オバマ前大統領のチャイナルームでの会議(The White House)

オバマ前大統領のチャイナルームでの会議(The White House)

 米国の大統領府、ホワイトハウス一階には「チャイナ・ルーム」という名称の部屋がある。外国首脳との夕食会、閣僚の食事会、大統領夫人の食事会などに使用する、米国の威厳を象徴する応接間だ。なぜ「チャイナ」なのか。それはこの部屋がティーセットやディナーセットの名品を展示するだけではなく、実際に来客にも使用する、世界有数のチャイナ(磁器)の生きた“美術館”でもあるからだ。

 1789年に合衆国初代大統領に就任したジョージ・ワシントンは、清国からチャイナ磁器を取り寄せて愛用していたが、清国磁器に対抗して1742年にイギリスのトーマス・ブライアンが発明した「ボーン・チャイナ」-土に同量の牛骨の焼却灰を加えて柔らかな乳白色を生みだした磁器—のセットも使用した。チャイナ磁器への愛着は、ティー・パーティーの習慣と相まって二代大統領ジョン・アダムズ、三代大統領トマス・ジェファソン、四代大統領ジェームズ・マディソンへと継承された。そして1814年、火災に遭ったホワイトハウスの再建がなると、チャイナ磁器は大統領の公式夕食会の食器として認定され、基金を設けてチャイナ磁器の収集整備が本格化した。

歴代大統領が発注した図案の皿(Berling Supply Company)

歴代大統領が発注した図案の皿(Berling Supply Company)

 第36代大統領リンドン・ジョンソンは米国の野生の花柄、第40大統領ドナルド・レーガンは鷲をあしらった米大統領の紋章という具合に、歴代大統領は好みの図柄を指定して新製品づくりを注文し、コレクションの拡充を図りながら部屋のデザインも変えて来た。

 建国間もないアメリカの指導者や商人にとって、アジアの大国・清国との貿易がもたらす茶葉や絹、チャイナ磁器は香り高い文化と富の象徴だったことは、前回の拙稿に記した。では、貿易は一体どれほどの富をアメリカにもたらしたのだろうか。

 米国の貿易船一隻が清国との一回の交易で得た富は、今日の相場で150万ドル(約1億6800万円)相当と推定されており、これを投資家などと分配した。船主でもある貿易商人は10年ほどで少なくとも一人当たり500万ドル(5億6000万円)の財産を形成して貿易から引退、資本家となって建国初期の経済を支えたという。

 ペンシルベニア州立大ハリスバーグ校の歴史学者、ジョン・ハダッドによると、清国との貿易で富を形成した初期の米国商人たちの活動の舞台は、米国北東部の大西洋に面した土地、マサチューセッツ州だった。1620年にイギリスからの最初の入植者たちがメイフラワー号で到着した土地であり、深い入り江の町、ボストンはその中心地だ。当時の人口は1万6000人ほどだった。

トーマス・H・パーキンス(Wikipediaより)

トーマス・H・パーキンス(Wikipediaより)

 この土地に生まれたトーマス・H・パーキンス(1764-1854)は、清国との貿易で大成功を収めた「プリンス(貴公子)」だった。父方の曽祖父はアイルランドからの移民で船大工、祖父は火薬や軍用馬を商い、父は書店主となりワインも扱った。母方の曽祖父はスコットランド移民で毛皮や帽子を扱い、後を継いだ祖父トーマス・H・ペックは不動産にも手を広げた。父方、母方とも代々資産を蓄積し、子孫に残した。そしてトーマス・パーキンスの名付け親でもある母方の祖父トーマス・ペックは、彼を毛皮、茶葉、砂糖の貿易へと誘った。パーキンス19歳の時だ。

 交易先はカリブ海西インド諸島に浮かぶフランス植民地サント・ドミンゴ(現在のハイチ)の美しい都市、ケープ・フランシスだった。天候に恵まれればボストンから2週間の行程である。フランス語もスペイン語もこなせたパーキンスは人づきあいの才もあり、めきめきと頭角を現し、3年後には友人と貿易会社を設立した。

 同州北部の港町セイラムで「キング」と呼ばれた商人エリアス・H・ダービーは1785年、所有する最良の商船をカントン(現在の広州)に送った。船は、茶葉やチャイナ磁器、シナモンを持ち帰って期待以上の利益もたらし、ダービーは立て続けに商船を送った。前の年、つまりイギリスがアメリカ独立を承認した講和条約締結の翌年にニューヨークの商人たちが清国への初めての貿易船「チャイナの女帝号」を送って大成功を収めたニュースを知り、商機を確信して素早く行動に移したのだ。マサチューセッツは清国との貿易に急傾斜する。

 貿易の成否を左右したのは船長の才覚だ。航海の知識はもとより、交易商品の知識、船員の反乱や海賊の襲撃などのリスクを回避できる剛腕で優れた統率力がある船長が必要だった。ダービーが見出した船長の一人がアイルランド出身のジェームズ・マギーである。マギーの妻がパーキンスの叔母に当たることも手伝い、マギーは次の航海のパートナーにパーキンスを選んだ。パーキンスと清国との出遭いがこうして始まることになる。

 船主のダービーは積み荷としてアパラチア山脈でとれた朝鮮人参、英国産の鉄、フィラデルフィア・ビールなどを94000ドル相当の品物を選び、マギーとパーキンスはバター、ラム酒、タラの干物、ろうそくなどを積み込んだ。二人には荷物の販売手数料として積み荷売却価格の5%、持ち帰った清国の商品販売価格の2.5%が入る契約だった。こうして二人を乗せたアステリア号は1789年2月中旬にボストンを出港、9月10日にポルトガル領マカオに至り、1週間ほどでカントンに到着した。この航海で清国商人がどんな商品を求めているかを思い知らされ、積み荷販売で苦境に陥ったものの、好奇心旺盛なパーキンスは次々に知り合いをつくり、未来につながる一筋の光明を見出した。それは現地でラッコの毛皮人気を知ったことだ。ラッコならアメリカ西海岸、オレゴン州辺りで手に入る。帰国したパーキンスは直ちに船隊を組織してラッコの狩猟に全力を注いだ。ラッコはパーキンスに富をもたらしたが、乱獲による資源減少が今日危惧されている。

 

【参考】
『America’s Early trade with China』China Business Review, January 1,2013
『Merchant Prince of Boston』Carl Seaburg and Stanley Paterson ( Harvard University Press, 1971)