キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第13回

農村教育から民主主義へ

ニューヨーク五番街を行進する女性参政権のデモ参加者(1917年)ニューヨーク五番街を行進する女性参政権のデモ参加者(1917年)
ハーヴェイ宛てのホワイトハウスからの招待状ハーヴェイ宛てのホワイトハウスからの招待状

 台湾先住民、ツォウ族のエリート青年・矢多一生の心を捉えたアメリカの農村教師、マリア・ターナー・ハーヴェイ(1869-1952)の成功物語。ところが日本にハーヴェイを紹介した教育社会学者である田制佐重の著作『ハーベー先生』はまことに謎めいた、不思議な本なのである。

 伝記のような体裁でありながら、ハーヴェイの経歴紹介がない。更に、原著者のエヴェリン・デューイ(1889-1965)については一言もなく、この書物のエッセンスともいえる序文の賛辞、「ポーターの親や子供たちへ。彼らの熱意と隣人精神が一つのコミュニティーを作り上げたのだ」を省略、さらに序文中のポイントである「ポーターの地域社会は、民主主義に関心を持つすべての人への必須のメッセージを持っている」を完全に無視しているのだ。それでいて、田園の荒廃と農村の疲弊、さらに農村教育についての持論を延々と展開し、「ハーベー先生は、一村の指導者として、さしもに荒み果てたポーター村に文化的並に経済的更生の福音をもたらしたうるはしくも気高き天使である」と、的外れの賛辞を添えて序文に代えている。出版のルールというか、倫理に反していると言われても仕方ないだろう。後述するが、田制はエヴェリン・デューイを知らないはずがないのである。取り分け重要なことは、ハーヴェイの活躍話は、原著者が最も強調したい教育論を展開するための重要な道具立てではあるが、米大統領府ホワイトハウスから招待状が届くまでに高名になったハーヴェイの伝記ではないということである。

 原著のタイトルは『ニュー・スクールズ・フォー・オールド』、直訳すれば『年配者のための新しい学校(の取り組み)』だ。本は十二の章で構成されており、やや堅苦しい言葉が続くのを承知で紹介すると、第一章「農村生活運動」、第二章「今日の全米の小さな赤い校舎の農村学校」、第三章「いかにしてポーター地区は学校の問題解決策を見出したか」、第四章「新しいポーターの物語」、第五章「地域共同体の成長」、第六章「学校における社会生活」、第七章「倫理と社会の学校」、第八章「学校とポーター地区の経済的利益」、第九章「学校綱領と組織」、第十章「農業と教科課程」、第十一章「教科課程における読解力と作文力の位置づけ」、そして終章が「民主主義のための教育」となっている。田制が訳出したのはこのうちの第三章と第四章の一部なのである。

 アメリカの資本主義が高度な発展段階に達し、資本の投下先を海外に求めていた輝かしい時期の1910年、この年の統計によると全米の小学校入学児童数は約1100万人だったが、毎日通学しているのは750万人に過ぎなかった。しかも都市部の平均出席率79%に対し、農村部では68%と大きな格差があった。さらに1915年の統計では、全米には一つの教室で学年の異なる児童・生徒が一緒に学ぶ複式学級の農村校は20万校もあったが、このうち5万校が「コーンベルト」と呼ばれる中西部の穀倉地帯に集中し、ハーヴェイが教えたポーター校があったミズーリ州には1万校がひしめいていた。密集した集落が少ないという地理的な制約もあるが、社会的にも経済的にも発展し続ける当時のアメリカにおいて、これほど多くの農村の子どもたちが、都市部の子どもたちと平等な教育機会を得られない危機的な格差が放置されて人生を切り開く知恵や知識を与えられないことが、アメリカの健全な民主主義の発展を阻害している──これこそがエヴェリン・デューイの問題意識であり、最終章に「民主主義のための教育」を据えた理由である。

