バンク・オブ・仏陀の道

第02回

マルマ族の暮らす土地バンダルバン

 離陸時間きわどくダッカの空港に滑り込む。チッタゴン行きの飛行機に乗り込むためだ。が、しかし、いつものように2時間遅れるって。やっぱさすがここはバングラディシュだぜ…。
 チッタゴンに向かう飛行機の中、レポートを書いていると、懸念していた事が頭をよぎり不安が募りだしてきた。理由は向こうで、現地の四方サンガメンバー数人に会うことになっているのだが、その中に「アシシュ」という人物にがいる。一度会ったことがあるが、はっきり言って印象は良くない。っていうか悪い…。かなりのくせ者というのが俺の印象だ。

 以前タイのバンコクで、四方サンガの国際会議が行なわれた時の事である。14カ国の代表が和気あいあいと円になって懇談していた時のことだった。
 その中にいたアシシュは、突然ジュマ(少数民族)で同じバングラディシュ人の僧侶に向かって大声で口論を始めた!相手の気持ちを逆なでするような攻撃的な口調、他を寄せ付けない感情丸出しの口論。そのくせまわりにも分かるようにあえて英語での口論は、パホーマンスにも見える。完全な奴の独り舞台だった。その間各国のメンバーは、なだめながら一時間近くただ見ているしかなかった。滅多に集れないメンバーの貴重な対話の時間が台無しにされてしまったのだ。
 この時の印象から俺の中では、自分のことしか考ない、まったく空気を読まないやつ……という強いインパクトだけが深く残ってしまった。
 後から分かった事だが、このシーンこれから始まろうとしている波瀾万丈珍道中を予測していたのである。

 バンコクで見たこの光景、アシシュたちの口論は、長い間の民族対立と、そこから生じた不信感などの多くの問題を、浮き彫りにしていたのである。
 歴史的にも政治的にも少数民族ジュマとベンガル人とは難しい関係にあり、繊細かつ複雑な問題がある。人口の9割がイスラム教徒のバングラディシュに暮らす仏教徒は、かなりの少数派で主にジュマの人々が多い。しかしその対立の構造は、決してジュマ人対ベンガル人というわけではない。入植者たちを「セトラート」と呼び、以前から平和に共存して来たベンガル人を「オールド・ベンガリー」と呼んで区別している。オールド・ベンガリーとジュマは一般的に仲良しなのだ。
 さらに仏教発祥の地インド同様に平原地に暮らすベンガル人の中にも仏教徒の存在がある。彼等は、以前から同じ仏教徒であるジュマの人々を、陰に陽に守って来たと言う側面もあるのだ。その人たちベンガル系仏教徒を「バルワ」と呼んでいる。

 そこで「バンク・オブ・仏陀」通称ブッダバンクなのである。同じ仏さんを拝んでいるという共通面をいかし、我々外国人が彼等の仲介となりこのプロジェクトを推進しながら融和をはかりソリダリティ、一緒に貧困と格差のない国づくりをしていこうという試みなのだ。
 が…そのバルワの中心にいるのがこの男、トラブルメーカーのアッシシュなのである。
 さて今回のミションに関し、彼はどんな注文、いやいや、サジェストをしてくるかが楽しみだ。

 四方サンガの創立者は井本氏という人権活動家で日本人の僧侶である。彼がブッダバンクの立案者でもあり、バングラディシュでスタートするため、彼自身が事前にここバングラディシュに足を運び人材を発掘していた。ブッダバンクを運営するためのコアメンバー(役員)である。
 アシシュの家で、そのコアメンバー達が僕を待っていた。アシシュの他に、バルワのシャンガプリア僧侶とジュマのアウンの3人である。アウンには、一年前初めて視察に訪れた時、ずいぶん世話になり気心が知れている。さっそく協議にはいるが、話し合いを見ていて説得力やリーダーシップは明らかにアウンだ。具体的で明快、後先のことをしっかり視野にいれているようだ。
 それに比べてアシシュはビジョンらしき展望は何もない。それどころか「これっぽちの予算じゃ~」とかい言い出す始末。
「予算は決まっている。それに一般の銀行とはまるで趣旨がちがうのだから金額の問題じゃない」と俺は答えた。
 …こいつ、わかってんのかなぁ…

