シベリア・イルクーツク生活日記

第07回

多種多様な住宅事情

自由な旅行の出発点

 よく知られているように、かつて、ロシア旅行は高嶺の花だった。ロシア旅行を専門とする旅行社を通じて、長い時間をかけて全日程の宿泊場所と交通手段を予約し、その日程通りに移動、宿泊することが原則とされた。ホテルも外国人観光客を受け入れる唯一の旅行社であるインツーリストの系列に限られていて、気ままに行き先を変えることも難しかった。

イルクーツクの中心部にある、元インツーリスト系列のホテル「アンガラ」イルクーツクの中心部にある、元インツーリスト系列のホテル「アンガラ」

 だがそんな閉鎖的なシステムや垣根の高さも、ソ連崩壊から時がたつにつれて徐々に変わった。ビザの規制の緩和とルーブルの下落により、ロシア旅行がだいぶ身近なものとなった2015年、私は思い切ってハバロフスクという街に2週間ほど滞在した。北京から鉄道とアムール川を越えるフェリーによって移動し、思わぬトラブルにも見舞われながらたどりついた初ロシアだった。

 通常のホテルに2週間も滞在すると、ずいぶんとお金がかかるので、滞在先は民泊と決めていた。その頃のロシアでは一般の民家を民泊に改装して宿泊させることが流行っていたようで、私が宿泊した民泊も、少しでも宿泊可能な部屋数を増やそうと、隣や向かいの部屋などで改修工事が急ピッチで進められていた。その後、営業をめぐる規制が厳しくなったようだが、今でも専用のサイトで検索するといくつもヒットする。

 私が泊まったワンルームの部屋には、個人用のキッチンやトイレ、シャワーがあったが、とても小さく簡素なもので、明らかに民泊用に新たに設置されたものだった。当時は気づかなかったが、今思えば一つの廊下の両側に複数の部屋が並び、廊下の終わりに共同の洗濯機などが置かれたその構造は、ソ連時代の共同住宅、コミュナルカを想起させる。その後、イルクーツクやペテルブルグなどでもよく似た構造の部屋を見かけたが、その多くは今でもトイレやキッチンが共同のままのようだ。

ロシアのコミュナルカ、中国の筒子楼

 ソ連も新中国も、家族の構成に応じて住宅が供給されたのは同じだが、同時に戦災や都市への人口の集中による住宅不足にも見舞われた。ロシアの大都市では、かつて富裕層が一家で住んだマンションのユニットを、複数の世帯で分け合うことも多く、そういった住宅はコミュナルカと呼ばれた。

かつてモスクワ在住時の文豪ブルガーコフが住んだコミュナルカの共用スペース。現在は博物館として公開されている。かつてモスクワ在住時の文豪ブルガーコフが住んだコミュナルカの共用スペース。現在は博物館として公開されている。

 中国でも上海などの旧租界では、戦前に建てられた洋館などでコミュナルカとよく似た居住スタイルがあったが、簡素なアパートも新たに多数建てられ、筒子楼と呼ばれた。私も北京でこの筒子楼に住む友人を訪ねたことがあるが、広いがごく簡単な造りの洗い場で何人もの住人が顔や食器を洗っていたのが印象的だった。トイレや浴室も共同だった。つねに廊下を人が行き交い賑やかではあったが、コンクリートのたたきの壁や廊下の暗さが殺風景な印象を残した。北京のマンションは冬、暖房がよく効いていることが多いが、その筒子楼は暖房が十分ではなかったのも、寒々とした感じをいっそう強めていた。

 筒子楼はもともと、学生や単身者が一時的に住むために建てられたものだったが、住宅不足の深刻化により、家族で定住する者も増え、雑然とした空間に変わっていったのだという。だが、新生ロシアになってコミュナルカが減っていったように、中国でも筒子楼は近年、次第に淘汰されている。

