中国知識人群像

第03回

李鋭と「09上書」

李鋭「党内に李鋭あり」

 過日、久しぶりに李鋭を訪ねた。赤いジャンパーを軽やかに羽織り、資料を抱えて書斎を行き来し、自作の詩を朗々と諳んじる姿からはとてもその年齢を伺い知ることはできないが、1917年生まれ、御年92歳の翁である。
 李鋭は1937年に中国共産党に入党し、党や政府の要職を歴任した老幹部だ。抗日戦争時期は延安で党の青年工作や新聞工作に従事し、中華人民共和国建国後は『新湖南報』新聞社社長、湖南省宣伝部長などの宣伝工作を経て、1952年には水利電力副部長に就任した。
「思ったことは心にしまっておけず、何でもずばりと言ってのけ、それを最後まで貫き通す性格」と自ら語るように、当時議論されていた長江三峡ダムの開発計画に異を唱え、その大胆な物言いが却って毛沢東に気に入られ、1958年には毛沢東の兼任秘書となった。その後、大躍進運動を批判し、1959年の廬山会議で「彭徳懐反党集団」の一員とみなされ党籍剥奪処分を受け、文革期には8年間も長きにわたって秦城監獄に投獄された。1979年に名誉回復された後は、電力工業部副部長、中共中央組織部常務副部長、中央顧問委員会委員などの要職に就き、退職後は毛沢東研究に取り組んで「革命に功あり、執政に過ちあり、文革に罪あり」と断言する。
 代表作の『廬山会議実録』をはじめ、著作も多い。日本では、かつて『毛沢東同志的初期革命活動』(中国青年出版社、1957年)が『毛沢東 その青年時代』(松井博光・玉川信明翻訳、至誠堂、1966年)として翻訳されている。近年では『毛沢東の功罪』(山本雄子訳、橋本剛監修、大月書房、2006年)と題する日本語編訳書が出版され、『李鋭反“左”文選』(中央編訳出版社、1998年)の代表論文と、李鋭の評論活動の核をなす「我が国の政治体制改革に関する建議」を日本語で読むことができる。
 李鋭の人生は、現代中国の政治変動と切り離して語ることはできない。高齢ながらも雑誌『炎黄春秋』を中心に精力的な執筆活動を続けており、歴史のみならず、現在の政治情勢に対しても厳しい批判を行い、率直かつ大胆な発言で知られている。歴史の教訓に学び、共産党のあり方を思考し、中国が今後歩むべき道筋には政治体制改革や「言論の自由」が必要だと具体的な提言を行う李鋭は、体制内にあって体制批判を行う「改革派老幹部」の代表格だ。
 李鋭の自由な思考と大胆な言論に貫かれているのは、「自由とは人の本質である」という信念だ。李鋭は、2001年の中国共産党80周年に寄せた「做人與当党員―建党80周年的感想」において、次のように記している。

「人としてのあり方と、党員としてのあるべき姿は統一したものでなければならないが、根本的な矛盾が生じたときには、私は一切の犠牲を惜しまずに前者を守り抜き、自分自身に対して、また歴史に対しても申し開きが立つようにしたい」。

 李鋭の評伝を著した『光明日報』記者の宋暁夢は、「党内に李鋭あり」と語る。評伝は、その言葉から『党内有個李鋭』(香港・名流出版社、1998年)と題したが、大陸では『李鋭其人』(河南人民出版社、1999年)と改題し、内容も一部削除して出版に至ったという。近年、李鋭の著書は主に香港で出版されており、最近ではアメリカ在住の李鋭の娘李南央が、李鋭の日記や書簡集を編集して出版している。李鋭が記した膨大な文章は、一人の老幹部の生きざまを通して現代中国を理解する手掛かりとなる貴重な資料だ。

