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第16回

ミャンマー 従軍看護婦の戦い

祈りを続けるミャンマーの人々

▲祈りを続けるミャンマーの人々

 今年は戦後70年の節目の年。日本では毎年8月頃になると、戦争関連のドラマが必ず放映されるが、今年はその中にTBSの「レッドクロス~女たちの赤紙」(主演:松嶋菜々子)があるということを、中国俳優のFacebookで知った。ドラマの舞台は旧満州だが、筆者にはこの題名を見て、強烈に思い出す1つの出来事があった。

12年前に通った山道

strong>◀12年前に通った山道

 それは今から12年前、初めてミャンマーを訪ね、シャン州の茶畑を見学した帰り道。友人の勧めで、カローという避暑地へ、古老のミャンマー人に会いに行った。彼は70歳を過ぎていたが、日本語を流暢に話し、日本語センターを自宅に開設していた。このセンターには日本語を習うために、片道2時間満員のバスに揺られてやって来る熱心な学生もいたと聞く。12年前は今のミャンマーとは違い、様々な制限があり、交通も不便であり、何事にも不自由であったが、そのためにより情熱的な生徒が集まってきた、とも言える。中国でも30年前は「とにかく機会があれば勉強したい、日本語を勉強して日本へ行きたい」という熱気はかなり感じられた、そんな雰囲気があった。

 その自宅で、カローの歴史を質問した筆者に「読んでみなさい」と1通の手紙が手渡された。中味はきれいな日本語の毛筆だったが、1つ違和感があったが、全ての漢字に振り仮名がついていたこと。「私は子供の頃、日本の兵隊に可愛がられて、日本語を習ったんだ。話すのは問題ないがちゃんと教育を受けたわけではないから、読めない漢字がある」と古老は笑うが、送り手の「どうしてもこれを読んでほしい、私の話を聞いて欲しい」という切々とした願いが強く感じられた。

ガローに戦前からあるホテル

▲ガローに戦前からあるホテル

 「日本の兵隊に可愛がられた?」と聞くと「ああ、勿論悪い、威張った軍人も沢山いたよ。ミャンマー人が耐えられなかったのは、寺に土足で上がり込み、言うことを聞かない坊さんを殴っていたこと」と顔を曇らせるが、「でも、普通の兵隊さんはいい人が多かったな。特に子供には優しかったよ。中には我々と同じ田舎のお百姓さんだと分かる人も大勢いた」と言い、「兵隊さんに付いて、マンダレーの先まで行ったよ。でも…?」と後は語らなかった。インパール作戦に巻き込まれたが、窮地を脱したのだろう。

 ミャンマー人がなぜ親日的なのか、戦時中酷いことをしたにもかかわらず、何故インパールから逃げてきた日本兵になけなしの食料を差し出したのか。これまでは仏教の慈悲の精神が根付いているから、徳を積むためなどと勝手に解釈していたが、古老の話からすると、一般日本兵に親しみを感じていたミャンマー人は意外と多かったのかもしれない。

カローに残る古い建物

◀カローに残る古い建物

 その手紙だが、送り主は「元赤十字日本人従軍看護婦」さんからだった。筆者はその時点で初めて、そのような人々が存在したことを知った。そして読み始めるとその文面が驚きの連続で、目が離せなくなってしまった。TBSドラマでははっきり言っていなかったように思うが、そこには「私たちは20年間、夫がいようが、幼い子供や病人を抱えていようが、個人の事情は一切配慮されず、赤紙一枚で戦地に送られました。全く兵隊と同じです」とあったのだ。更には「赤十字の名の下で活動していれば、安全は確保されると考えた者も多かったのですが、国際法上にはあっても、戦争に中立はないのです。日本軍と一緒に進み、日本が負ければ、敵に襲われる存在なのです」という衝撃的な内容だった。

 静岡県から派遣されたこの従軍看護婦たちはカローの病院に勤務し、日増しに増える傷病者の手当てに忙殺されていくのだが、最後はカローから撤退の命を受け、山中を彷徨い歩いて60日、全員が生きてタイのチェンマイまで逃げ延びた、とある。だが、
 「そこは本当の地獄でした。後に白骨街道を呼ばれる、日本兵の遺体が累々と連なる山道で、本来傷病兵を助けるべき任務で来ている我々が、医者もいない、薬もないと言いながら、自分が生きるために、それらを見捨てて行くのです。この事は生涯決して忘れることができない心の傷として残っているのです」とあった。もう声が出なかった。古老ともそれ以上言葉を交わすことなく、分かれた。心の動揺が抑えられなかった。

古老の日本語センター

▲古老の日本語センター

 その後日本に戻り、すぐに従軍看護婦に関して数冊の本を読んだ。どれも信じられないような話ばかりだった。
 「いざ戦場に出れば実際は日本軍の配下も同じである。そこにいた婦長などは『天皇陛下万歳』と言って死んでいったのだ。実は当時は軍人でも『天皇陛下万歳』と言って死ねる人は少なかったと言う」
 「生き残ったが、現地人の妻となったことを恥じ、その後消息を絶った女性すらいた。兵士で戦後日本に戻らず現地の山奥でひっそり暮らす日本人の話は聞いたことがあるが、まさか女性まで。『生きて虜囚の辱めを受けず』と言うたった一言の為に。あまりにも重過ぎる」

 このような話はミャンマーだけではなく、ドラマの舞台となった中国だけでもなく、フィリピンや東南アジア各国に存在したことだろう。従軍した看護婦さんも大半が90歳を越え、あの手紙を出した方も既に亡くなられたと聞く。ただこのような話を途絶えさせてはいけないと思い、戦後70年のこの機会に書いてみた。

 尚その手紙の最後には何度も何度も「ビルマの人には本当に助けられました。有難うございました。感謝いたします。有難うございました。お世話になりました」と綴られていた。

コラムニスト
須賀努
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。金融機関在職中に、上海語学留学1年、台湾地場金融機関への出向2年。香港駐在合計9年、北京駐在合計5年では合弁会社日本側代表。合計17年の駐在経験を有し、日経BP社主催『中国ビジネス基礎講座』でトータルコーディネーター兼講師を務める他、進出企業向けアドバイスを行う。日本及びアジア各地で『アジア最新情勢』に関する講演活動も行っている。 現在はアジア各地をほっつき歩いて見聞を広めるほか、亜細亜大学嘱託研究員、香港大学名誉導師にも任ぜられ、日本国内及びアジア各地の大学で学生向け講演活動も行っている。 時事通信社「金融財政ビジネス」、NHK「テレビで中国語テキストコラム」など中国を中心に東南アジアを広くカバーした独自の執筆活動にも取り組む。尚お茶をキーワードにした旅、「茶旅」を敢行し、その国、地域の経済・社会・文化・歴史などを独特の視点で読み解き、ビジネスへのヒントとしている。
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