 一つ特に積極的な提案があった。バルワの居住地で南部デルタ地帯に、ボツアカリという地域がある。アシシュとシャンガプリア僧侶は、同胞の暮らすその土地で、ブッダバンクを開設したいと主張する。ブッダバンク開設予定場所は全部で5カ所。予算を5等分して行なわれる。4カ所はすでに決まっているのだがもう一カ所がまだ決定していない。そこでその5カ所目をぜひ、南部のボツアカリでと彼らは言うのだ。

 2年ほど前ここバングラディシュ南部のデルタ地帯がサイクロンに襲われ、壊滅的被害を受けた。
被害の大きかったこのボツアカリ地区にて「我々はこれまでに食料や衣類、さらに金銭などの支援を続けてきたのだよ」とアシシュとシャンガプリア僧侶は自慢げに話す。
 実際はというと四方サンガの創立者で僧侶の井本氏が、この時25000ドルの支援金を念出し、彼らに救済活動を託したのだった。この時の内情を知っているだけに、さも自分たちの力で、やってきたような傲慢な言い方に、俺は嫌悪感をいだいた。
 ボツワカリ、それにしてもはかなり遠い。ここから20時間以上を車及び船を3回乗りかえないと行けないそうだ。ブッダバンクの開設運営は現実的に今の段階では難しいだろうと俺は考える。なぜなら彼等が自腹切って、まめに訪問できるとはとても思えん。とりあえず現地に行って見てからか考えるしかないだろう。

 翌朝、チッタゴン市からCHT(丘陵地帯)へと向かう。バンダルボン市行きのバスに乗るためローカルバスタ–ミナルに向かった。チッタゴンからバスで3時間ほどでマルマ族(ジュマ12部族の一つ)の多く暮らすバンダルバン州の州都、バンダルバン市に移動した。
 1年ぶりにまたこの街にくることが出来た。バンダルバン市は山に囲まれた小さな盆地の街だ。近くにはバングラディシュ最高峰である千メートル級の険しい山々が連なる。マルマの他、ムロ、ボン、などの少数民族が暮らし、ベンガル人のバングラデシュのイメージから大きく異なる。文化や習慣は隣国ビルマに近い。

 僕は前回と同じロイヤルホテルに宿をとった。この宿はこのあたりでは珍しく、先住民のクラフトワークなどを多くを取り入れた、エスニックな装飾が旅人の心を刺激する。こじんまりしていて居心地のよいホテルだ。料金もリーズナブル。前回は450円の部屋だった。今回は湿気に弱いカメラ機材と体調のことを考え、奮発して冷房のついた1200円の部屋にさせてもらった…。
 が、しかし部屋に入って30分もしないうちにバングラディシュ名物の停電。わかってはいたけど早!冷房の意味ないじゃ~ん。そしてその瞬間から、あっという間に低温サウナへとに気候変動。これでも今は雨季で比較的涼しくてすごしやすいらしい。え、これでも、、まじかよ~。
 この日は、夕方大雨になりだしたので、予定していた村への訪問を明日の朝に変更し、ホテルでのんびり過ごすことにした。バングラディシュに入る前、タイとカンボジアでピースマーチに参加していた。そのため日本を出てからやっと1人の時間だ。旅の感覚が蘇ってきた。
 近所の食堂で夕食、チャイといっしょにロティをほうばる。うめ~な~

 バングラディシュという国は観光客がほとんどいない。だから観光産業もほとんど無く旅行という概念がない。俺にとってはそこが最大の魅力だ…。
 なのでここの人たちは外国人が珍しくて仕方ない。注目を浴びるぶん、うざいけどむしろ安全でもある。だから旅行者を狙った犯罪も少なければ外国人料金も存在しないのだ。特に田舎のほうはまったく擦れてない。人々はきわめてやさしく接してくれ心が和む。それにたぶん今まで訪れたどの国よりも物価が安い。食堂で腹いっぱい食べても100円ぐらいですむ。値段を気にしないで飯が食えるなんて日本じゃありえない。
 でも多少の腹を壊す覚悟は必要だ……。