引き継がれる格差

 公有住宅全般についていえば、中国でも1990年代に私有化が進められ、公有住宅の一部が個人に払い下げられたりしたが、ロシアもそれは同様だったようで、当時の話を聞くと、「今と比べると部屋がコペイカ(二束三文)で買えた」と言う。誇張はあるだろうが、運よく当時、手元に現金や売り払うことのできる古い家屋やアパートがあった人は、条件の良い部屋を買ったり、移り住んだりしたようだ。

 もちろん、街の中心部や人気の高い居住エリアに家があった人は、高く家を売ることができるので、ふたたび中心部の家を買いやすい。例えば、両親や祖父母の少なくともどちらかがソ連時代に高官や国営企業の幹部などだった場合は、親の世代で条件の良い住居を得ている可能性が高く、コネなどもきくため、それを受け継いだ子供たちの暮らしも楽になりやすい。

 つまり、家庭単位で見れば、ソ連時代の職業上の地位や生活条件によって、新生ロシアでの生活条件もある程度決まってくるのは、「幹部の子息は有利」とされる中国と同様だ。中心部の条件の良い学校には往々にして、暮らし向きの豊かな家庭の子供が集まっているので、そこで生まれた同窓生のネットワーク、つまりコネによって、将来何かがあったときに助け合える、というのも中国と似ている。もちろん、似た状況はどの国にでもあるだろうが、都市部と農村部の生活条件の差の大きさも鑑みると、ロシアも中国に引けをとらぬほど、「生まれ」による暮らしの格差は大きな社会なのでは、と感ぜざるを得ない。 

幻の世界遺産

 伝統的な街並みのもたらす美しい景観で知られるイルクーツクだが、じつはこの趣ある街並みの内側にも、大きな格差がある。北京などでもよく見られるように、経済力の差が大きな人々が隣り合わせに住んでいるだけでなく、伝統的な家屋の質もピンキリだからだ。

 そもそも、建物が古いということは、維持に手間がかかるということでもある。建物の老朽化に伴って修理やリフォームの必要が生じる上、修理の中には、個々のユニットが個別に行うだけでは補いきれないものもある。例えば、水回りについては、隣同士のユニットが同時に点検や修理を行わないと水漏れや壁のシミなどの被害が生じやすい。

 1,2階建ての木造家屋にいたっては、維持の難度はさらに高いことだろう。そのためイルクーツクでは街の中心部から近い場所でも、かなり荒廃したり傾いたりした建物が見つかる。

街の中心部にも、このように地面の下にめり込んだ家が多数ある。街の中心部にも、このように地面の下にめり込んだ家が多数ある。

 あるエピソードによれば、じつは30年ほど前まで、イルクーツクには古い街並みがわりとまとまった形で残っていたため、その街並みが世界遺産への登録を目指した暫定リストに入っていたが、その後、火事や自主的な取り壊しの多さによって認定をあきらめざるを得なくなったという。ある火事では、歴史ある家屋が十数棟、一気に燃えたそうだ。旧ソ連の時代までイルクーツク最古の木造建築が残っていたという場所にも、欧米資本の大型ホテルが建てられた。

消えゆく伝統建築

 それでも、新しい建物が美しければまだいいのだが、正直なところ、納得できるレベルのものは少ないのが現実だ。それならば古いものを生かすしかない。すべての古い木造家屋を保護するのは無理でも、せめて、石造りやレンガ造りの建物ぐらいは安易に壊すのでなく、修理や復元を行えればいいのだが、なかなかそうもいかないらしい。

 実際、惜しまれる取り壊しは、筆者もこちらに住み始めてから何度も目にした。再開発をしたくても住み着いたまま離れない住民がいる場合、彼らを追い出すためにわざと火を放つこともあるという。

 筆者も夜、散歩をしている時に、そう遠くない場所にある建物の火事を目にしたことがある。火事の原因は不明だが、周囲がすでに取り壊しを終えた空き地であったため、わざと着火した可能性はぬぐえない。燃えたのは古い木造家屋で、築100年はゆうに超えているようだった。

