シベリア・イルクーツク生活日記

第12回

ロシアの広さを知る《シベリア鉄道の旅》その2

マゴチャの謎

 マゴチャのような町を目にした時、失礼と知りつつ、どうしても思い浮かんでしまうのが、人々はどうしてこのような土地で暮らそうと思ったのか、という疑問だ。
 もちろん、すべてのことには相対性があり、世界全体でみれば、シベリアそのものが、「どうしてそんな地域に敢えて住むのか?」と思われがちな場所なのかもしれないが、一口にシベリアといっても、その面積はたいへん広いため、実際の条件はさまざまだ。イルクーツクなどは、シベリアの中では比較的冬が温かく、豪雪豪雨や強風も稀で、年間を通した日照時間も長いため、住みやすい町とされている。
 一方、条件の過酷さで知られるのは、ここマゴチャや、内陸部の永久凍土の上にあるヤクーツクで、こういった土地の出身の者は、同じシベリア人の中でも、特別にタフな人たちとして一目置かれている。
 もっとも、住みやすさは「慣れ」の問題でもあるので、頭がキリキリするほど冬が寒いというサハ共和国出身のロシア人にとっては、イルクーツクの冬は「なまぬるすぎて気持ち悪く、耐えられない」と感じたりもするそうだ。それで「住んでいられない」とサハ共和国に帰ってしまったりするという。
 だがそれにしても、「地獄」とも比喩されるのには、それ相当の理由があるはずだ。
 それなのに、なぜマゴチャなのか。

住む人にとってのマゴチャ

 その後、車内でマゴチャからさらに北へと向かった地域の出身だという、ある乗客と親しくなった。彼の話では、軍隊で必要な人員を勤務地に派遣する仕事についており、待遇も悪くないということだった。そして、自然の豊かな場所に客を泊められる広さの家があるので、ぜひ遊びに来たらいい、と強く誘われた。
 私は彼の誘いに一つのヒントがあるように思った。
 チタやマゴチャの環境の過酷さが有名なのは、徴兵制によってここに送り込まれた者たちがそう語り伝えているからだが、彼らの多くは、厳しい訓練に堪えつつ、帰郷を心待ちにした者たちだ。つまり、言い伝えられているマゴチャの過酷さとは、マゴチャ以外から強制的に連れて来られた人たちにとっての過酷さなのだ。だが、ザバイカル地方には空軍の大きな基地などがあるので、この地にそれなりの愛着をもちつつ、キャリアを着々と積んでいる人も少なくはない。
 そもそも、町そのものが鉄道の建設を機に発展してきたこともあり、鉄道の維持という任務がある限り、ここには一定の雇用があり続けるだろう。先祖の代から、代々ここに住み続けてきた人はもちろん、ここで自ら選んだ職業人生を歩んでいる人々などにとっても、恐らくマゴチャという町はまったく別の意味をもっているのだ。それは、一見無機質で暮らすのが大変そうに見える、ロシアの他の多くの町にも言えることなのだろう。

アムールスカヤ州のエロフェイ・パブロヴィチ駅。町の名はハバロフスクと同じく、アムール川沿いを探検した探検家、エロフェイ・パブロヴィチ・ハバロフに因んで名づけられた。アムールスカヤ州のエロフェイ・パブロヴィチ駅。町の名はハバロフスクと同じく、アムール川沿いを探検した探検家、エロフェイ・パブロヴィチ・ハバロフに因んで名づけられた。
現在は稀になった、レーニン像の残るベロゴルスク駅現在は稀になった、レーニン像の残るベロゴルスク駅

現代版、シベリア送り

 もっとも、シベリアに強制的に人が送り込まれる、という伝統は、なかなか絶えることがないようだ。今年の6月のニュースでも、バイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の新区間の建設に刑務所の囚人が駆り出される決定が下されたとのことだった。
 シベリアの鉄道建設といえば、スターリン体制下で強制労働収容所によって担われ、過酷な労働によって多くの人命が奪われたことで知られるが、今回の建設はあくまで受刑者の矯正が目的で、適正な環境のもとで給料もきちんと支払われるという。もともとは、新型コロナの流行によって、かつては中央アジア諸国から大量に流入していた労働者が減少したことによる、深刻な労働力不足を補うための決定で、すでに軍の部隊も建設のために投入されているらしい。
 そこまでしても鉄道の建設や近代化を、という悲願が、かなり切実であろうことは、ロシアに暮らしているとよくわかる。土地が広大であるわりに鉄道の路線が少ない上、きちんと整備された道路も少なく、長距離高速道路もロシア西部に偏っている。さすがに長距離バスの路線はたくさんあるが、日本のように機能の多いサービスエリアはまだまだ希少で、バスの乗り心地も決して快適とはいえない(本連載第4回「農村訪問記」参照)。
 石炭や鉄鉱石などの天然資源の輸送、および欧州と東アジアを結ぶ貨物輸送をめぐっても、シベリア鉄道のポテンシャルはまだまだ高いとみられており、ロシアでは国を挙げての輸送能力増強計画が実施されてきた。日本でも近年、鉄道を利用した日本―ヨーロッパ間の貨物輸送は、海上輸送、航空輸送に続く第3の輸送手段として、ふたたび民間企業の期待を集めているという。依然としてコストの高さなどの問題点はあり、海上輸送の優位性を崩すのはまだまだ難しいようだが、輸送にかかる時間は海上より2、3倍短縮できるため、条件のふさわしい貨物を効率的に集めることさえできれば、少なからぬメリットが期待できるのだそうだ。

