『シャンハイ・ヌーン』のDVD表紙

『シャンハイ・ヌーン』のDVD表紙

 ハリウッド映画『シャンハイ・ヌーン』(2000年作品)は、香港出身のジャッキーチェンがテキサス出身のオーウェン・ウィルソンと共演した西部劇アクション映画だ。清王朝の王女が誘拐され、近衛兵のジャッキーがカリフォルニア州の東隣り、ネヴァダ州の州都カーソン・シティ目指して身代金を運び、王女救出を目指すという荒唐無稽な筋立ての映画である。間抜けでお人よしの列車強盗を演じるウィルソンとジャッキーのやり取りが何とも楽しいのだが、実は筋書きの背景に重大な時代考証が潜ませてある。一つはカーソン・シティという町であり、もう一つは王女が拘束されている鉱山で、多数の清国人クーリー(苦力=イギリスがインド人と清国人の隷属的契約労働者に対して用いた呼称)が酷使されている状況である。

 清国からアメリカにクーリーが入ってきたのは、1848年にカリフォルニア州で金鉱が見つかりゴールド・ラッシュが起きてからだが、なぜ太平洋を横断して清国人労働者が米国東海岸に押し寄せたのか。それを理解するには、長くはなるがアフリカの黒人奴隷貿易まで歴史をさかのぼらなければならない。

アフリカ西海岸で船に積み込まれた黒人奴隷のイラスト(ThoughtCo.)

アフリカ西海岸で船に積み込まれた黒人奴隷のイラスト(ThoughtCo.)

 初めてアフリカの黒人を奴隷として取引したのはイギリス人のジョン・ホーキンスという商人であり、1563年にカリブ海のサントドミンゴで黒人奴隷を売ったとの記録がある。その後、ポルトガル、オランダ、デンマーク、スウェーデンが奴隷貿易に参入したが、奴隷貿易を一気に拡大させたのは、いち早く世界海洋王国の座に就いたオランダである。ポルトガルがサトウキビを栽培していたブラジルに目を付けたオランダ商人が、1640年代にカリブ海の島バルバドスにサトウキビ栽培を導入したのが契機となった。砂糖生産には多数の労働力が必要なうえ、アフリカの黒人ならカリブ海の炎熱に強いだろうと考えられたからだ。イギリスの奴隷貿易は1640年からロンドン、ブリストル、さらにリヴァプールへと拠点港を変えながら、奴隷貿易が禁止される1807年までに310万人もの黒人奴隷を西インド諸島、さらに北米の植民地(後のアメリカ)に売り込んだ。奴隷を供給したのはアフリカ西岸やギニア湾に面する黒人王国群、つまり黒人が黒人を捕らえて売ったのであり、この地域では当時の為政者の子孫たちと国民との和解が今も課題になっている。

 イギリス商人は綿織物や銃などをアフリカ商人の許に持ち込みバーター(物々交換)で黒人奴隷を入手、彼らを西インド諸島や北米植民地へ運んで売り込み、砂糖、タバコ、コーヒー、チョコレートなどを本国に持ち帰って莫大な富を築いた。サトウキビ農園は24時間操業で砂糖をつくり、黒人奴隷は18時間労働という過酷なシフトで酷使された。

 1793年にアメリカ人の発明家、イーライ・ホイットニーが、綿花の繊維と種子を分離する「糸繰り機」を発明して生産性が上がると、黒人奴隷の需要が急増して綿花や砂糖農園が多いアメリカ南部に送り込まれた。また、ヴァージニア州など北部ではタバコ栽培から西インド諸島やイギリスへ向けの食料生産へと農業形態が変わり、北部で使われていた黒人奴隷も南部の農園主へと売られて行ったのである。

西インド諸島のサトウキビ・プランテーション(wikipedia)

西インド諸島のサトウキビ・プランテーション(wikipedia)

 奴隷貿易はモラルの面のみ語られることが多く、経済的意味には触れられることが少ない。イギリスの奴隷貿易商たちは富をどう使ったのか。豪邸を建てると、彼らは大学への寄付、道路、運河、港湾建設などの社会資本整備、銀行の創設、紡績工場、鉱山開発などに投資し、蒸気機関の発明者であるジェームズ・ワツトにも研究資金を提供した。1770年ごろの奴隷商人によるイギリス国内への年間総投資額は400万ポンド、今日の貨幣価値では5億ポンド(725億円)にも達した。産業革命がなぜイギリスで起きたかについては今なお議論が分かれているが、奴隷貿易の富が産業革命の下地を準備したことには異論がない。特筆すべきは、貿易商人が三角貿易による最終利益を手にするまで時間がかかるという制約を乗り切るため、銀行の信用供与という手法が誕生したことだ。これで貿易業者は運転資金の心配なく活動できるようになった。経済発展に直結する金融革命が起きたのだ。

 だが、サトウキビ農園の経営者たちの議会での発言力が強くなりすぎたことへの反発や、人道的見地からの反対運動の高まりで、イギリスは1807年に黒人奴隷貿易を禁止するに至り、独立後のアメリカもこの流れに乗った。かといって欧米列強の植民地での労働力需要は依然として旺盛だった。ここでイギリス商人が目を付けたのがインド人や清国人のクーリーだ。特に清国では建国後に沿海部で人口が増え、康熙帝が帝位についた1661年から1812年までの150年間に広東省では20倍、福建省では9倍と人口が驚異的に増加した。このころアジアに進出した欧米列強が植民地開発に乗り出したことも誘い水となり、沿海部の民衆は仕事を求めて東南アジアへと流出した。アヘン戦争が起きるころには、東南アジアでの清国人人口は150万人に達していたという。

