はじまりはウランウデ行き
2017年の秋、鉄道でブリヤート共和国の首都、ウランウデを訪ねた時のことは忘れ難い。黄色味を帯びたライトが点る、夜のプラットホームに立ち、初のシベリア鉄道の旅に胸をときめかせた。アジア系のブリヤート族が多く住むことで知られるウランウデは、シベリア鉄道とモンゴルを縦断する鉄道の主要駅だ。
ウランウデは、ロシアの伝統的な家屋やロシア正教の教会と、ブリヤート族の料理のレストランや彼らの信仰を集めるチベット仏教の寺院が無理なく共存しており、いかにもヨーロッパ文化からアジアの文化への窓口という感じだった。
その一方で、この街の一番の名物は「残りを作る余裕がなかった」ために頭部だけとなってしまった、レーニンの巨大な像でもある。共産主義時代に建てられた噴水や公園がさびれたまま放っておかれ、質素で静かなソ連式団地に日本の昭和を思い出すなど、歴史の残像をあちこちに秘めた、印象深い町だった。
帰りの列車も夜行だったが、乗り場を間違えていたために乗り遅れてしまい、薄暗い喫茶店や宿で翌日の列車までの時間をつぶしたのも、苦くも懐かしい思い出だ。
三等寝台も静か
個人的に寝台列車は好きで、中国でもさんざん乗ったが、中国とロシアの寝台列車は似ている点も多いが、差も少なくない。まず、ロシアの鉄道は広軌であるため、寝台の車両も大きい。車内販売も中国の列車より少なく、全体的に静かだ。音楽や車内放送が流れてきたことも、筆者の経験内では、ない。
中国の寝台が一部の列車を除き、軟卧と硬卧の2種類しかないのと同じように、ロシアの寝台も、特等や一等のトイレ、シャワー付き2人用個室は数がごく限られており、主な選択肢は二等(クペ)と三等(プラッツカルトヌィ)だ。二等は二段ベッドが二つ並ぶ4人用の個室だが、三等は個室ではなく、6人が寝られる開放的なユニットだという点も、中国の寝台と似ている。ただ、ロシアの三等寝台は、6人用といっても、三段ベッド2つではなく、片側に2つの二段ベッドが向かい合い、もう片方にも窓辺に沿って上下の二段ベッドがある、という配置なので、わりとゆったりしている。難点は、共用スペースのトイレと洗面所が別々ではないことで、顔や手やコップを洗いたいだけでも、毎回トイレに入らなければならないのは、中国の列車に慣れていると、とても不便に感じる。
感心したのは、窓辺に沿ったベッドは、昼間はテーブルを挟んで2つの椅子が向かい合うように変形できること。また、シーツと一緒に清潔そうなタオルも提供されることだった。反対に多くの乗客の悪評を買っているのは、近年、三等寝台での飲酒と喫煙が禁止されたことだ。もっとも、停車駅のホームではこっそり、また地域によっては合法的にアルコールを販売していたりするため、車内で車掌に気づかれないように飲んでいる人は少なくなかった。もっとも、飲む場合もこっそり飲むため、酔って騒ぐ人がいないのは、車内を静かにする効果を生んでいた。
ウラルを越え、モスクワへ
2回目に乗ったシベリア鉄道は、2019年の夏のイルクーツクからモスクワへと向かう区間だった。
この時は、3日半、つまり足かけ4日の旅となった。ロシアの大きさを直感的に感じ取ことができるシベリア鉄道への乗車は、外国人にとってはちょっとしたイベントだ。もっとも、沿線に住むロシアの人にとっては、うんざりするけど慣れるしかない日常的な行為であり、乗り疲れて「もうこりごりだ」と感じたとしても、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の例え通り、1、2か月も経つと、「仕方ないな、また鉄道で行こう」となるようだ。
この区間の鉄道は、シベリアからウラルを越えてヨーロッパ側のロシアへと移動していくときの風景の変化も面白いが、歴史があり、知名度もある町に列車が次々と停まる楽しさも捨てがたい。
クラスノヤルスク、ノヴォシビルスク、オムスク、エカテリンブルグ、キーロフ、ニジニノヴゴロド、ペトゥシキそしてモスクワ。たとえ具体的なイメージは乏しくても、歴史や文学作品などの中で、あるいは日常生活の中で、「聞いたことがある」地名がいくつもあり、駅舎がユニークだったり、美しかったり、歴史を反映していたりする駅も少なくなかった。しかも時おり、エニセイ川やドン川やヴォルガ川などの知名度の高い川を渡るので、ロシアを移動しているという実感がいやおうなく高まった。
五月でも雪と氷のバイカル湖
今年の5月上旬、今度は所用でシベリア鉄道の東半分、つまりイルクーツクからハバロフスクまでを寝台車で移動するチャンスに恵まれた。
冷戦期、外国人が乗車できるシベリア鉄道の区間はモスクワからハバロフスクまでだったので、当時の基準からすれば、これでシベリア鉄道を走破したことになる。
この区間を移動する楽しさは、いかにもシベリアらしい、車窓の風景だ。知名度の高い地名こそ少ないが、バイカル湖を筆頭に、湖や森や草原、そして変化の多い川の風景が続き、シベリアの大地を移動しているという感慨がわく。
イルクーツクを出発すると、出発後しばらく経ってから、かなり長い時間、バイカル湖の沿岸の風景が続いた。最初は青い水面が広がっていたのが、やがて氷となり、さらに氷の上の雪の白さまで目立ち始めると、シベリアの気候の多様性や変化の激しさがありありと身に染みて感じられる。
バイカル湖を離れても、しばらくはシベリアらしい、タイガと川の織りなす美しい風景が続くが、「ジャガイモさえ育たない」ほどの気候の厳しさで知られるザバイカル地方ネルチンスクを過ぎ、チタに列車が到着する頃には、空の色は曇りがちになった。
やがてマゴチャに到着すると、空はどんよりと曇り、もう5月なのに、地上にはたくさんの雪が残っていた。ザバイカル地方の東の端にあり、冗談を交えて「天国のソチ、地獄のマゴチャ」と並び称されているマゴチャは、1月の平均気温がマイナス30度前後である一方、夏は30度を越えることもあるという過酷な気候で知られる。そもそもは、現在の第二シベリア鉄道の一部であるアムール鉄道の駅の建設によって発展した都市で、ソ連時代に豊富な天然資源の存在が注目されたものの、金鉱以外は発掘が進まないまま現在に至っているという。
駅のホームで震えながら、私はシベリアのあらゆる意味での過酷さを象徴したような町、マゴチャの印象を肺腑に留めようとするかのように、大きく深呼吸した。
(次回に続く)