シベリア・イルクーツク生活日記

第5回

近くて遠い外国

イルクーツクっ子がかつて収集した外国産のチューインガムの包装紙イルクーツクっ子がかつて収集した外国産のチューインガムの包装紙

ロシア、SNS事情

 世の中、SNSに関する話題はショートムービーの投稿・閲覧アプリ、TikTokのアメリカでの行方に集まっている。ロシアでもこのアプリは若年層を中心に人気が高く、しばしば生き生きとしたジョークを表現してシェアするのに活用されている。短い笑話、アネクドートを好む人が減ったとされる昨今だが、その伝統の名残が動画の世界で蘇っているかのようだ。
 TwitterやFacebook、Line、WhatsAppなど、アジアや世界で人気のあるSNSが軒並み利用を禁止され、自国発のアプリであるWeChatも当局のあからさまな監視のもとにある中国と比べれば、ロシアの状況はずっと自由かもしれない。だがそれでも、独自の基準による制限はあり、ビジネス特化型のSNSであるLinkedInは個人情報の保護に関するロシアの法律に違反しているとして、完全にアクセス不能であり、LineやWeChatも新規でアカウントを作ることはできない。
 その代わり、若い人を中心にロシア版Facebookとも呼ばれるVK(VKontakte)が長らく人気を博してきたが、最近は、メッセージングアプリのTelegramも、セキュリティの高いアプリとして注目されつつあるようだ。
 多少の制限による不便さはあるにせよ、国際的に影響力のあるSNSの普及によって、ロシアの地方都市に住んでいても、世界中の人たちと交流できることはありがたい。新型コロナウイルスの蔓延によって、「行きたくても行けない国」ばかりとなってしまった今は、なおさらだ。

ガムやジーンズが大人気

ソ連のアフガニスタン侵攻の影響で、集団ボイコットが起きた1980年のモスクワオリンピックの紀念タオルソ連のアフガニスタン侵攻の影響で、集団ボイコットが起きた1980年のモスクワオリンピックの紀念タオル

 振り返れば、1980年代に入る前のソビエトでは、ごく普通の暮らしをしている人々にとって、外国はいろんな意味で遠い存在だった。
 それが大きく変わったのはどうも、1980年代後半らしい。日本でも、1980年代といえば、海外がぐっと身近になり、個人旅行やバックパッカーが増え、若者の間でも海外旅行が身近になった時期だが、こちらに住んでいると、ペレストロイカ期のソビエトも、多くの人々が海外に強い好奇心の目を向けた時代だったことが伝わってくる。
 さすがに一般の人々が自由に海外旅行をするのはまだ難しかったものの、海外からさまざまな理由で訪れた外国人と交流したり、自ら熱心に外国語などを習得して海外に行くチャンスをつかんだりといった動きがあり、それはシベリアの主要都市であるイルクーツクでも同様だった。当時は、英語やフランス語などだけでなく、スペイン語熱も高かったなどと聞くと、スペイン語を習得すれば就職に有利などと言われた日本の1990年代初頭を思い出し、親近感を覚える。
 当時は多くの若者たちが海外の文化や情報の吸収に熱心で、チューインガムやジーンズから、海外のレコードの海賊版などまで、可能な限り集めたという。とくにアメリカ製のジーンズは大人気で、誰かが一着入手すると、それを友達同士で着回したりしたそうだ。

イルクーツクっ子がかつて収集した外国産のチューインガムの包装紙イルクーツクっ子がかつて収集した外国産のチューインガムの包装紙

夢の国だったアメリカ

 比べてみれば、中国の1980年代も、都市部の若者を中心に、多くの人々が海外の文化を熱心に吸収していった時代だった。例えば現代美術の分野ではこの時期、多くのアーティストが欧米の現代美術の手法や価値観などを創作に取り入れていった。のちに「85新潮」と呼ばれるようになる芸術運動で、しばしば伝説のように語られ、21世紀に入ってからも大型の回顧展が開かれたりしている。

2007年に北京のユーレンス現代美術センターで開かれた「85新潮:中国で初めての現代美術運動」展の会場2007年に北京のユーレンス現代美術センターで開かれた「85新潮:中国で初めての現代美術運動」展の会場

 ロックやフォークなどに関しても、パイオニア的な存在である崔健や劉元などが登場し、知名度や影響力を獲得していった。
 一般の人々の外国熱もかなり高かったようだ。「楽には行けない」時代だけに、よけい憧れが募ったのだろう。労働者としてアメリカに渡った青年の味わった苦労を描いた王小帥監督の『二弟』、アメリカに渡る夢を手放さない学生たちの奮闘を描いた陳可辛監督の『アメリカンドリーム・イン・チャイナ』等を見ると、アメリカはどんなに苦労してもぜひ行ってみたい、夢の国だったことがひしひしと伝わってくる。
 個人の自己実現が優先された結果、夫婦関係にひびがはいる様子を描いた『北京人在紐約(ニューヨークの北京人)』などのドラマや、中国に残された配偶者たちの交流を描いた『過把癊』などの映画もリアリティがあって興味深い。当時、アメリカに渡ることは、中国の多くの人々にとって、ときに既存の家族への配慮にも優先されるほどの夢であり、自己実現のシンボルだったのだ。

