キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第10回

青年団を率いて農村改革

山が入り組んだ霧社の集落。今は寒冷地野菜の生産地となっている(筆者撮影)山が入り組んだ霧社の集落。今は寒冷地野菜の生産地となっている(筆者撮影)

 台湾のほぼ地理的中心に位置する山地先住民集落・霧社で1930年(昭和5)10月下旬に起きた一大反乱は、タイヤル族の一派であるセデック族のマヘボ社頭目、モーナ・ルダオ(莫那魯道)が主導した。決起には300人ほどが参加し、駐在所を襲撃した後、霧社公学校の運動会場になだれこみ、日本人130人余を殺害して山中に逃げ込んだ。やがて反乱はセデック族全体を巻き込み、総督府は警察官約2700人、軍人約1000人を投入して鎮圧にあたり、1カ月後の11月末、モーナ・ルダオの自殺で反乱は一応収束し、反乱参加者は投降した。ところが翌年4月下旬、総督府による反乱鎮圧に協力したタウツア社の先住民が、投降したセデック族を襲撃し216人を殺害。タウツア社はセデック族とは対立関係にあり、この襲撃に際してタウツア社側は大規模な「馘首かくしゅ(首狩り)」を実行、あまりに凄惨な結末は総督府に衝撃を与えた。

モーナ・ルダオの肖像を刻印した20元硬貨。戒厳令下の国民党政権は彼を「抗日英雄」と喧伝した(goods.ruten.com.tw)モーナ・ルダオの肖像を刻印した20元硬貨。戒厳令下の国民党政権は彼を「抗日英雄」と喧伝した(goods.ruten.com.tw)

 先住民統治の先進地とみなされていた霧社で起きたこの反乱は、台湾総督府を震撼させ、政策のどこに過ちが潜んでいたのか、深刻な反省を迫った。
 山地の先住民は、他の部族の襲撃から身を守るために険しい高地を選んで居住しているため、食料確保もままならない暮らしを送り、平地のように周囲の文明と交わることもない。「祖先を崇拝し純良にして約を守り信を保つ天性を有する」と、総督府はその美点を認めながらも、半面「性質単純にして一度感情に激すれば本能を抑制する理性少なく猪突的に盲動する殺伐性を有する」と、教化の難しさを記録している。さらに、領台以来30年ほどかけて山地に駐在所網を張り巡らせ猟銃も駐在所で管理する仕組みを作ったものの、政治的・宗教的指導者である「頭目とうもく」の強い影響力に頼りがちな統治が、セデック族の暴走を未然に防げなかった遠因であるとの結論に至った。

 1930年時点の先住民の総数は戸数2万3925戸、人口14万553人。このうち戸数で3割、人口で4割弱は、警察が管轄する山地の特別行政区を離れ、平地の普通行政区で暮らしていた。総統府が着目したのは台湾の東海岸の平地に暮らすアミ族だ。総督府が霧社事件から一年後の1931年(昭和6)12月28日に公布した、先住民統治の“憲法”といえる「理蕃大綱」は、アミ族について「性質温順にして農作および労働に従事し、教育の程度も他種族に比して著しく進歩し、その生活状態はほとんど本島人と比肩すべき状態にあり」と記している。

 したがって「理蕃大綱」は、教育も大事だが、頭目の影響力を排除するために十分な農地が確保できる低地への移住を促し、農業を奨励して経済的に豊かな自給自足と自主独立の生活ができる仕組みを整えることや、家畜家禽の飼育牧場の設置を奨励するとともに狩猟を制限し、銃を愛する心から生まれる殺伐とした気風を緩和することなどを、先住民統治の新しい柱に据えた。そして、総督府の課題として農業の基盤としての灌漑用水路や道路網の整備に取り組むことを盛り込んでいる。

 頭目の影響力を削ぐ施策は、一気には実現できない。総督府は、「頭目勢力者会(会数83、会員数1641)」と「家長会(会数228、会員数1万2276)」という2つの新組織を同時に設置し、次第に氏族を単位とする家長の会へと実権を移していった。いわばピラミッド型の頭目支配社会から多数の家長連合の社会へと転換しようとしたのである。この結果、数年で「頭目勢力者会」は姿を消し、頭目や勢力者が影響力を行使する部族社会は終わりを告げた。