国境の町、ハバロフスク

 二泊三日という長い旅程を経て、いよいよ列車が今回の移動の終点、ハバロフスクに着いた。ハバロフスクは、街並みこそヨーロッパ風だが、アムール川とウスリー島を挟んだ対岸はもう中国であり、エリアとしては完全に東アジアだ。もっとも、新型コロナ流行による国境封鎖のせいで、中国人観光客の姿はまったく見られなかった。

ハバロフスクから見たアムール川。ウスリー島と中国を望むハバロフスクから見たアムール川。ウスリー島と中国を望む
ホテル・インツーリストの古い看板。「我々はあなた方を待っています」と書いてあるホテル・インツーリストの古い看板。「我々はあなた方を待っています」と書いてある
ハバロフスク市内の伝統的な建物ハバロフスク市内の伝統的な建物
同上同上
沿岸地区で保存されている1855年製の大砲沿岸地区で保存されている1855年製の大砲
街のあちこちに見られた、戦勝記念日を祝う看板街のあちこちに見られた、戦勝記念日を祝う看板
ロシア鉄道のオフィスがある建物にも戦勝記念日のポスターがロシア鉄道のオフィスがある建物にも戦勝記念日のポスターが
対独戦勝記念日のパレード対独戦勝記念日のパレード
同上同上
同上同上
対独戦勝記念日のパレード対独戦勝記念日のパレード
同上同上
同上同上
同上同上

 また、滞在期間がロシアの対独戦勝記念日の5月9日を挟んでいたため、図らずも大規模で愛国的なパレードや航空ショーを目にすることになり、このドイツとは遠く離れた極東の町も、まぎれもなくスターリンの指揮の下で一丸となって戦った国の一部であったことを、強く印象づけられた。
 そもそも1916年に全線開通したシベリア鉄道は、フランス資本の資金援助を受けて建設されたもので、その支払いを自国の財政削減によって賄おうとしたことが、ロシア革命の火種になったとされている。つまり、シベリア鉄道はロシアの歴史を語る上で欠かすことのできない存在であり、その発展は、戦争の動向や、沿線にある都市の運命を大きく左右してきた。だからこそ、掴み切れぬほど長く、文化的、地理的に多様な土地を通過してはいても、人間の背骨のように、古今、ロシアの東西を象徴的、かつ強力につなげている。

波乱の後の静寂

 そもそも、国境に住み、その土地の人口の減少を食い止めることは、望む望まぬに関わらず、そのこと自体が愛国的な行為だ。自国の領土であることを印象付けるための立派な建物や街並みの維持も、領土の安定を助けることになる。
 6年ぶりに訪れたハバロフスクは、主要な通りが美しく整備され、人通りの多い場所でもゴミなどは目立たなかった。たまたま出会った街の人が、財政赤字の削減に努め、それなりの成果を上げたものの、昨年、過去の犯罪が暴かれ、辞職に追いやられたフルガル前知事の時代を懐かしがっていたのが印象に残った。
 シベリアや極東地方にいると、中央との距離感が生む、ある種の緩さを感じることも多々ある。それは良く言えば自由であり、悪く言えば法意識や管理の欠如だ。だが、今のハバロフスクは昨年、知事の辞職に伴う反政権デモが一か月半以上も続いたとは信じられないほど静かで秩序立って見えた。モスクワーハバロフスク間を走ったシベリア鉄道の旅は、結局のところ、国土の広さだけでなく、モスクワの力が及ぶ範囲の広さをも実感する旅となったのだった。

堂々と建つハバロフスクの郵便局堂々と建つハバロフスクの郵便局
コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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