「老馬はいななき続ける」

 李鋭のもとを訪ねるようになって、早くも10年近くになる。筆者は李鋭の歩みを通して現代中国の歴史を学び、今なお発言を続ける李鋭の言説から、現代中国の言論空間について少しでも読み解きたいと考えている。かつては、事前に質問事項を準備して緊張しながら話を聞いたこともあったのだが、この数年は李鋭の気の向くままの雑談に、時間を忘れて聞き入ることがほとんどになり、不思議なめぐり合わせに驚くばかりだ。香港やアメリカで出版された著書や糸綴じ本の詩選集2007年)など、李鋭から贈られた資料も多くなった。
 李鋭は数十年来の習慣を変えることなく、折々に古体詩を綴っている。若い頃から続けていたというが、詩作に没頭したのは獄中にあった頃のことだ。新聞を読むほかは読書を許されず、ペンを持つこともできない独房にあって、「心身を健康に保ち、精神を正常に保って知力を衰えさせないようにするために、毎日独房の中で体を動かすことのほかは、古体詩を作るほかなかった」という。秦城監獄で過ごした5年目の冬に、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東、魯迅全集の読書をようやく許されたが、それでもペンを与えられることはなく詩を書き記すことはかなわなかった。
ある時怪我をして、看護婦から与えられた龍胆紫の小瓶と綿棒が、妙案の始まりだったという。「龍胆紫」は一般に「紫薬水」と呼ばれる傷薬で、日本では昔懐かしい赤いヨードチンキを紫色にしたようなものだ。李鋭は綿棒をペン代りに、「紫薬水」をインクにして、『レーニン文選』のページの余白を、紫色の文字で埋めていったという。そうして書き残された獄中詩は、出獄して名誉回復された後に『龍胆紫集』(湖南人民出版社、1980年)として出版された。古体詩をたしなむのが中国の文人の習いとはいえ、李鋭にとって詩作には特別な意味合いがある。
 筆者の手元には、2篇の古体詩を記した李鋭の手書きのメモがある。声高らかに諳んじた詩を書き留めるのが間に合わず筆記を願ったところ、メモ用紙に記しながら解説してくれたのは、卒寿を迎えた折に詠んだ1篇だ。

「九十自寿」
来到人間九十年(この世に生を受け九十年)
回看往事未如煙(顧みて往事は未だ煙の如くにあらず)
曽経実践五不怕(かつて「五つの恐れず」を行うも)
留得頭顱擱鉄肩(残るは鉄肩に載るこのつむり)

「五不怕」とはかつて毛沢東が語った共産党員としての工作態度であり「日和見主義のレッテルを恐れず、免職、取り調べ、処分を恐れず、党籍除名を恐れず、女房との離婚を恐れず、斬首を恐れず」という意味で、李鋭は自身の経歴について「五番目以外は全て私のことだ」と語った。そして、「老いてなお、私の頭は思考せずにはいられない」と、その白髪のつむりを叩きながら声高らかに笑ったのは、2007年春のことだった。
 ところが翌2008年の春に、李鋭は心臓発作を起こして緊急入院をした。以前から心臓病を患い、ペースメーカーの手術をしてからも数年になるが、またもや発作に見舞われたのだ。一時は危険な状態とも報じられたが、李鋭は驚異的な回復を見せた。ようやく面会が叶ったのは数カ月後のことだったが、「以前は1キロ程も泳いだのに、手術後は医者が許さないから600メートルしか泳げない」と不満をもらすほどに健康を取り戻し、手術台の上で吟じたという詩を1篇書き記してくれた。

「搭支架有感」
雖安起搏器回生(ペースメーカーを据えて回生するも)
依旧心中不太平(心中はなお穏やかにあらず)
妙手又将支架搭(名医はまたも支え助け)
仍留老驥続争鳴(いまだ留まる老馬はいななき続く)
2008年4月28日 手術台にて吟ず

「老驥伏櫪、志在千里(老いた名馬は飼葉桶に伏せても、千里を走ることを志す)」という諺がある。「老いてなお壮志のあること」の例えであるが、ペースメーカーを装着してもなお心中穏やかでない李鋭は、老いても駿馬の如く走りいななき続ける気概なのだ。