焼けた建物の二階部分(筆者が目撃した火事の起きた家とは別)焼けた建物の二階部分(筆者が目撃した火事の起きた家とは別)

 じつは現在のイルクーツクには半ば廃墟と化した、「本当に人が住めるのだろうか」と思ってしまうレベルの建物が無数にあるのだが、そういう場所に実際に人が住んでいることはじつに多い。

イルクーツクの古い道に沿って残る家イルクーツクの古い道に沿って残る家

 建物こそボロボロでも、窓辺にきれいなカーテンや鉢植えがあればまだホッとするが、筆者の知人の中には、料金不払いによって水も電気も止められた部屋で、ろうそくの明かりを頼りに暮らしている人もいる。冬は零下が当たり前のイルクーツクで、違法だからといって外に追い出せば、彼らが凍え死んでしまうのは明らかなので、その建物が彼らの唯一の住居である場合、法律的にも人道的にも、住民を追い出すことは難しいらしい。

 だが、そういう光熱費も十分に払えない住民が、建物の維持に必要かつ十分な修理やリフォームを行えるはずはない。そのために老朽化がさらに進んだ建物で、倒壊や故意または事故による火事が起こり、築100年以上の建物が、櫛の歯が欠けるように減っていっているのが、今のイルクーツクなのだ。

ソ連時代の遺産

 このように急速に消えつつある建物の多くは、帝政またはソ連初期の木造建築だが、ソ連時代の集合住宅にも興味をもつことができれば、イルクーツクの街の多層性や奥行きをより強く感じることができる。

 ソ連時代の建物は、建設された当時の指導者の名前によって分類されることが多い。
 代表的なのは、スターリンカ、フルシチョカ、ブレジネフカだ。その名の通り、スターリンの時代に建てられたスターリンカは、どっしりとしていて、重々しい装飾に当時の審美眼が反映されていて興味深い。丈夫なことによって人気が高いのも、スターリンカだ。

重厚感のあるスターリンカ重厚感のあるスターリンカ

 反対に、フルシチョフの時代に建てられたフルシチョカやブレジネフの時代のブレジネフカは、いかにも経済性を考慮した感じの建物が多い。

フルシチョフカの建物フルシチョフカの建物
ブレジネフカの建物。四角いパネルを貼り合わせたような壁の建物も多い。ブレジネフカの建物。四角いパネルを貼り合わせたような壁の建物も多い。

 中国でも、集合住宅はレンガのような形の板子楼から、タワー型の塔楼、日照を考慮して中央から放射状に棟が突き出たタイプのマンションなどに進化していった。レンガ造りの板子楼の中には、どこかしっとりとした味わいのあるものもあり、北京の三里屯で古い板子楼がいくつも壊された時は、かなり残念に思ったものだ。

 中国でも安普請で手抜き工事によるマンションが、「豆腐のかす」のように柔らかい建物だとされて問題になったが、悲しいことにこちらのニュースでも、建てられて間もないのに、壁が崩れたり、ペンキがはげ落ちたりした建物が取り上げられていたりする。

 もちろん今はロシアにも、新興の富裕層向けの、お金をたっぷりかけた高級な住宅やマンションがあるものの、庶民向けの住居としては、戦中・戦後から時代が下るにつれて安普請の建物が増えているのは、住まいの安全の面からも、街並みの美しさの面からも残念なことだ。

 だが、こういった安普請の建物が住宅問題を早急に解決したために、ソ連の町には資本主義国によくみられるようなスラム街が生まれなかったともいわれており、一概に悪い面ばかりでもないようだ。

 いずれにせよ、帝政の時代の建物とソ連時代の建物、そして現政権になってから建てられた新しいマンションが同居しているイルクーツクの多層性、そのダイナミックさとおおらかさは、この街の魅力の一つだといえるだろう。

帝政時代の建物と現政権になってから建てられた建物帝政時代の建物と現政権になってから建てられた建物
コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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