触れられそうで触れられない外国

 この状況は、1980年代以降のソ連でも似たようなものだった。1980年公開の映画『モスクワは涙を信じない』のウラジミール・メニショフ監督が2000年に制作した『Зависть богов(神々の羨望)』はこのようなあらすじだ。舞台は1983年のモスクワ。国営テレビ局で働く、典型的なソビエト的教養を具えた女性、ソーニャは、たまたまフランスから訪れたロシア系フランス人、アンドレに見初められ、激しい恋に落ちる。だが当時、東西のヨーロッパを隔てる鉄の壁は厚く、夫がいることもあり、ソーニャはアンドレの帰国に合わせてフランスに渡ることはできない。やがてアンドレはジャーナリストとして半年ほどモスクワに滞在することに成功するが、当時発生した大韓航空機撃墜事件について、深みのある内容の報道をしてしまったがために、ソ連当局ににらまれ、国外退去を強いられる。
 正直なところ、二人が恋に落ちる経緯はリアリティに欠けているように思われるのだが、当時は外国人との恋愛自体が、おとぎ話の世界のものだったはずだ。アンドレの人柄に軽薄さが感じられたり、最後に失意のどん底に落ちたソーニャが鉄道のレールで自殺を試みたりする点は、ロシア文学の古典、『アンナ・カレーニナ』を彷彿とさせる。だがその一方で、当時の事情をじかに知るメニショフ監督は、謎めいた点の多い大韓航空機墜落事件はもちろん、アフガニスタン戦争や東西の冷戦の激化など、1980年代前半の社会情勢も忠実に反映しようとしている。当時は、国家間は冷戦が激化した状態にあった。だが人間同士の交流は血の通ったものとなりえたし、むしろ強く求められていたことが伝わってくる。

立ちはだかる国境の壁

 だが、実際に海外に行くとなると、やはりそう簡単に行くとは限らなかった。そのじれったさが悲哀感に満ちたユーモアの形で伝わってくるのが、日本でも『不思議惑星キン・ザ・ザ』の監督としてある程度知名度のあるゲオルギー・ダネリヤ監督が1990年に制作したコメディ映画、『Паспорт(パスポート)』だ。
 舞台はダネリヤ監督の出身地でもあるグルジア。当時、海外への渡航を考えていたユダヤ系ソ連人にとって、もっとも現実的で理想的な移住先はイスラエルだった。ビザが簡単に得られ、すぐに国籍も与えられるからだ。だが、いざ移住を決定しても、家族全員が行きたがる、または行けるとは限らなかった。家族がイスラエルへの移住を決める中、グルジアに残ることを選んだタクシー運転手のメラブは、国境の向こうでシャンパンを買ってこようというたわいない動機から、移住を予定していた弟のパスポートで出国審査をくぐってしまう。パスポートの写真は自分とそっくりだったからだ。だが、いざシャンパンを買って家族のもとに戻ろうとしても、遮られてしまい、結局、弟のパスポートでイスラエルに渡る羽目になる。
 さまざまなドタバタ騒ぎの末、現地で「ソ連のスパイ」扱いされてしまったメラブは、合法的な帰国をあきらめて違法な国境越えを試みる。だが、やっとのことで国境を越えた矢先に、思わぬ悲劇と直面する。ストーリーの最後を忘れがたくする強烈なスパイスは、いかに当時、国境の管理が厳しかったかという現実だ。

現実との落差

 グルジアに限らず、当時はソ連全土からたいへん多くのユダヤ系ソ連人がイスラエルに渡ったが、実際には皆が皆、移住先の生活に馴染めるとは限らなかったらしい。実際、筆者の直接、間接の知人にも、その後第三国に渡った人が2人、帰国した人が2人いる。
 人々が海外をめぐる理想と現実の間で揺れていた様子からは、中国と日本との関係を思い起こさずにはいられない。移民をめぐる違法行為が横行したり、国際結婚が急増したり、といった経緯も似ている。
 それと同時に、世の中や人々の意識の変化の激しさに息をのまざるを得ないのも確かだ。21世紀以降、海外への移動がかなり自由になったのにも関わらず、経済制裁が長引き、ルーブルの価値が下がり続けるなかで、人々の旧西側諸国へのあこがれは薄れ、むしろ反発や裏切られたという感情を抱く人も増えている。それでも、新型コロナの世界的な流行が始まるまでは、海外旅行などでの体験が溝を埋めているように見えたが、国境が封鎖されると、それも難しくなった。
 とくにアメリカ文化の人気の凋落ぶりは明らかで、かつてはよく街角で見かけたというアメリカ風デザインのTシャツなどは、今はもう見かけない。かつての人気の名残は、ラジオでしばしばアメリカ出身のミュージシャンのヒットソングが流れていることや、アメリカ系ファーストフード店の賑わいぶりぐらいだ。

ペレストロイカ期に描かれた広告画ペレストロイカ期に描かれた広告画
経済制裁の開始後にオープンしたイルクーツクのアメリカ系チェーン店経済制裁の開始後にオープンしたイルクーツクのアメリカ系チェーン店

 先日、ロシアが先手を切って実用化を宣言した新型コロナワクチンについても、WHOがデータが集まる前から評価不能だと公表するなど、否定的な見方が先行していて、まるでふたたび鉄の壁が設けられそうな勢いだ。安全性の確認が必要なのは当然だが、今はいつにも増して国境を越えた協力が必要な時代であることを考慮するべきだろう。
 そう考えた時、先日こちらのテレビ局も放映した、アレクサンドル・ミッタ監督、栗原小巻ほか主演の日ソ合作映画『未来への伝言』は暗示的だ。同作では、小児マヒに罹った子供たちを救うため、母親たちが1960年代当時の日本では入手不可能だったソ連の生ワクチンの輸入のために奔走する。
 映画のタイトルにもなっている「未来への伝言」を、今の私たちはきちんと受け止められているだろうか。きちんと受け止め、次世代へと伝えられることを願うばかりだ。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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