キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第05回

神秘のヴェールを脱いだ阿里山

巨木が連なる阿里山の原生林(筆者撮影)巨木が連なる阿里山の原生林(筆者撮影)

 日本と清国との講和条約の発効からほぼ半年後の1895年(明治28)11月18日、初代台湾総督・樺山資紀は、清国から割譲された台湾の武力による平定を宣言した。ところがわずか一カ月後の12月30日、東海岸の宜蘭の街が土匪に囲まれたのを皮切りに、翌1896年1月には台北が襲われ、集落で略奪を働き住民を殺害したり、役所を襲ったりする暴動ののろしが全台湾規模で上がり始めた。台湾南東部の太平洋岸にある都市・台東には清国軍の守備隊が残っていて、海路から上陸した日本軍への投降を拒否し戦闘を開始。副統領の劉徳杓は千人ほどの兵を率いて中央山脈を経て台湾中部の雲林の山地に逃れ、各地の遊民を糾合して日本軍にゲリラ戦を仕掛け続けた。台湾は騒然とした空気に包まれ、1897年秋になっても、なお動乱は続いた。総督府は軍隊、憲兵隊、警察隊による「三段警備」体制を敷いて危険地帯に軍、中間地帯に憲兵、平穏な土地に警察という分担で動乱の鎮静化に努めた。台湾を領土としたといっても、先住民が暮らす山地はもとより、平野部の都市でも社会秩序が脅かされていたのである。

 情勢が落ち着き始めた1899年(明治32)、台南の日本人技師小池三九郎が、台湾最大の大河・濁水渓の南側の支流である清水渓から森林探検に入り「川を遡行すると巨大なヒノキ林を発見した」と報告した。小池は偶然にも阿里山の原生林の入口に到達したのだ。神秘のヴェールに包まれた阿里山、ツォウ族の聖地にして狩猟場だった阿里山が、初めてその素顔の一端を文明に見せたのだ。清水渓は嘉義の北東の平野部を流れており、治安が良く森林調査にも比較的入りやすかった。当時知られてはいなかったが、清水溪の上流は、実は阿里山の山々に源を発する阿里山渓とつながっているのだ。偶然がもたらした大発見であり、台湾開発の新たな一章がここから始まることになる。

東京ドーム3万個分の広さ

 現在の阿里山森林観光区は広さ約13万9600ha、東京ドーム約3万個分もの広さがあり、平均海抜は2000mから2200m、熱帯林から寒帯林まで多様な森林域を形成している。

 台湾開発のため南北縦貫鉄道の建設構想を練っていた総督府は、鉄道敷設用の木材確保にまたとない好機到来と判断。翌1900年(明治33)3月に予備調査を開始し、有用樹木は無限で木材の搬出施設が必要となるとの調査報告を提出した。これにより、阿里山への関心は一気に高まった。嘉義に駐屯する陸軍第二師団歩兵第五連隊の早坂徳四郎少尉が1901(明治34)年9月に率いた阿里山探検隊に高一生の父アパリが案内人として同道したのには、こうした背景があるのだ。なお、早坂少尉の記念写真を見て即座に「アパリその人で間違いない」と指摘したのは、孫の馬場美英(パイツ・ヤタウヨガナ)氏=東京都在住=である。

スイッチバックで進行方向を変える列車(筆者撮影)スイッチバックで進行方向を変える列車(筆者撮影)

 さて、搬出方法の検討の過程では、台湾第二の河川・曽文溪の利用を考えたが、河川には巨岩が多い上に水量も一定しておらず、しかも一度雨が降ると激流となる。伐採した木材を筏に組んでの搬出は困難との判断に至り、鉄道敷設しかないとの結論に達した。

 1906年(明治39)2月、総督府は大阪の合名会社藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)と契約を結び森林鉄道(阿里山鉄道)の敷設に着手した。工事開始前に森林資源の調査に当たった藤田組の記録によると、最も有用な紅ヒノキと扁柏(ヒノキ)だけでも約30万8千本、直径1m級が主だが、直径6m、樹齢推定3千年という巨木も林立していた。東京の明治神宮と奈良の橿原神宮の大鳥居の材は、阿里山から切り出されたものだが、橿原神宮のものは老朽化のため2018年に解体された。また、クスノキから精製した樟脳は世界一の生産量を誇り、セルロイドフィルムの原料としてハリウッド映画の全盛時代を支えた。
阿里山に入った人々の感動を良く伝える記録として、台湾総督府が1916年(大正5)に発行した「台湾事情」がある。同書は、阿里山の森林をこう紹介している。