「経済困難を克服し改革の新局面を切り開くことに関する建議」

 2009年の春節を迎えて間もなく李鋭を訪ねたのには、いくつかの理由があった。五・四運動90周年、建国60周年、廬山会議50周年、天安門事件20周年の節目の年に李鋭が何を想っているのか、少しでも聞くことができればと考えたからだ。そしてもうひとつ、李鋭に尋ねたいことがあった。――「08憲章」についてだ。
 李鋭はこれまで幾度となく「自由、民主、憲政」についての文章を発表しており、特に「言論・報道の自由」についての発言も多い。李鋭の思想は「08憲章」の主張と極めて近いということができるが、李鋭は「08憲章」に署名してはいない。中国共産党の老幹部として「08憲章」と一定の距離を置くことは容易に考えられるが、実際のところ李鋭がどのように考えているのか、出来れば直接尋ねてみたいと思ったのだ。
 そんな筆者の想いを知ってか知らずか、「『08憲章』を知っているか?」と、先に切り出したのは李鋭のほうだった。そして、「署名を求められたが、私は自分の発言の機会を留保するために、署名はしなかった」と続けた。さらに、筆者の言葉を遮るように「これを見てごらん」と差し出したのが、「経済困難を克服し改革の新局面を切り開くことに関する建議」だった。「十数名の老幹部が相談して、連名の書簡をしたためた」という。その書き出しは、「錦濤同志ならびに政治局各常務委員同志」だ。胡錦濤総書記を、あえて「錦濤同志」と呼ぶところに、老幹部たちの存在感と現体制との距離感が浮かび上がる。そういえば、胡錦濤総書記が政権の座に就いた頃、「私が党の仕事をしていた頃、彼はまだ赤いネッカチーフを巻いた少年先鋒隊だったのだよ」と、李鋭が語ったことがある。
 意見書に名を連ねた16名の老幹部たちは、元中宣部部長の朱厚沢、元新華通訊社副社長の李普、元中宣部新聞局局長の鐘佩璋、四人組裁判で江青と李作鵬の弁護を務めたことでも知られる弁護士の張思之、雑誌『炎黄春秋』社長の杜導正をはじめ、いずれも80年代の改革に実務面で関わり、現在の言論事情にも強い関心を抱いている人びとだ。李鋭を含め、2006年の「氷点事件」の際にも言論弾圧を批判した公開書簡に署名した人たちもいる。
 6項目からなる「建議」は、胡錦濤総書記の演説に基づいて改革の一層の進展を主張し、温家宝総理の演説で語られた「民主、透明、監督」という文言を巧みに用いて、温家宝総理を擁護し、現政権への支持を表明して激励しながらも、民主を強調し、各種の問題について巧妙に批判を展開する内容だ。現在、「公開書簡」は数多く、珍しいことではなくなったが、体制内の老幹部らが現政権を最大限に擁護しつつも独自の主張を展開するという文言の巧みさには、中国の「政治文化」を垣間見る思いで一気に読み進めた。老幹部たちは「08憲章」に署名した知識人たちと立場は異なるものの、それぞれには底流で共鳴するものがあり、「08憲章」が主張した民主の精神を異なる形で支持するものだといえよう。
「そのうちインターネットでも読めるだろうから」という李鋭の言葉を頼りに、「建議」の公表を待ちわびていたが、それから数週間が過ぎた。「建議」の署名は2009年1月20日とあり、その直後の春節期間を考慮しても、1カ月近くも公表されないのは異例のことだ。2003年に李鋭が発表した「我が国の政治体制改革に関する建議」や「氷点事件」の際の公開書簡が署名の数日後には公表されことを考えれば、今回は何らかの事情があったのだろう。老幹部たちに支持されている雑誌『炎黄春秋』への掲載も困難だろうと伝え聞いた。
「建議」は、署名日からちょうど1月後の2月20日に、インターネット上で公表された。
 冒頭には、香港の雑誌『争鳴』の編集者の言葉が付されている。

「本誌がこの意見書を発表する意味は、評議と論争を促すことにある。反民主、反普遍的価値という不健全な風潮が激しく押し寄せるなかで、中国の思想の発展を推進することは回避することのできない責任である」。

 老幹部たちの言説が広く読まれて議論されることを願う『争鳴』誌は、この意見書を「09上書」と名付けた。様ざまな課題に直面している2009年の中国で、李鋭をはじめとする老幹部たちはなおもいななき続けている。(文中敬称略)

2009年2月21日
及川淳子

経済困難を克服し改革の新局面を切り開くことに関する建議原文 URL

日本語訳:及川淳子

錦濤同志ならびに政治局各常務委員同志:

