狼の見たチベット

第06回

減りゆくチベットの森林量

 吾輩は狼である。前回は、吾輩がチベットの広大さに感嘆したところで終わってしまった。

 生意気なパンダと別れたあと、本当にチベットはそんなに広いのだろうかという疑問が吾輩の頭に浮かんできた。
 笹を食うしか能がない奴の話を鵜呑みにして良いのかという気持ちもあったし、チベット三州全てがチベットだというのはチベット人の言い分であって、中国人には中国人の言い分もあるだろうとも思った。 そこで、吾輩はパンダが言うチベットの境界線をぐるりと駆け巡ってみることにした。吾輩の健脚をもってしてもかなりの時間を要する旅だった。

 古来、人間の国と国の境はどのように定められてきたか。
 近代に白人の植民地として分割されたアフリカでは緯度や経度でまっすぐな国境が引かれている。
 だが、それ以外の場所では歴史的に、人が超えにくい場所が国境となってきた。
 大きな河であったり、山脈であったり、広大な森であったり、目に見える明確な境が国境となっていた。
 お前さんたちの日本も、海という大きな自然の境によって他の国と分けられているだろう?
 そこで、吾輩は、そこが中国とチベットの間の歴史的境界に相応しい場所だったのか見極めるべく駆け巡ったのだった。
 結論から言えば、まさしく、それらの場所は国境に相応しい地形だった。チベット人の主張するチベット三州とは、チベット高原そのものだった。
 チベット高原は標高3500m〜5500m、多くの場所がお前さんたちの国で一番高い富士山よりも高い場所に広がる広大な平原である。
 高い山に登ったことがある者ならばわかることだが、チベット高原ほどの高度の場所は、気圧が低い、空気が薄い。平地とは全く環境が違う場所なのだ。
 そこに何世代にも渡って定住していたものは、地上で暮らすものと、体のつくりすらかわってくる。
 チベットは、高地に適応した人々の国なのだ。
 これほど明確な国境は、まずないだろう。

 ところで、吾輩がチベット高原を駆け巡って一つ気になったことがあった。所々荒れた土地が目立ったことだった。吾輩が聞いていたチベットは、もっと緑豊かな土地のはずだった。
 好奇心に負けた吾輩は何頭の餌を見逃してやり代わりに話を聞いた。それによれば、中国の支配下になってからのチベットでは緑が年々大幅に失われていっているのだそうだ。
 中国による侵攻前1949年には22万平方キロメートルあったチベット全土の森林が、乱伐により1985年には13万4千平方キロメートルにまで減少したそうだ。

チベットの森林量の移り変わり

▲チベットの森林量の移り変わり

 森が減少することで、そこで生活する多くの草食動物や鳥や虫が餌を失い減少していく。
 草食動物や鳥が減少すれば、それを餌にする吾輩たち肉食動物も減少していく。
 今、チベットでは多数の動物が絶滅の危機に瀕していると学者どもの調査でも告げられている。
 IUCN(国際自然保護連合)のレッドリスト(絶滅危惧種リスト)にも

  • ジャイアントパンダ
  • レッドパンダ(レッサーパンダ)
  • 灰色狼
  • キンシコウ
  • ユキヒョウ
  • フタコブラクダ(野生種)
  • オグロヅル
  • オオカワセミ

 等など、書いていたらきりがなくなる程の種類の動物や鳥がチベットで絶滅しかけていると記載されている。
 吾輩の言葉を、お前さんたちに伝える役目をしている男は、怠惰にも絶滅危惧種の名前を並べるだけ今回のコラムの原稿を埋め尽くせて楽などと言っておったので一噛みして現実に引き戻してやり、お前さんたちがイメージしやすそうな代表的な名前だけを記載させた。吾輩たち灰色狼の名前よりも先にパンダの名前を書いたことで、もう一噛みしたことは、読者諸君は言うまでもなく察しているだろう。
 なお、オグロヅルという鳥はチベットではチョンゾンと呼ばれ神鳥として扱われていた鳥だそうだ。

 森の減少の影響は動物の減少だけではおさまらない。
 森の恵みは、目に見える木陰や、果実だけではない。大地の下に張り巡らせた根もまた大きな役割を自然界で担っている。保水と呼ばれる役割だ。
 雨が降ったとき、森の土壌はその水を蓄える能力を持っている。根が水を吸い上げるだけでなく、土をしっかりとつかんでいるので、土が水を蓄えることができるのだ。
 森林が減少すれば水は大地に蓄えられることなく一気に下流へと流れてしまう。そのため河の下流では洪水が起こりやすくなる。
 又、土砂が根にしっかりつかまれていなければ、大雨がふれば土砂が流出する。それは土砂災害の原因になるだけでなく、河の水を泥でにごらせることになる。

 チベットの河が荒れるということは、どういうことだろうか。
 チベット高原からは、実に多くの河が流れ出している。インダス川、メコン川、揚子江、黄河等々、アジアの代表的な河川の多くがその源流をチベット高原に発している。
 すなわち、チベット高原の森林が失われ水量調整が破壊されるということは、インドで、東南アジアで、そして中国で洪水を引き起こす原因となりうるということだ。
 そして、チベットの森林減少の影響は、お前さんたちにも全く無関係ではない。森林の消失は、さっきも言ったように土を大地に繋ぎとめる力を失うことに繋がる。そのため多くの砂が宙に舞い、近年日本に舞い振る黄砂が増加している一因にもなっているのだ。

 チベットでの無闇な森の伐採は、森を、動物たちを、大地を、水を、そして空気すら傷つけている。
 次回は、森の伐採を通してだけでなく、もっと直接的に大地や水が蝕まれている話をしよう。

コラムニスト
太田 秀雄
1971年福岡に生まれる。地元筑紫丘高校を卒業後、九州大学で生物学を専攻する。コンピュータプログラマを生業とする傍ら、いまだに学究心が捨てきれず大学に戻ろうと画策している。2008年3月のチベット騒乱を機にチベット支援に積極的に関わるようになり、国内外のチベット支援者や亡命チベット人達と広く交友関係を持つ。チベット支援をしているものの、別段中国の全てに否定的というわけではなく、とくに『三国志』や中華料理は大好きである。尊敬する人物は、白洲次郎、ホーキング博士、コルベ神父。
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