 「地味気候よく植物の生育に適し長幹美材ちょうかんびざい参差蓊鬱さんさおううつとして星霜幾千年全く世と隔たり人文及ばず斧斤未だ嘗て入らざる往古の原生林なり」

 地味豊かで気候も植物の生育に適しており、巨木がうっそうとして生い茂って何千年もの間伐採の手がまったく入っていない原生林だというのである。
 鉄道は6年がかりで1912年(大正元)12月に完成した。その後阿里山駅まで5km延伸し、現在の総延長は約71.6km。起点の嘉義市と終点の阿里山駅との標高差は約2400mもある。鉄路にはトンネル70本、鉄橋約60脚を配し、原生林の入口にある塔山(標高2480m)の山腹にスイッチバックの場所を3か所設け、列車を方向転換しては急勾配で登り続け、塔山を都合3周して原生林地帯の中央部へと上り詰める。阿里山の原生林調査に入った日本人は、神々の座ともいうべき大自然の広がりに接し、畏敬の念に打たれたはずだ。今日、世界的な観光地となったこの阿里山が、ツォウ族の揺籃の地であり、高一生の故郷である。

蒸気機関車による木材運搬の復元走行(行政院農業委員会林務局)蒸気機関車による木材運搬の復元走行(行政院農業委員会林務局)

外地からやって来たアパリ

 高一生の父アパリは、謎の多い人物である。何よりも「アパリ」という名前はツォウ族のものではない。ツォウ族の男性名は日本流に言えば太郎、次郎、三郎といった名が10余りあるだけで、どこの誰という人物を特定するのは父方の姓が決め手となる。彼が村人に「アパリ」と呼ばれたのは、外地の「アパリ」からやって来た男だからだという。台湾にはこの地名はなく、ツォウ族の誰もが知っていそうな外地の「アパリ」は、バシー海峡を挟んで台湾の対岸にあるフィリピン・ルソン島北端、カガヤン川の河口にある港町「アパリ(Aparri)」しかない。ルソン島北部は大小多数の島が南北に連なり航海しやすいし、バシー海峡の潮流は、台湾最南端のオーロワンピー(鵝鑾鼻)に向かう。第二次世界大戦末期、バシー海峡で米軍に撃沈された日本艦船の乗員の遺体が次から次にこの岬に漂着し、流れ着いた数百にも上る英霊を祭る寺がある。高雄市の観光土産店の経営者が私財を投じて建てた潮音寺である。潮流は航海に適し、台湾南部の民とフィリピンの島々の民との交流や婚姻は、国境を自由に越えていたこともよく知られている。アパリがこの地から渡ってきたという直接的な証拠はないが、十分考えられるだろう。

1900年代初期のツォウ族の男子と女子(番族慣習調査報告書第四巻鄒族より転写)1900年代初期のツォウ族の男子と女子(番族慣習調査報告書第四巻鄒族より転写)

 嘉義市に暮らす高一生の次男、高英傑(アヴァイ・ヤタウヨガナ)氏によると、祖父アパリはツォウ族ではなくピンポ族(平哺族)だという。ピンポ族は台湾の平野部全域に暮らしていた、最も人口が多かった十ほどの民族集団の総称である。台南で真っ先にオランダ人と交流したシラヤ(西拉雅)族、台北の台湾総督府の正面玄関から真東の景福門(旧台北城府の東門)までの片側5車線・長さ400mの大きな道路の名称となっているケタガラン(凱達格蘭)族、世界的名声を博している台湾ウイスキーの名前に使われているカヴァラン(噶瑪蘭)族などがよく知られている。

 シラヤ族はオランダ人が開設した学校でローマ字を教わり「新港文書」と呼ばれるローマ字表記のシラヤ語と漢語との土地取引契約書を多数残しているし、ケタガラン大道は、台北市長時代の陳水扁(後に民進党初の台湾総統)が1996年、それまでの名称「介寿路(蒋介石の長寿を祈る道。ここを通る者は低頭を義務づけられた)」を改めたことでもよく知られる。台北でのデモは大抵ここが会場だ。カヴァラン族は長らくアミ族に分類されていたが、2002年に独自の言語・文化を保持しているとして「原住民族」に認定された。