 改革開放30周年、また金融危機の襲撃に際し、我が国はまさに経済が急速に悪化し社会の矛盾が増加するという重要な関門にある。我々80、90歳の老党員は、錦濤同志の党の第11期三中全会30周年記念大会における講話を精読し、錦濤同志の「第11期三中全会が切り開いた道を確固不動として堅持し、大胆に変革し、大胆に新機軸を打ち出し、いつまでも硬化することなく、いつまでも停滞することなく、如何なる危険と恐怖をも畏れず、如何なる妨害と迷いにも妨害されず、引き続き勇気を奮い起して改革開放と社会主義現代化建設の事業を推進する」という呼びかけを忠心から擁護する。錦濤同志が中国人権研究会に宛てた書簡と温家宝同志が中南海で行った経済界人士座談会における演説を入念に読んだが、以人為本というスローガンは人心を得ており、人権の普遍性の原則と基本的な国情を結びつけ、全ての公民が平等に参与し平等に発展する権利を保証し、以人為本、執政為民というスローガンを徹底させるという、この構想は非常に良いものだと我々は考える。温家宝同志は、困難で複雑な情況であればあるほど、民主的な政策決定を強化し、政策決定の透明度を高め、政策決定の民主的な監督を強化しなければならないと強調している。民主、透明、監督の六文字は、第17回党大会で打ち出された「法律に基づき、民主選挙、民主的政策決定、民主的管理、民主的監督を実行し、人民の知る権利、参加する権利、表現する権利、監督する権利を保証する」という決定を具体的に表したもので、各レベルの党委員会と各レベルの政府の行動規範となるべきである。上述の構想は、時代の潮流に順応し民意に合うもので、我々は断固として支持する。具体的にどのように行うかについて、我々には以下の提案がある。

1.我々は中央が四兆元の人民元を投入して経済を牽引することに非常に賛成するが、同時に特権と腐敗分子がこの機に乗じて私腹を肥やし、党と人民の関係を破壊し、社会の矛盾を激化させることを非常に懸念している。我々は、今後の重大な四兆元投入の計画とプロジェクトの全てに、いずれも真に有効な民主的手続きが厳格に履行されるよう提案する。党内においてはまず委員会票決制度を確実に実行し、個人の独断で物事を決定する最高責任者を厳罰に処し、巧みに名目を立ててこの機に施政業績を上げる目的のプロジェクトや過度の箱物建設を行うことを厳しく禁止すべきである。全人代は十分な時間を取って四兆元の財政収支を確実に審査しなければならない。政協と各党派や社会団体は、全ての過程において四兆元支出の決定と使用に参与すべきである。

2.四兆元に関わる重大な決定と実施の全過程は透明に公開しなければならず、全てのメディアに向けて開放し、メディアが追跡報道するよう奨励し、責任を持って遂行するよう指示する必要がある。封殺やメディアを抑圧する行為は絶対に禁止する。1953年と1988年に中央が公布したメディアの批判的報道に関する規定は有効であると、再度言明すべきである。中でも、いかなるレベルの指導者についても記者が上層部に報告する内部参考の原稿は、報道される本人及び関係する上級部門に報告する必要はなく、直接中央に報告することができるという規定は、特に重ねて言明すべきである。汶川地震の時期、全国のメディアは全力で駆け付け、党と政府の指導者の偉大なる震災救援活動の全過程を公開して透明に報道し、全世界に向けて中国の不屈の姿を示し、国内外から広範にわたる称賛を勝ち得た。中宣部は2008年の新聞報道工作を総括した際に、正確、適時、確実、公開、透明等の5項目の経験と、透明度が信頼度を決定するなどの3つの経験を提出した。我々は、汶川の震災救援活動の見事な経験を規範化、制度化し、長期的な実施を提案する。現在の経済困難は地震よりも甚だしく、メディアの開放的な環境を必ず保障し、メディアが全てを公開し全てを透明にする報道を保護しなければならない。これは腐敗を抑制して人心を集め、共に困難な局面を乗り越えるのに、取って代わることのできない大きな役割を有している。

3.監督機関の独立性を強める。党の各レベルの紀律検査委員会は上下の垂直的指導を確実に実行し、同レベルの党委員会の関与を受けることなく、公正な処理を保証すべきである。

4.民間の各種社会的組織が発育する空間を拡大する。汶川地震では、民間の慈善組織が政府には代替困難な役割を果たした。重慶のタクシー運休労資紛争では、政府は間に立って仲裁し、効果を得た。この種の経験を押し広め、各種民間組織の自主的な発育を保護し、労働者や農民が組織的に法律に基いて自身の利益を表現し追求することを指導し、政府が各方面のために協議のプラットフォームを提供することは、内需増加にも役立ち、さらには貧富の矛盾と官民の矛盾を緩和することにも有利で、群衆による事件の絶え間ない発生を減少し、より効率的かつ清廉潔白に公共サービスを提供することもできる。これは長期にわたって社会が安定する道である。我々は、重慶と慈善救援事業の経験を真剣に総括し、逐次押し広めるよう提案する。

