ここランガマティ地区には、日本の琵琶湖よりも大きいであろう、巨大な人口のダム湖、カプタイ湖の存在がある。湖畔は6つの区域に分かれており、大小さまざまな村が存在する。1963年、まだ東パキスタンだったころ、水の利権がらみ及び、最大エスニックのチャクマ人を孤立させる目的で、東パキスタン政府の陰謀で作られたのだと地元の人は言う。
ダム湖の水面下には、チャクマ王国の王宮が沈んでいて、数百ものチャクマの村とともに眠っている。ダム建設で失われた土地は、CHT(チッタゴン丘陵地帯)の肥沃で平坦な農地約22、000ヘクタール。18000家族、約10万人が家と土地を失った。
その時ダム建設に伴い大量のベンガル人が入植した。そして土地を失ったジュマ(全エスニック12部族)の人々6万人が隣国インドやビルマに難民となり流出した。
東パキスタン政府(当時のバングラディシュ)は部族民の存在を許さず彼等をベンガル民族に統合して国家形成をはかろうとしたのである。
これは強制同化政策といわれ、北海道のアイヌ民族に対しての皇民化政策にあたる。
1947年、バングラディシュが、東パキスタンとしてイギリスから独立するとき、仏教徒であるジュマの人々は、イスラム教国家に取り込まれるのを恐れ、独立前からインドへの帰属か、王国として独立を望んでいた。
しかし当時実権を握っていたバングラディシュ政府の委員会は、住人の要望を無視して東パキスタン(のちのバングラディシュ)への帰属を決定してしまった。この不可解で理不尽な決定に関する資料はまったく残っていないと言う。
そのときマイノリティーに位地ずけられるのを恐れた、チャクマを含むジュマ(全スニック)の人達は、自主政党を要求するが、却下される。
そして、厳しい内戦の時代に突入した。その後1997年に平和協定が結ばれたにもかかわらず、民族対立と紛争は30年近く続いている。
そうした経緯から、それ以来これらの地域は、弱い立場に置かれ、常に政府や軍部の圧力を受け、見張られているのである。
似た例として、カシミール問題がある。インドとパキスタンに挟まれたカシミール王国は、インドがイギリスから独立する時、インド領に帰属するか、パキスタンに帰属するか住民投票を行なった。
結果は、住人のほとんどがイスラム教であるため、圧倒的大差で国民はパキスタンへの帰属を望んだ。
しかしカシミール国王がヒンズー教徒であったため、国王の一存でインドへの帰属を決めてしまった。
当然怒った住民が反発し、紛争に発展。
領地が欲しいインドとパキスタンの戦場となって行った。
CHT(広陵地帯)にしても、カシミールにしても、はたまた身内のアイヌ問題にしても、違いはいくらでもあるのだろうが、原理は同じである。
2010年6月13日、僕はアシカネットワークのスタッフ4人と共に、午後から巨大なダム、カプタイ湖に浮かぶ小島、チャクマ族の暮らすのディグリバ村に向かった。昨日に引き続きブッタバンクの候補地選びのためである。ランガマテ市内の船着き場から、定員20人ほどのエンジン付小型ボートに乗リ目的地へ向かった。それ以外の交通手段はない。
早朝の晴れわたったの空の下を、僕たちを乗せたボートは、湖面を滑るように快走する。くそ熱いここ、バングラディシュだが、この時ばかりは気持ちのよい風が、全身を撫でるように通り過ぎて行く。湖畔の向こう岸から子ども達が手を振っているのが見える。水面は鏡のように、南国独特の真っ青な空と雲を、くっきりと映し出していた。
一時間ほどでバンダゴップという美しい小島の村に到着した。
湖畔から丘を登ると、マンゴやジャクフルーツの木が、いたるところに生えており、遊歩道がきれいに正装されていていた。歩いて行くと、うっそうと緑の茂った丘に囲まれた、美しい沼がいくつもあるのが見てとれる。穏やかな景色と静寂に包まれ、ここがバングラディシュである事を忘れてしまいそうだ。
ディグリバ村の世帯数は160家族。まずは村のカリバラ(リーダー)のところへ向かい話を進める。カリバラの口利きで、村の有力者数人と懇談。その後全員で、お寺へ向かう。
そこで僧侶を囲み、ブッタバンクやCSの活動、さらに地域通貨の構想などを、ピデロップが熱弁。
…その熱弁ぶりはまるで、ず~と昔からCS(四方僧伽)のメンバーだったみたいだ…!