ケタガラン大道でのデモ。後ろは総統府(筆者撮影)ケタガラン大道でのデモ。後ろは総統府(筆者撮影)

 ピンポ族は漢人と混住したり漢人との婚姻が進んだりしたため、清王朝は帰順した民「熟番じゅくばん」として扱った。帰順していない先住民「生番せいばん」が住む山間地域を「番地」と呼び、1874年まで実効支配を放棄。紛争を防ぐため漢人と先住民の居住区を分離して地図上に「土牛紅線」と名づけた赤い線を引き、双方に許可なくこの線を越えることを禁じた。

 日本統治時代は草冠を付けて「蕃地」、「生蕃」、「熟蕃」という用語を用いている。漢語の「番」はもともと獣の足裏、草冠が付いた「蕃」は草がしげる意味で、共に野蛮人の意味に転じた。唐王朝末期には「蕃漢」という言葉の用法が生まれ、漢族を文化の花が咲き誇る「中華」の民に対し、周辺の異民族を野蛮人「蕃」としてさげすむという伝統を今日まで引きずっている。漢語信仰が強い日本は、漢語に含まれる漢人の差別論理、中華思想を疑うことなく継承した。「番」あるいは「蕃」と呼ばれる側の人々の気持ちは想像もしなかったのだろう。李登輝政権以降の台湾民主化の進行で、少数民族への抑圧が緩み、ピンポ族の中にも独自の言語や文化を守り続け、全面的に漢化しているわけではないと主張する人々が増えてきている。

 こうしたことを考える手がかりとして、台東県出身のパイワン族の盲目詩人、モーナノン(曾俊旺)の詩「僕らの名前を返せ」の一節を紹介しよう。

「生番」から「山地同胞(国民党政権時代の呼称)」へと
僕らの名前は
台湾の片隅に置き去りにされてきた
山地から平地へ
僕らの運命は、ああ、僕らの運命は
ただ人類学の調査報告書のなかでだけ
丁重な取り扱いと同情を受けてきた
(中略)
もしもある日
僕らが歴史の中をさまようのを拒否したら
どうか真っ先に僕らの神話と伝説を書いてください
もしもある日
僕らが自分たちの土地のうえをさまようのをやめたら
どうか真っ先に僕らの名前と尊厳を返してください

17世紀中葉にドイツ人軍人が描いた「フォルモサ人」のスケッチ(ドイツ・ゴータ大学図書館所蔵)17世紀中葉にドイツ人軍人が描いた「フォルモサ人」のスケッチ(ドイツ・ゴータ大学図書館所蔵)

 西洋人が描いた台湾先住民族のスケッチで最も古いものに、オランダに雇われたドイツ人軍人、カスパー・シューマルカルダンが、明王朝末期の1642年から52年にかけての紀行を記した「東西インド旅行記」(ドイツ・ゴータ大学図書館所蔵)の挿絵がある。なかなか才能豊かな人だったようで、1648年6月に台湾を訪れた際に彼が描いたスケッチでは、腰を布でまとった上半身裸の男たちが平原で鹿を追い、落とし穴へと追い立てる様子が生き生きと描かれている。絵には比較的大きな文字で「フォルモサ人(麗しき島の民)」と書かれている。ここには蔑視の視点はない。本稿では「蕃」や「番」は原則、固有名詞としての用例に限り用いることにしている。

 さて、外地からやって来たアパリが、どのような経緯でツォウ族の集落に出入りするようになったかについての記録はない。ただ、村人に「イノシシより早く走る男」と親しまれたアパリは、日本語を習得してツォウ族の大きな集落であるタッパン(達邦)警察官吏派出所の巡査補に取り立てられた。巡査補も警察官の制服を身に着ける。また、アパリは1900年(明治33)7月から3カ月間、内地観光で神戸や仙台などを訪れている。ツォウの集落では一目置かれる存在だったのは間違いないだろう。やがてアパリはツォウ族の有力氏族であるヤタウヨガナ氏に迎えられて「ヤタウヨガナ」という氏族名を得た上で、ツォウ族の娘アプウ・テヤケヤナを妻とした。ピンポ族の青年とツォウ族の娘の結婚はなぜ成立し得たのだろうか。先住民の結婚についての習俗はどんなものだったのだろうか。

