ジェームスタウンの植民地(history.com)

ジェームスタウンの植民地(history.com)

 多様性を尊重する「移民大国」をアイデンティテイとして自負してきたアメリカは、共和党のドナルド・トランプが大統領に就任して以来国論が真二つに分断され、トランプは最近、憎悪を込めた口調で「もう移民はいらない」とまで広言している。この大統領には、白人至上主義の陰が色濃く付きまとう。

 徳川幕府がヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限した同じころの1620年11月、北米東海岸のコッド岬に3本マストの商船「メイフラワー号」が到着した。イギリス南西部のプリマスを出港して大西洋横断の65日間の航海だ。上陸した約100人の乗員中35人は自らを「セイント(聖徒)」と呼ぶ宗派のキリスト教信者、いわゆる清教徒であり、彼らは信仰の自由を実現する暮らしを求めてやってきた。清教徒に象徴される「自由な新天地を目指した移住」というアメリカ建国像は、世界に広く深く浸透している。アメリカにとってみれば誠に美しい伝説ではあるが、実は彼らは最初の移住者ではないし、自由な移住を希望した人々はむしろ少数派であった。

 北米の植民地化が動き出すのは、イングランド女王エリザベス一世の後を継いで王位に就いたジェームス一世(在位1603~25)の時代だ。彼は1606年4月、ロンドンの民間会社「ヴァージニア会社」に植民地開発の勅許を与えた。当時、ヴァージニアと呼ばれた地域は、フロリダ半島の付け根以北の東海岸全体を指していた。同社は植民地開発で利益を上げようという株式会社であり、一株の価格は12ポンド10シリングと記録されている。出資者はロンドンの大地主たちだった。ジェームス一世のお気に入りだった劇作家のシェイクスピアが生まれ故郷に買い求めた別荘の価格が60ポンドだったというから、相当に高額な投資といえよう。

 清教徒たちはまず国王を首長とする「英国国教会」からの離脱を国王に認めてもらい、ヴァージニア会社から承認を得て移住に踏み切った。信教の自由には国王の承認が必要だったし、植民地といえども英領土であり、通関手続きもあって勝手に入植できたわけではないのだ。

 同社は会社設立の年の12月、傭兵上がりで海戦経験が豊富なクリストファー・ニューポートを船長に起用し、3隻の船に100人余りを乗せて出航させた。翌年4月末に船隊はヴァージニアのチェサピーク湾に到着、5月に最初の移住者たちは王の名前にちなんだジェームス・タウンで暮らし始めた。

 会社は金や銀の鉱床を与えるとの約束で出資者を募っており、移民たちは当初は鉱脈探しに明け暮れて農地を開拓することもなく、食料不足に苦しんでインディアンに食糧援助してもらう有様だった。やがてリーダー格のジョン・ロルフが西インド諸島から取り寄せたタバコの栽培を始め、1614年に本国に売り込むとタバコ栽培は一気に広がり、植民地の経済建設が軌道に乗り始める。そしてメイフラワー号が到着する前年の1619年、ジェームス・タウンにポルトガルの黒人奴隷貿易船を襲ったオランダ船が寄港し、運んでいた50人の奴隷のうち20人ほどを農園経営者が買い求めた。当時、英国は奴隷売買を認めていなかったため、彼らは「年季奉公の召使」という名目だった。つまり一定の年限の労働が強制される仕組みだ。これがアメリカと黒人奴隷の初の出会いだったのである。

就任演説を前にフィラデルフィアで国旗を掲げるリンカーン(U.S. Congress Library)

就任演説を前にフィラデルフィアで国旗を掲げるリンカーン(U.S. Congress Library)

 そもそも移住には費用が掛かる。メイフラワー号は2カ月強、ヴァージニア会社の最初の派遣船は5カ月近い航海の末に新大陸に到着した。渡航費用はもちろんのこと当座の生活費までを自力で手当できた者がいかほどいただろうか。新大陸への移民とはどういう階層の人々だったのだろうか。

