狼の見たチベット

第08回

チベット亡命政府のあるダラムサラ

 吾輩は神出鬼没の狼である。野生動物である吾輩には、人間の定めた国境など関係ないのでどこにでも四本の脚で駆けていくことができる。
 前回、前々回はチベットの環境について語った。環境については野生に生きる身として言いたいことはまだまだあるが、あまり続けると「狼の見たチベット」ではなく「狼の語る地球環境」になってしまうのでいったん別な話題に変えることにする。

 ヒマラヤを越えてチベット本土から亡命していくチベット人たちの話を以前語ったのは覚えているだろうか。
 チベットを離れた彼らが、どこに住んで、どんな暮らしをしているのか、気になって調べてみた。
 現在、世界33カ国に17万人の亡命チベット人が住んでいると言われている。一番多いのはインドの11万人、ついでネパールの3万人、ヨーロッパではスイスが一番多く3000人〜4000人が住んでいると言われ、次に続くイギリスに住む人数が1000人に満たないことからもヨーロッパではスイスが突出していることがわかる。やはりチベット人にとっては高い山が住み心地が良いのかもしれない。
 ちなみに、お前さんたちの国日本には、100人程度のチベット人が住んでいるらしい。田舎の方で過疎が問題になっているのだから、居住地域に制限(過疎地に限る等)をつけてもいいから、もう少し受け入れてやってもいいのではないかと吾輩は思う。

 話の順番として一番居住者の多いインドについて語ろうと思うが、インドと聞いて、お前さんたちはどんなことを連想するだろうか?
 カレー、サリー、カースト制度、暑い、ガンジー、紅茶、、、etc といったところだろうか。
 日本人にとってインドと言えばカレーだろうが、残念ながら吾輩たち狼は香辛料には弱いためカレーについて語ることはできない。
 そして、毛皮で身を覆ってる我輩たちにとって暑さも禁物なので、インドはインドでも暑くない北部インドの話をすることにする。
 インドでのチベット亡命者の居住地としてはダラムサラが有名である。チベット人の指導者であるダライラマが現在住んでいる街である。
 ダラムサラはインド北部、首都デリーよりもさらに北のヒマーチャル・プラデーシュ州という場所にある。ダラムサラの標高は1700m程度で、チベット高原に比べれば遥かに低いものの、平地に比べればチベット人たちには住みやすい土地と言える。スイスといい、ダラムサラといい、チベット人という連中は本当に山が好きな民族のようだ。
 ダラムサラという名前は、ヒンドゥ語の dharma と shala という二つの単語を組み合わせた造語で、《精霊の居ます所》あるいは《聖地》と言った意味を持つそうだ。古くは三蔵法師が天竺に向かう途中に、この近くを通ったという記録もあるくらいに仏教にも縁のある土地だ。
 ダラムサラに元々住んでいた人々は遊牧民だったそうだ。ここもチベット人との縁を感じる。19世紀半ば、インドを支配していたイギリス軍はダラムサラに拠点を築いた。何のための拠点かとういうと、ようするに避暑地だ。イギリス人には毛皮はないが、我輩同様にインドの暑さに辟易していたらしい。
 第二次世界大戦が終わると、インドはイギリスの植民地支配から独立する。チベットが中国の植民地支配から独立することも、早く歴史上の出来事として語れる日が来てほしいが、それはまだ先の話だ。できれば我輩のコラムの連載中に語りたいものである。
 話を戻すとインドがイギリスの植民地支配から独立した1947年にダラムサラからもイギリス人たちはいなくなる。
 それから12年後、1959年ダライラマが8万人のチベット人とともにインドに亡命してきた。この亡命の経緯については近いうちに詳しく語ることにする。
 当時のインドの指導者であるネルー首相は、翌1960年にチベット亡命政府の拠点としてダラムサラを提供することに決めた。
 その日からダライラマと、チベット亡命政府、そして6000人のチベット人たちがダラムサラに居を構えることになった。