 翌日バンダルボン市からバイクで1時間、いよいよ最初にブッタバンクを開設する予定のマルマ族の暮らすラズビラ村へ向かった。人口は1000人ほどで、かなり大きい。アウンの運営するエコ・プロッジェクトとネパールのNGOとで共同で運営しているアウトレットセンターと言う集会場のような施設があった。
 村の中心としてワークショップやミーティングなどを行うところである。この日は、ブッダバンクの説明を聞くために村人が15人ほどが集まってくれていた。初めて聞くブッタバンクのしくみに村人は目を輝かせ、更にその後を見据えた地域通貨の構想に、女性達は興味津々である。翌日もう一度この場に集まり、応募者をつのる。そこで詳細を検討し、いよいよ融資をスタートする。
 ラズビラ村のセンターのすぐ横に寺院がある。住職のウーパンダワイサ僧侶に会い、ブッダバンクの実行委員になるこを承認してもらった。笑顔がひたしみやすい感じのよい僧侶だ。ここのお寺では大勢の両親や家のない子どもたちの面倒を見ている。明日はこの僧侶の手からお金が渡されることになる。寺で暮らす子どもの一人が、村で採れたバナナを俺のために持って来た。なまらうまかった~~…

 これまでに、これら村では、収穫した穀物を街から来た金持ちのバイヤーに安く大量に買い占められてきた。現金が必要な村人は、なす術無く言い値で売ってしまう。買い占めたバイヤーは、数ヶ月値段が上がる時期まで寝かせておき、タイミングを計って一気に売り、ぼろ儲けする。
 アゥン曰く、自分たちの手でその代わりが出来れば、金持ちのバイヤーばかりが得をする構図を変えられるという。ブッダバンクが成功すればその可能性広がり、村人が搾取されるのを防ぐことができる。そして部族の村は潤うだろうと。

 山岳の山道を進むと、わらぶき屋根の家と集落が多く点在する。昔ながらの素朴で質素なたたずまいだ。そのため電気も着ていない村も少なくない。この辺はジュマ12部族の中でも、主にマルマ族の人たちが多く暮らしている。さらに河の上流にはムロ族やボン族の人たちも暮らしを営んでいる。
 そんな中になぜか似つかわしくない、こぎれいで近代的な建物があちこちに点在する。一瞬なんだろうと不思議に思ったが、よくよく見るとバリケードが施されゲートで外の世界と隔離されていた。それらは、すべて軍隊の施設だった…。
 そのギャップに強い違和感を感じる。この辺一帯は至る所に軍隊が駐屯していて、演習の音が耐えないような所もあるらしい。ジュマなどのマイノリティに対しての無言の威嚇と圧力である。現に俺たち外国人は、パミッション(許可書)無しではどこにも行けないし、うんざりするぐらい検問が多い…。

コラムニスト
伊勢 祥延
1960年北海道生まれ。中学校を卒業と同時に美容師の道に進む。31歳の時に独立。同時に写真作家として活動を始め、以来世界50カ国以上を撮影して回る。主に難民や少数民族などにフォーカスを合わせたドキュメンタリー映像を製作「写真ライブ」と名付け各地で上映会及び講演を行っている。最近では東日本大震災で、被災者との交流や復興の様子を記録した映像を発表し話題を呼んだ。書籍の他に、2007年から毎年チャリティカレンダー(発行部数約2万部)を製作。主益金は四方サンガによりアジアの貧困地や被災地への緊急支援に使われている。写真集:Scenes (自費出版)TRIVAL VILLAGE(新風舎)カンボジアンボイス(四方僧伽)リトルチベット(集広舎)子どもを産んで、いいんだよ(寿郎社)
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