家族愛が深いツォウ族の民

 オランダ東インド会社の活動記録「バタヴィア城日誌」に、宣教師バードレ・フライ・ファン・デ・ラ・コンセプション編の「フィリピン諸島通史1788年刊」の抜粋が付録資料として付いている。その中に台湾先住民の婚姻を紹介している興味深い記述があり、少し長くなるが、以下に引用する。

 彼等らの結婚は野蛮なるところはなはだ少なく、妻を買うこともなく、また双方より得べき財産に頓着せず、父母は全くこれに関係することなし。青年、結婚せんと欲し、好むところの少女を発見する時は、数日その跡を追い、この間その門に至りて一の楽器をもって音楽を奏す。少女これを好む時は、その家を出でて己を求むる者と語り、彼等の間に条項を定めたる時は、これを両親に通知す。彼らは少女のの家において結婚祝宴の準備をなし、夫は再びその両親の許に帰ることなくじご(爾後)舅の家を己の家とす。このゆえに彼等は老年に至りて婿に扶持せられんため、男子よりも女子を持たんことを欲す。

正装して男子集会所クバの前に立つ阿里山タッパンの頭目(筆者撮影)正装して男子集会所クバの前に立つ阿里山タッパンの頭目(筆者撮影)

 男子の演奏する音楽が好ましくなければ求愛は受け入れられないとは、何ともほほえましくロマンチックである。また、先住民の特質について「島人は野蛮に見ゆれども、信条の中には誠の哲学に近きものありて、中国の最も有名なる哲学者に勝りたる所あり」と賛辞を贈っている。

 上記はスペイン人宣教師の台湾先住民の観察記録だが、日本人の目にはどう映っていただろうか。台湾総督府が1901年(明治34)に設立した「臨時台湾旧慣調査会」は8年間にわたり先住民の習俗を調査し、報告書をまとめた。そのうちツォウ族について記した第四巻では、ツォウ族には「賞賛に値する数多くの美点がある」と強調している。具体的には、①夫婦間はもとより親子間・全家族間の愛情が深く和やかで、近隣の客人に対してもとても親切である。②狩猟や戦いでは勇敢で臆病を恥じるが、仇敵であっても武器を捨てた者には物腰柔らかく接し、戦闘になっても女性を辱めることはない。③清廉で貪ることはなく、客人をもてなすときは費用を惜しまない。④異族に対する警戒心は当然持っているが、タイヤル族やパイワン族ほど厳重ではない、などを挙げている。

 結婚は本人同士の合意が絶対条件である。結婚前の男女の交際はとても自由で、もし結婚していない男女が交わっても制裁を受けることはないが、私生児はタブーである。子供の誕生は男子より女子の方が喜ばれるが、養育に差はないという。

 さて、ピンポ族のアパリがなぜツォウ族の娘と結婚できたかについてだが、この報告書によるとツォウ族はもともと異なる種族との婚姻を禁止していない。ただし、結婚できるのはツォウ族の娘とツォウ族以外の男との組み合わせに限られ、ツォウ族の男とツォウ族以外の娘との組み合わせは許されない。アパリはヤタウヨガナ氏に迎えられた、いわば“認定ツォウ族”だが、結婚はピンポ族のままでも認められたということだろう。アパリは妻アプウとツォウ族としての和やかな家庭を築き、子どもたちを育んだのだろう。息子である高一生の歌曲の特徴は優しい美しさにあるが、彼の獄中書簡を読むと妻や子供たちへの深い愛情と優しさにあふれていて胸を打つ。

〔主な参考文献〕
◎『台湾治績志』井出季和太(台湾日日新報社、南天書局復刊)
◎『台湾原住民文学選①名前を返せ』モーナノン/トパス・タナピマ(草風館)
◎『バタヴイア城日誌③』村上直次郎訳注・中村孝志校注(平凡社東洋文庫)
◎『番族慣習調査報告書第四巻鄒族』台湾総督府臨時台湾旧慣調査会(中央研究院民族研究所編訳)

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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