チベット亡命政府のあるダラムサラはインド北部にある←チベット亡命政府のあるダラムサラはインド北部にある

 現在ダラムサラには、チベット亡命政府のいろいろな施設がある。
 宗教・文化省、内務省、大蔵省、厚生省、文部省、外務省、公安省という7つの省や国会議事堂。
 我輩の目から見れば、国土を失い国民の大半から切り離された状態で政府なんかあったものじゃないだろうと思うのだが、こうやってきちんとした制度を整えることが人間にとっては大事らしい。
 ところで、チベットが再び自由を取り戻した時、この亡命政府は解散されるそうだ。国外に逃れていたものが権力を握るのではなく、チベットの全ての民の中から政治を担うものを選ぶということなのだろう。なかなか公平な話だ。
 ダラムサラにある施設の中で、特に重要なものの一つにTCV(チベット子供村)がある。ようするに寄宿制の学校だ。2000人の子供達が学んでいる。その中にはヒマラヤを越えてチベット本土から来た子供達も多い。最近は中国側の警戒が厳しいために人数が減っているが、以前は毎年10才以下の子供たちだけでも400人ほどが、凍傷や拘留の危険を犯してヒマラヤを越えてきていたそうだ。
 難民を受け入れる学校はダラムサラのTCVだけではない。チベットの難民学校は全部で85校あり、その内、68校がインドにあり、約28,000人の子供たちが学んでいるそうだ。

 そう、インド各地に難民学校があるということは、インドに住むチベット人はダラムサラやその周辺だけでなくインド各地に住んでいるということだ。
 我輩も神出鬼没と名乗った以上、暑さを我慢してチベット人が住む他の地域、多くのチベット人が定住した南インドについて語らねばなるまい。
 亡命当初、南インドに住み着いたチベット人達の生活は苦難に満ちたものだった。先日まで高度4000mの寒い山の上で生活していたチベット人たちが、突然ジャングルで生活するのだ、それは大変だっただろう。
 念のために言うが、インド政府は嫌がらせやいじめでチベット人を南インドに追いやったわけではない。
 インド政府は、8万人の亡命者を受け入れて、彼らに生活をするための土地を与えた。十分親切なことだ。
 しかし、人がすでに暮らしている土地を亡命者に与えることはできない。インド政府がチベット人に与えることができたのは、未開の土地だった。
 チベット人達に与えられた土地は、文字通りジャングルで、まずは道を切り開くことから始めなければならなかった。富士山よりも高い土地に住んでいた人々が、40度を超える気温の中で過酷な労働を行う。見知らぬ野生動物の影に怯え。水も、ヒマラヤの清らかな雪解け水に慣れたチベット人にとって、動物の屍骸等で汚れたジャングルの水は耐え難いものだったろうと推測できる。多くのものが体を壊し、多数の死者も出た。
 それでも、彼らは生活の基盤を築き、後から続く亡命者たちを受け入れれる環境を作ったのだった。
 今日、南インド各地のチベット人地区でチベット人達は自分達の病院や自分達の学校を持ち助け合って暮らしている。チベット仏教の寺院すら建立されている。

 このように、現在チベット人たちはインド各地で、どうにか自分達の生活を行っている。だが、問題が何もないわけではない。
 海外からの支援は、どうしてもダラムサラに集中してしまう。同じ難民学校でも、TCVには十分な物資が届いているのに、辺鄙すぎて物資を届けたくても届けることすら困難な場所すらある。
 チベットが自由を取り戻す日が明日にでも来るのならば問題ないが、残念ながら一朝一夕では自由は取り戻せない。チベットに関心を持つ人たちはダラムサラ以外に住むチベット人に、もっと目を向ける必要があるかもしれない。

 ダラムサラ以外に目を向けるべきと言った舌の根も乾いていないが、次回はダラムサラで見た、ある家族について語ろう。

コラムニスト
太田 秀雄
1971年福岡に生まれる。地元筑紫丘高校を卒業後、九州大学で生物学を専攻する。コンピュータプログラマを生業とする傍ら、いまだに学究心が捨てきれず大学に戻ろうと画策している。2008年3月のチベット騒乱を機にチベット支援に積極的に関わるようになり、国内外のチベット支援者や亡命チベット人達と広く交友関係を持つ。チベット支援をしているものの、別段中国の全てに否定的というわけではなく、とくに『三国志』や中華料理は大好きである。尊敬する人物は、白洲次郎、ホーキング博士、コルベ神父。
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