 ハーヴェイは農村に入り込んでその地域の一員として暮らし、暮らしの中に教育の素材を見つけ出してカリキュラムを編成し、それによって子どもたちの知的好奇心、社会や世界に対する関心を高め、さらに地域の大人たちまで巻き込んで共同体意識を育てた。彼女の実践は、米国農村の学校問題、地域社会の課題を解決するための、全米のどの地域でも通用するバイブルとなり、ハーヴェイは農村教育のパイオニアとなった。「(地域を巻き込んで)民主主義を育てることに目覚めた教育が、今まさに始まったのである」とエヴェリン・デューイは高らかに書き記している。タイトルを「年配者のための新しい学校(の取り組み)」としたのはこのことによる。

ニューヨークのブラウス工場労働者たちのストライキ(1909年)ニューヨークのブラウス工場労働者たちのストライキ(1909年)

 では、彼女は一体どのような人物なのか。エヴェリン・デューイはニューヨークの高校、大学で学んだ教育改革家、社会活動家である。大学在学中に大学教授の父親とともに女性参政権運動に参加して闘士となり、1909年にはニューヨークのブラウス製造工場の女性労働者のストライキ支援に積極的に取り組んだこともよく知られている。そして全く新しい教育手法に挑戦している米国各地の学校を調査し、その結果を1915年に『明日の学校(Schools of To-Morrow)』というタイトルで父親と連名で出版した。この書も「民主主義において学校が果たす役割」がテーマであり、最終章のタイトルは「民主主義と教育」。この親子は「民主主義にふさわしい法の下の平等を実現するための教育」を模索していたのだ。そしてエヴェリンはハーヴェイの実践に「これだ !!」という啓示をうけたのである。

日本の学校教育にも大きな影響を与えた哲学者ジョン・デューイ日本の学校教育にも大きな影響を与えた哲学者ジョン・デューイ

 実は、ハーヴェイはポーター校での活動延長に当たって、ニューヨークの「教育実験局」の助力を得ている。地元教育委員会との当初の3年間の契約期限を延長して教え続けることができるよう、同局が財政支援を決定。これを受けて20代半ばのエヴェリンは1916年からポーター郡の郡都カークスヴィルに移り住み調査を開始し、度々ポーター校に足を運んだ。彼女の父親も足しげく同校を訪問している。

 この父親こそ、アメリカ発祥の哲学「プラグマティズム(実践主義あるは実用主義と訳されることが多い)」の提唱者であり、その哲学を教育研究に応用して世界にその名をとどろかせたジョン・デューイ(1859-1952)その人である。彼はドイツ流の観念論を排し「役に立つ知識こそ真の知識である」との立場をとる。物理学に実験室があるように、教育学の研究にも実験室を設けるべきだとの考えから、シカゴ大学の哲学教授に就任すると「実験学校」を併設、学校に作業場や農園などを設けて、子どもたちが体験・経験から学び知識を獲得する学習法や社会見学などを導入した。ニョーヨークの「教育実験局」とは、このようなデューイの思想から生まれた部署なのである。したがって、デューイ親子は、ハーヴェイにとって願ってもない援軍となり、また親子にとって教育の実践に精通し農村を知り尽くしたハーヴェイが率いるポーター校は、自分たちの教育理論を裏付ける偉大な “実験学校” となったのである。

エヴェリンと父親のデューイとの共著 “Schools of To-Morrow”エヴェリンと父親のデューイとの共著 “Schools of To-Morrow”

 ジョン・デューイは妻と共に1919(大正8)年2月に日本を訪問、5週間にわたって滞在し、その間、デューイは東京帝国大学哲学科で数次にわたる講演を行った。大正デモクラシーの熱気が高まっていた時期である。演題は「現在の哲学の位置──哲学の改造の諸問題」で、主に大学教官や高等師範学校の教員と学生などが受講した。講演内容は翌年『哲学の改造』として出版されている。

 講演会の開催には教育者でデューイと学問上の交流があった新渡戸稲造、「日米関係員会」を設立して交流事業を展開した経済界の重鎮・渋沢栄一、「民本主義」を掲げて大正デモクラシー運動をけん引した東京帝大教授で思想家の吉野作造、米国留学中にデューイの知遇を得た日本興業銀行副総裁の小野栄二郎らが尽力したという。講演内容は、西洋哲学の歴史を概観してドイツ哲学の国家主義的性格を批判した上で、プラグマティズムの考え方や民主主義について語るものだった。後にデューイの翻訳に取り組む早稲田大学グループの一人である田制佐重も当然聴講したと思われる。講演の評判だが、日本はドイツを範として憲法を制定し、天皇を主権者と位置付けていただけに、講演の聴衆は回を追うごとに減って行ったという。