5.1986年に成立した中央体制改革領導小組を復活させ、第13回党大会の報告に基づいて定期的に研究討論し、更に改革を進める目標と方案を提出する。我々の経済体制が計画から市場に転換した後、政治体制改革の停滞は深刻であり、権力が市場に参入して横領や乱用、汚職と腐敗が蔓延し、党と人民は莫大な損害を蒙っている。腐敗を抑制するには必ず根本的治療と局所療法を併せて行わなければならず、権力を制約し監督する根本的な制度の構築が極めて必要である。

6.中央から作風を変え、紋切形の常套語を排除し、「重要指示」や「重要講話」などの話を減らすことを提案する。同時に、公用車の使用、公費旅行、公費による接待などの問題はさらなる改革案を有するべきと提案する。その他、多くの国営企業、特に金融、電力、電信等独占企業の指導者の年収が、何十万、何百万、甚だしきに至っては何千万にもなるというのは驚くべきことだ(昔は一級幹部の月収は500元で、最低レベルの幹部の給料との差も10倍までにはならなかったものだ)。自主的に減俸して、人民と共に難関を乗り越える姿勢を示すよう提案する。

 人を以って本となし、人民のために執政し、憲法に規定された公民の権利を履行し保障するという方向は全く正しいが、中国の国情を考慮すれば、前進の歩調が勇まし過ぎると党と国家にはいまだそれに耐える能力がない。したがって党と国家の指導のもとに、手順よく秩序立てて逐次推進しなければならないのだ。私たちが知っているのは、このように小さな前進であっても、幾重もの困難に直面しているということである。
 錦濤同志と常務委員会の各同志たちよ、30年前、経済が繰り返し崩壊した際に、鄧小平、胡耀邦たち同志は何ものをも恐れない気概で中国の改革開放という偉大な事業を推進し、中国はそれによって危機を脱したのである。30年後、我が国の総合国力は強まり、人民の生活は著しく改善し、国際的な威信は先例になく高まり、国民は我々が難関を乗り越えることが可能だと堅く信じている。かくも良好な執政基盤と政治情勢は、30年前にはなかったものだ。4人組粉砕の後に国家はあれほど困難であったが、しかし我々は勝利した。現在、人民はあなたたちと共にあり、老幹部はあなたたちと共にある。困難であればあるほど民主が必要であり、困難であればあるほど透明が必要であり、困難であればあるほど監督が必要なのであり、我々の党は必ずや勝利する!ことわざにもあるように、大海原が渦を巻くが如く政治が乱れ社会が不安定であれば、まさに英雄本来の面目が明らかになるというものだ。人を以って本となし、人民のために執政し、憲法に規定された公民の権利を履行し保障するという方向が全く正しいものである以上、あなたたちは各種の妨害、とりわけ既得権益集団の妨害を排除する必要がある。行きて休まず日々寸進し、改革開放の新局面を切り開こうではないか。
 以上のとおり申し上げる。

敬具

馮健、朱厚沢、李鋭、李普、杜光、杜導正、呉象、呉明瑜、張思之、
何方、鐘佩璋、袁鷹、高尚全、彭迪、曽彦修、魏久明       

コラムニスト
及川 淳子
東京出身。10歳のときに見た日中合作ドキュメンタリー映画『長江』で中国に魅了され、16歳から中国語の学習を始める。桜美林大学文学部中文科、慶應義塾大学通信教育部法学部卒業、その間に上海と北京に留学。日本大学大学院総合社会情報研究科博士後期課程修了、博士(総合社会文化)。外務省在外公館専門調査員(在中国日本大使館)を経て、現在は法政大学客員学術研究員。専門は、現代中国の知識人・言論空間・政治文化研究。共訳書、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(藤原書店、2009年)、『劉暁波文集──最後の審判を生き延びて』(岩波書店、2011年)、『劉暁波と中国民主化のゆくえ』(花伝社、2011年)、『「私には敵はいない」の思想』(藤原書店、2011年)など。
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