カリフォルニアで砂金を取る清国人クーリー(wikipedia)

カリフォルニアで砂金を取る清国人クーリー(wikipedia)

 とはいえ、もはや黒人奴隷貿易の再現は許されない。そこで導入したのが「クレジット・チケット・システム」という方式だ。渡航費用を貿易商やブローカーが建て替える代わりに、クーリーには送り込まれた農場で一定年数の労働を義務付ける契約である。先鞭をつけたのはイギリス商人で、1806年に清国人クーリー200人を西インド諸島のトリニダードに送り込んだのが “クーリー貿易” の第一号となった。1838年までにイギリス商人はインド東部のインド人クーリーをアフリカの植民地モーリタスに送り込み、1847年から1884年にかけて25万人から50万人の清国人クーリーを列強の植民地に運び、このうちキューバには12万5千人を送り込んだ。船内では粗末な食事と虐待や監禁が横行し、死亡率は15%~45%に達した。クーリーは実質的に奴隷と何ら変わらなかったのである。キューバでは強制労働期間は8年の契約だが、さらに6年の労働を強制する農園主が一般的だったと記録されている。

 アメリカ商人は早期から西インド諸島での黒人奴隷貿易に携わった経過があり、清国人クーリー貿易にも当然のごとく参入した。彼らはアモイやポルトガルの植民地となったマカオから太平洋を渡る航路で15~45ドルの渡航費用を立て替え、ハワイや西インド諸島のサトウキビ農園に清国人クーリーを送り込んだ。カリフォルニアのゴールド・ラッシュで多数の清国人クーリーが送り込まれたのにはこうした経過があるわけだ。ただ、カリフォルニアの金山は、鉱脈が地表に露出している部分が少なく、だれでもが容易に金を手にするブームはすぐに終わり、クーリーたちは新たに金山や銀山が見つかったネヴァダ州の採鉱の町カーソン・シティに移され、ここから各地の鉱山に送り込まれたわけである。

 最後に、クーリー貿易と日本との接点に触れておかなければならない。クーリー貿易への批判の高まりを受け英国政府は1855年にクーリー貿易を禁止、アメリカも1862年2月に国民のクーリー貿易への関与禁止を法制化していた。しかし、クーリーの労働力を渇望していた南米ペルーの商人たちは、非合法にもかかわらず貿易を続けた。

若き日の大江卓(wikipedia)

若き日の大江卓(wikipedia)

 ここに来て明治新政府を揺るがす国際的大事件が起きた。1872年(明治5)7月、マカオを出港したペルー船籍の「マリア・ルス号」が修理のため横浜港に停泊中、同船から一人の清国人が海に飛び込み逃亡、イギリス軍艦に救助されたのだ。男の証言で同号には清国人クーリー231人が乗せられていることが分かり、イギリスの駐日公使はマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断、明治政府にクーリー救助のための法手続きを要請した。この時、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文など政権の主要構成員は訪欧使節団で出国していて不在。留守政府は西郷隆盛が預かっていた。西郷によってこの留守中に外務卿(外務大臣)に就任した副島種臣は、神奈川県権令(副知事)の大江卓に清国人救助を命じた。弱冠25歳の大江はまずマリア・ルス号の出港停止を命じ、全クーリーを下船させて船長を訴追し、大江を裁判長とする特設裁判所で審理した。当時、日本とペルーとの間には二国間条約が締結されておらず、難しい外交案件だった。審理で船長はクーリーとは「移民契約」を交わしていると主張したが、大江は「契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効である」と船長の主張を退け、クーリーの解放を条件に出航を許可したのである。

 審理の過程で、船長の弁護人は「奴隷契約が無効というなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が認められ悲惨な生活をしている(者がいる)ではないか。それは(約定に縛られた)遊女である」と主張して、遊女の年季証文の写しを提出した。船長の裁判は終わり、クーリーを清国へと送り返して清国政府から感謝されたものの、日本には奴隷売買を反人道的と非難する資格はないとの弁護士の主張は、当然すぎるほど当然だった。遊女の約定問題が国際紛争の遡上に上った以上、日本は国際社会が納得する措置を取らざるを得なくなった。こうして10月2日、太政官布告第295号「芸娼妓解放令(げいしょうぎかいほうれい)」で人身売買が禁止され、奉公人を縛る「前借金無効」の司法省通達も出されたのである。明治新政府を揺るがせた初の外交紛争、国際的人権紛争は、留守政府を預かった西郷隆盛、副島種臣、大江卓の識見と外交センスと胆力により解決されたのである。(文中敬称略)

【参考文献】
『Britain and the Slave Trade』The National archives, UK Government
『Why did the Industrial Revolution Start in Britain ?』Leif van Neuss (HEC-University of Liége )
『Enslavement and Industrialisation』Robin Blackburn (BBC,2011-02-17)
『A Hidden History of the Chinese in Cuba』The Cuba Commission Report (Johns Hopkins University Press,1993)
『Coolie Trade in the 19th Century』Immigration History Research Center, University of Minnesota, June 16 2015
『華人の世界分布と地域分析』張長平(国際地域学研究 第12号 2009年3月)