大正デモクラシーをけん引した思想家・吉野作造大正デモクラシーをけん引した思想家・吉野作造

 デューイ夫妻は日本から中華民国に回り8月に帰国し、その年、デューイは「日本のリベラリズム」という一文を発表している。この中で東京帝国大学の状況に言及し「東京帝国大学は知的保守主義者のホームである、としばしば思われている。その大学における学生グループが「デモクラシー(民主主義)」と呼ばれる雑誌を発行し、ある教授たちは(吉野作造が創設した)「黎明会れいめいかい」の活動メンバーであり、黎明会はデモクラシーを公開講演により宣伝している」と説明し、大正デモクラシーの盛り上がりぶりを伝えている。

 では、こうした流れの中にいてデューイの著作を研究していた田制佐重が、なぜ著作の『ハーベー先生』から民主主義の香りを消し去ったのだろうか。エヴェリン・デューイは、両親が日本と中華民国から自分に宛てた手紙を『チャイナと日本からの手紙』と題して1920年1月に刊行しており、エヴェリンのことを知らないはずはないのだ。その謎を解く手がかりは刊行年にある。

 田制が『ハーベー先生』を刊行したのは1926(大正15)年2月。この年の12月に大正天皇が亡くなり、年号は昭和へと変わった。米騒動や昭和恐慌を経て刊行前年の1925年には治安維持法が公布されている。日本は暗い時代へと突き進み、民主主義という言葉を口にすることもはばかられる時代になっていたのだ。田制はハーヴェイの紹介はしたいが、民主主義精神に触れるわけにはいかないと、忌避したのかもしれない。とはいえ、書中に「民主主義」をにおわせる言葉がなくても、聡明な矢多一生は彼のバイブルとなった『ハーベー先生』を熟読することによって、直観的に民主主義の本質を捉えていたのだろうと思う。

 日本が太平洋戦争に敗れ、台湾に蒋介石政権が逃げて来たころ、高一生と中国風に改名した矢多は突然、「先住民による山地の自治構想」を提唱し、先住民のリーダーたちに呼びかけた。なぜ、矢多が突然こんなことを言いだしたのか、また、「自治」という民主主義の根幹思想にいつ目覚めたのかは謎である。筆者の結論は「『ハーベー先生』の精神に感化されて長年心中に温め続け、日本統治が終わって時至れりと考えたのだろう」である。ただ、矢多は蒋介石政権、中国国民党の何たるかを知らなかった。そのことが大きな悲劇をもたらすことになる。

 さて、ハーヴェイという人物の活動を通じて民主主義の精神を矢多一生に鼓舞したエヴェリン・デューイだが、写真は伝わっていない。彼女にとって偉大な巨人である父親の存在はあまりに重すぎたのかもしれない。ニューヨークタイムズ紙は彼女の結婚の記事でクラヴィル・M・スミスに名前変えたことを伝え「哲学者の娘」と紹介。同じく同紙が彼女の死を報じた時も「ジョン・デューイ博士の娘」との表現で、どちらの記事の見出しにもエヴェリンの名はなかった。

 

【主要参考文献】
◎ “Schools of To-Morrow” John Dewey and Evelyn Dewey(E.P. Dutton & Company)
◎ “Evaluation of the Community School Concept” Marlow Ediger(The Educational Resources Center)
◎ “Out of the Shadows: Redeeming the Contributions of Evelyn Dewey to Education and Social Justice” Jeroen Staring and Jerry Aldridge(Case Studies Journal)
◎『日本の民主思想が実現したJ.デューイの東京帝国大学講演』笠松幸一
◎『学校と社会』ジョン・デューイ、宮原誠一訳(岩波文庫)
◎『民主主義と教育』ジョン・デューイ、松野安男訳(岩波文庫)

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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