)