 ヨーロッパからの白人移民は自分の意志で渡航した「自由移民」と、年季奉公人、政治犯や囚人、地主に農地を追われた農民などの、いわゆる “食い詰めた”「不自由移民」に分けられ、数の上では不自由移民の方が多数を占めていた。イギリス史研究家の川北稔は、通関記録や878人の年季奉公移民を記録した「ロンドン市長日誌」、裁判記録、教会にある教区民の記録、ロンドンの月刊誌「ジェントルマンズ・マガジン」などの膨大な資料を検証し、1654年からアメリカが独立した1776年までにアメリカに送られた年季奉公人は30万人から40万人と推計している。囚人といっても乞食や浮浪者を含めた犯罪者に些細な嫌疑で死刑判決を下し、恩赦を乱発して新大陸に送り込むというやり方が一般的で、町をぶらぶらしている若者を狩り集めることもあった。囚人を監獄に収容するにはコストがかかるが、新大陸なら脱獄を心配せずに働かせることができる、というわけだ。渡航費や生活費を立て替えて新大陸に送るエージェントたちの利益率は、黒人奴隷貿易の2倍近い20%以上といわれ、年季奉公人のあっせんは笑いが止まらないビジネスだった。川北の結論は「イギリスにとってアメリカ植民地とは(社会問題の)処理場‐救貧院であり、刑務所であり、孤児院であった‐にほかならなかったのである」。アメリカはイギリスの “掃き溜め” だったが、植民地にしてみればイギリスは労働力の主要な供給源だった。「不自由移民」という形態は、ヨーロッパ大陸の辺縁に位置した島国イギリスが植民地を豊かにしてその富を収奪し、大英帝国へと発展するために都合の良い仕組みだったと言える。

 インド人や清国人クーリーが西インド諸島やゴールドラッシュに沸くアメリカ西海岸に移住してきたのも「契約労働者」、つまり年季奉公人との扱いだった。年季奉公はクーリー貿易で儲けるために編み出した特別な手法ではなく、イングランドの伝統を継承したものなのである。

 労働力需要という点で、アメリカはとてつもなく大きな胃袋を持っていた。アメリカの現在の人口は約3億2900万人。初代大統領ジョージ・ワシントンの就任翌年に当たる1790年にアメリカは初めて国勢調査を行ったが、この年の人口は約390万人に過ぎなかった。奴隷制に反対する共和党初の大統領・第16代エイブラハム・リンカーン。彼の就任前年の1860年の人口は約3140万人と9倍に増えていた。

 黒人奴隷を使って綿花を栽培する南部は、イギリスの綿織物工業を支える重要な地域であり、イギリスは奴隷解放を阻止すべく南部のアメリカからの分離独立支援を画策、リンカーンの就任前月には、アメリカから脱退した州が「コンフェデレート(南部同盟)」を結成し、自分たち独自の大統領を指名していた。

北軍の攻勢を描いた絵画(warfarehistorynetwork.com)

北軍の攻勢を描いた絵画(warfarehistorynetwork.com)

 アメリカの危機に大統領に就任したリンカーンは南部に対抗すべく、移民による国土開発と兵力・労働確保を推進する三つの重要な法律制定を急いだ。第一は1862年5月に成立した「ホームステッド(自作農場)法」。国有地を開放し「5年間で160エーカー(約65ヘクタール)の農地を自力で開墾し家屋を建てることができたらその土地と市民権を与え、さらに6か月後に新たな160エーカーの土地を1エーカー当たり1ドル25セントで売却する」という法律。施行から2年でカンザス、ネブラスカ、ワイオミング、モンタナ、コロラドの5州で1万5千人が農場主の名乗りを上げた。アメリカは中西部から西部へと大きくウイングを伸ばし、共和党への支持を広げたのだ。

 第二は同じ年の7月に成立した「パシフィック・レイルロード(大陸横断鉄道)法」で、カリフォルニア州サクラメントとネブラスカ州オマハとを結ぶ路線を建設して横断鉄道を完成させるため、二つの鉄道会社に対し鉄路40マイル(64㎞)を建設するごとに国有地6400エーカー(2600ヘクタール)を与えるという破格の援助をした。さらに政府による融資も手厚かった。大陸横断鉄道は輸送力を強化するだけでなく、当時アメリカの “仮想敵国” だったイギリスから、カリフォルニア産出の金を移すという意図もあったのである。