 同時に「婦女会」「男子青年団」「女子青年団」を組織し、「青年団」を次代のリーダー群を集めた統制機関と位置付けたことは、先住民統治の転換点となった。日本で明治末から急速に発展した「青年団」の活動を先住民統治に取り入れ、取り分け日本語教育を受けた先住民エリート層に社会改革を託したのである。さらに1939年(昭和14)には「高砂族自助会」が成立。先住民が費用を出し合って自治に取り組む「公民的訓練」の場として運営し、将来的には山地の先住民区を、台湾の漢人と同じ「普通行政区」へと転換する布石とした。こうして「理蕃大綱」が、矢多一生などの活動を支えたのである。

高砂族青年団幹部懇談会の記念写真(『理番の友』より転載)高砂族青年団幹部懇談会の記念写真(『理番の友』より転載)

 青年・矢多一生の活動の軌跡は、1932年(昭和7)1月から台湾総督府警務局理蕃課が発行し始めた、先住民統治に関わる警察官のための雑誌「理蕃の友」に紹介されている。霧社事件5周年の1936(昭和10)年11月1日号だ。矢多一生は28歳になっていた。発行日直前の10月29日、台北市の警察会館で全台湾先住民の若者のリーダーたち32人を集めた「高砂族青年団幹部懇談会」の記事である。言葉も習俗も異にしていた先住民が、初めて「日本語という共通語」で意見を発表したこの懇談会は、台湾総督府にとって霧社事件の悪夢をようやく追い払うことが出来る、台湾統治史を飾る輝かしい出来事だったのである。

 矢多一生の意見発表は、村を豊かにするための農業改革の取り組みについてだった。そのくだりを、すこし長くなるが原文のまま紹介しよう。

 私の蕃社では麻竹マチク(メンマ加工用の大型タケノコ)栽培が重要な問題となつてゐます。始め同族は、之を植ゑると老若を問はず死んでしまふ、とて誰一人植ゑ様とはしませんでした。そんな空気の中にあつて、其の栽培の有利な事を説いたのですが、一つ試しに矢多のいふ麻竹を栽培しようといふ有力な青年が出て来たので試験的に植栽させました。所が数年ならずして盛に筍が出来る、さらに之を乾筍にして年に五、六百円から八百円位までの純益を上げる様になつて来ました。さうなつて来ると社衆は我も我もと苗を所望し、全社に普及して今では重要な産物となりました。

 矢多はさらに水田耕作を取り入れたことも報告する。

 私の蕃社は曾文渓の上流でありますが、昭和九年共助会を組織して角板山方面(台湾北部のタイヤル族の居住地)の様な埤圳ひしゅう(農業用貯水池と用水路)を造り、水田耕作をする様になりました。

 水田耕作は理蕃大綱が掲げる大きな目標だが、実利を得るタケノコ栽培の成功体験があったからこそ、水の共同管理という難しさがある水田耕作への挑戦につながったのだろう。
 矢多は続いてツォウ族の風習「屋内埋葬」を改めた取り組みを報告する。屋内埋葬とは、死者が出ると屋内の床を掘って埋葬し、家族は死者の霊とともに生活するという習慣だ。矢多は「非衛生極まる陋習だ」と村人の説得を続けるが、村人は「そんなことをすれば村全体が死滅してしまう」と頑なに拒まれてしまう。1932(昭和7)年にたまたま村の有力者が亡くなると、矢多は青年たちを率いて共同墓地に埋葬するよう説得を試みたが、家族は泣いてこれに抵抗する。そこで、家族の留守を見計らって腐敗した死体を掘り出し、共同墓地への埋葬を強行したのだった。

 成果を矢多はこう報告する。「遺族を初め社衆は、青年団はヒドいことをする、死体を掘り出して屍骸に恥をかヽせる、こんな事をされてはたまらない、といふ心から、其後は全部屋外埋葬が実行される様になつて来ました」。
 はなはだ荒っぽいやり口だが、長老の権威が全てを支配していた部族社会が、支配者・日本の権力に裏打ちされた、矢多が率いる青年団の力に抗いきれなくなって村社会の変容が進む過程が見て取れる。
 そして矢多一生は決意を披瀝する。

 斯うして阿里山蕃は段々覚醒して一歩一歩改善の実が上がってゐます。私は此の憐れむべき同胞を引き起こし、祖先伝来の困苦缺乏に堪へる精神を以て裕福な村、平和な村、国語の村の建設に努めたいと思つてゐます。

 統治者・日本が定めた路線を進めたとはいえ、矢多の農村改革にかける熱い気持ちがひたひたと伝わって来る。司会者は矢多の発表について「頗る流暢な国語を以って血にじむ過去の体験を語るところ・あっ晴れツォウ族の第一人者としての面目を見せる」とべた誉めしている。だが、矢多の文言には強い違和感もある。冒頭の「私の蕃社では」や「阿里山蕃」、さらに阿里山に暮らす仲間を「此の憐れむべき同胞」と表現したことだ。