村人との、やりとりを見ていて、長い間積み重ねて来たのであろう双方との強い信頼関係が垣間見える。村人の素朴な笑顔、結束力、心温まる交流を通し、この村から高い可能性を感じることが出来る。
僧侶も村の有力者も全面的に協力をおしまないと言ってくれた。
…どんな優れたプロジェクトであろうと、最終的には人なのである、信頼こそ成功の鍵なのだ…
帰り道、ピデロップがおもむろに訊ねてきた「昨日の村か、それとも今日の村か、どっちにする?」
僕は迷わず、「この村!」と答えた。ピデロップは、わかったとだけ答える…。「あんたはどっちなんだ?」と聞くと、彼の答えは ”Here “「ここ」”are you serious?”「ほんとに?」 “Yes I’m serious”「ああ!本気さ!」とピブロップ。”That settle it”「決まり」と僕は微笑んだ。
この日の夜、アシカネットワークのオフィスで、やっとメールのチェクが出来た。バングラのインターネット環境がひどいためだ。僕のメールボックスは、プロジェクトの一環で各地にちらばっている、CSメンバーからの報告でいっぱいだった。その中に偶然、アシシュの書いた井本さん(CSの創立者)に宛たものを見つけた。
どれどれ、何が書いてあるか、、、「伊勢さんは、バングラディシュでの社会の常識や習慣を軽視して、民主主義に反する勝手な行動をとり、困惑している。」というような内容だった…まあ、想像してたんで、さほど驚きもしないが、、。
いつも陽気なピデロップが、神妙な顔をして僕の泊まっているゲストルームにやってきた。
彼が言うには、歓迎されてないようだし、今の段階ではアシシュも含め、バングラのCSメンバーには会わないほうがよいだろうと…。それに「あなたをトラブルに巻き込みたくない」と僕の事を心配している。
そこですかさず僕は、「直接会ってお互いを知ることから始めてほしい」と、説得を試みる。今ここで会わなければ、さらに疑心が増す。ブッダバンクは始まったばかり、最初が肝心。僕がバングラディシュにいるうちに実現したい。
もともと反目しあっているバルワ(ベンガル人)とジュマ(エスニック)がそう簡単に手を取り合って、うまくやっていけるとは僕も思ってはいない。しかしブッダバンクはそれを実現するための第一歩。僕達はそのために存在し、実現させるためには、日本など海外とのネットワークとサポートが絶対必要である。ブッダバンクは良い結果を出した方が、必然的にイニシアチブをにぎる。それがフェアーでベストな形のはずだ。と僕は必死に彼に食い下がった。
最後にこう言った。「もしアシシュがまた、あなたに会うの拒むようなら、こちらにも考えがある、、!」
翌朝、出発の準備をしている時、ピデロップが部屋にやってきて、僕の目をますぐ見つめ、真剣なまなざしで話し始めた。「このブッダバンク、絶対に成功させる」さらには他の村にも広げ、そして先日一緒に訪問した、あの焼かれた村、サジェクで実行したいと言う。
現時点では彼らに金銭のサポートをしても、すぐ食べ物などに使ってしまうだろう。したがってインカム・ジェネレテイト(収入を生むための自立支援)などで時間をかけ、果物や蜂蜜作りなどで、自立のための指導を続けながら、ブッタバンクが開設できるよう努力したいと思っている。と、胸の内を語ってくれた。
俺は胸がじ~んと熱くなり…「はい!よろしくお願いします」と答えた。