 第三は1864年7月の独立記念日に成立した「移民奨励法(Act to Encourage Immigration)」で、雇用主に一年を期限とする年季奉公移民の雇い入れを法的に保障し、移民には「ユニオン(北軍)」に兵士としての登録を義務付けるという戦時色の強い法律だった。当時は、最終的に62万人もの戦死者を出すことになる市民戦争(南北戦争)の渦中にあり、大統領として初めて自らを軍最高司令官と宣言したリンカーンにとって、ユニオン軍の兵員補充は南部同盟軍に勝利するための緊急課題だったのである。さらに、年季奉公移民の条項は、北部の工業力や西部の農業力を維持するための労働力確保と同時に、勃興しつつあった労働運動を牽制する目的もあった。

 新規の移民パワー導入策を最大限に活用し国難を乗り切ったリンカーンだったが、カリフォルニア州では州の反乱とも言うべき不穏な動きが起きていた。1948年のゴールドラッシュからわずか4年で清国人クーリー移民は約2万5千人に上ったが、安い賃金で苦難をいとわず働くクーリーに対し、アイルランド系やドイツ系を中心とする移民たちは「仕事を奪われる」と怒り、憎しみの炎は瞬く間に燃え上がって反クーリー暴動も起きた。1850年には清国人とメキシコ人の鉱夫を標的に課税する州法が制定され、1854年には州裁判所が清国人が法廷で証言席に立つことを禁じている。1862年4月の「カリフォルニア反クーリー法」の副題は「自由な白人労働者を清国人クーリーとの競争から保護し、清国人移民のカリフォルニア流入を抑制する法律」であり、清国人に月額2ドル50セントの「清国人治安税」を課すことを定めている。1880年には全米の清国人移民は約10万6千人に達していたが、カリフォルニア州は清国人と異人種との結婚を禁止する州法を制定、極めつけは清国人の移民を禁ずる1882年の「清国人排斥法」で、この後同州への移民は激減することになる。

 大陸横断鉄道のカリフォルニア川のセントトラル・パシフィック鉄道の建設に従事した労働者のうち、10人中9人が清国人クーリーで、彼らはダイナマイトやニトログリセリンを使って山岳地帯を貫く危険な業務に取り組んだ。いわば大恩人である。低賃金で危険な仕事に甘んじる姿は、欧米系移民には不気味に映ったのかもしれないが、根底にはモンゴロイドへの根深い差別があったのは確かだろう。

山岳部の鉄道建設現場(Central Pacific Railroad Photographic History Museum)

山岳部の鉄道建設現場(Central Pacific Railroad Photographic History Museum)

 英植民地のオーストラリアから金の夢を抱いてカルフォルニアに来たエドワード・ハーグレーブスは、夢破れて3年でオーストラリアに戻ったが、同地の地形の観察から金鉱脈の存在を予言。やがて鉱脈が発見され、オーストラリアでも1851年にゴールドラッシュが起きた。わずか2年間で約30万人もの移民が世界各国かなだれ込んできたのだが、ここでも反清国人感情が爆発、オーストラリアはアジア系人種を締め出して白人国家を目指す「白豪主義」に転じたのである。

 米国では共和党と民主党の支持地域が真反対に入れ替わり、かつて清国人差別に狂奔したカリフォルニア州は今、全米で最も人権を大事にする州となった。民主党の強固な地盤であり、不法移民に寛容な「サンクチュアリ・シティー(聖域都市)」が多い。民主党を敵視するトランプは今年4月12日、全米で拘束した不法移民を同州の聖域都市に送り込むとツイッターで発信した。あまりに露骨な攻撃で、更なる分断と混乱を招くとしか思えない。(文中敬称略)

 

【参考文献】
『Jamestown Colony』David A. Price (Encyclopedia Britanica)
『民衆の大英帝国──近世イギリス社会とアメリカ移民』川北稔(岩波書店)
『Lincoln’s Forgotten Act to Encourage Immigration 』Jason Silverman (President Lincoln’s Cottage)
『An Act to Encourage Immigration』U.S. Congress Library
『Sons of the Yellow Emperor—A History of the Chinese Diaspora 』Lynn Pan (Kodansha International)