 警察官の家に引き取られた嘉義小学校時代の矢多は、毎日帰宅するたびに家人が「蕃人のかつおが帰って来た」と奥に知らせる声を聞いていた。「蕃人」という言葉は、少年の胸に突き刺さり、深く心を傷つけられたことは想像に難くない。ロシアの言語学者ニコライ・ネフスキーが阿里山・達邦にやって来た時、矢多は台南師範学校の学生だったが、夏休みにもかかわらず彼はいつも日本の学生服姿でネフスキーにツォウの言葉や習俗を教えた。ネフスキーは彼のことを「文明開化された若者」と記録している。思うに矢多は「日本人以上に日本人になり切ろう」と身を律していたのであろう。

 ここで先述の「高砂族青年団幹部懇談会」の大会名に注意してほしい。矢多一生は自分の村を「蕃社」と呼んだのだが、大会名には「高砂族」という言葉が使われている。実は「高砂族」という呼称は、この時初めて「理蕃の友」に登場したのだった。「理蕃大綱」が掲げた霧社事件の反省による皇民化政策の推進のため、「天皇の聖徳に浴する民にふさわしい名称」が求められた。それが「高砂族」という名称だった。1935年の戸口調査規程は、台湾に住む者の戸籍の「種族欄」を「内地人(日本人)」と「本島人」とに大別し、さらに「本島人」は「福建族」「広東族」「其の他の漢族」「平埔族(漢化された先住民)」「高砂族」の5種類に区分し記載することが定められた。高砂族青年団幹部懇談会が開かれたのは戸口規程が改められた翌年である。

 懇談会では、このことに触れた青年がいた。台中の沢井藤内である。沢井は、女子教育の問題点を指摘した上で、「特にお願いしたいこと」として、こう述べた。

『蕃人』なる名称を廃して頂たいといふ事であります。同族に向かって『お前等は日本人である』と言ひ聞かされてゐるに拘わらず、一面では『蕃人々々』と言はれることは教化上支障がある様に考えます。

 鋭い指摘に、司会者は正面から応えた。長くなるが原文のまま引用する。
 「偽らぬ率直な感想、曾ての女子青年指導に対する辛辣な批評、『蕃人』の名称廃止論、何れも大いに肯綮こうけいに中つている(急所をついているとの意味)。自覚した者に蕃人呼ばゝりは聞き辛いことは充分同情出来る」と引き取り、高砂族の命名の由来を説明した。

 畏くも、今上天皇陛下が皇太子でおはす時、即ち大正十二年本島行啓のみぎり、蕃人の進化振りを御喜び遊ばされて高砂族と称したらよいとの有り難い御諚を賜はつたと漏れ承つてゐるが、今日心ある平地人は、徒に個人に対して生蕃や、蕃人なる語を使はぬ。戸口規程上でも『高砂族』の名称を用ひる事に改正された。然し、一般的には未だ蕃人なる旧い名称が用ゐられる場合もあらう。之等の事情をよく了解されて、益々修養に努められたい。

 司会者は台中の沢井の正論を全面的に肯定したのである。こうしたことを全て理解しているはずのエリート中のエリート、矢多一生はなぜ自分の故郷を「蕃社」と、心ある平地人が使わない呼称で呼び、「此の憐れむべき同胞」と卑屈とも思える表現をしたのだろうか。

達邦の道路壁面を飾る絵画(筆者撮影)達邦の道路壁面を飾る絵画(筆者撮影)

 矢多が属するツォウ族は、先住民の中では最も弱小な部族である。部族を守るためには、統治者・日本に寄り添うことは大事だ。しかし、それは表面的なことに過ぎなかった。実は、彼には口には出せない固い決意があったのだ。彼の胸中にはアメリカ中西部ミズーリ州の農村教師、マリア・ターナー・ハーヴェイの事跡に倣い、農村教師による農村改革と豊かな共同体の建設という、使命感の炎が燃え盛っていたのである。ツォウ族の繁栄を目指す大目標のためツォウ族の魂を貫き通し、真にツォウ族として生きる覚悟を見破られないために、敢えて自らを卑下するかのような言葉を並べたと解釈するのが、彼の心情に近いように思える。

 

【主要参考文献】
◎『理蕃大綱』台湾総督府警務局理蕃課(国立国会図書館デジタルコレクション)
◎『理番の友 昭和4年11月号』台湾総督府警務局理蕃課

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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