北京の胡同から

第43回

高級品路線に希望 桃花塢の年画

南の桃花塢、北の楊柳青

 中国は春節を迎えたばかり。そんなわけで今回は、かつて年越しに欠かせない縁起物だった「年画」について取り上げてみたい。
 昨年12月、蘇州を訪れる機会があった。民芸ファンにとって、蘇州と聞いて思い浮かぶのは桃花塢。かつて北の楊柳青と並んで「南桃北柳」と称された、「年画」の二大産地の一つだ。
「年画」とは、中国の民間版画の一種。春節になると、各家の門や壁などに、厄除けや吉祥を祈るために貼られた。桃花塢の年画は宋代に始まり、明代に全国へと名を広めた。清代には最盛期を迎え、長崎を通じて江戸時代の日本にも渡り、浮世絵版画に影響を与えたといわれている。
 そんな長く親しみ深い年画の歴史を支えた桃花塢は、年画好きの筆者にとって、一度は訪れてみたい場所だった。だが実際に蘇州の市街地にある桃花塢大街を訪れてみても、年画を売っている店は一軒しか見つからない。すぐ北の蘇州桃花塢年画博物館を訪ねてみても、門は閉ざされていた。その後、電話で問い合わせてみると、一般客には開放していないとのこと。ぜひ取材したい、と念入りに頼むと、短時間ならOKということで、何とか許可をもらえ、ほっとした。

プロ作家は10人未満

 少し見つけるのに苦労した挙句、やっと年画博物館のある敷地の門をくぐると、そこは「樸園」という美しい庭園つき屋敷跡だった。1932年に上海の卵商人汪氏によって造営されたもので、伝統的な庭園の中に、池や橋、中国や西洋の風格が混ざった建物が散在している。蘇州の文化財の中ではもっとも新しい部類に入るらしいが、すでに蘇州の代表的な庭園を見慣れた目にも、それはとても潤いのある美しい眺めに映った。すぐ近くの路地が、再開発の渦中にあって、やや埃っぽくなっていただけに、よけい別世界に入った感があった。

「樸園」内の風景

◀「樸園」内の風景(各画像クリックで拡大)

 お目当ての年画博物館は、その一角の、モダンな建物の中にあった。入口で迎えてくれたのは、当博物館の年画制作室副主任を務める喬蘭蓉さん。彼女によれば、博物館が設立されたのは2005年。正式なオープンは2006年で、同年6月に、桃花塢木版年画は国の第一期の無形文化財に指定されており、開館はそのプロセスと足並みを揃えたことになる。

桃花塢年画博物館内のアトリエの風景

▲桃花塢年画博物館内のアトリエの風景

アトリエの作業台

▲アトリエの作業台

年画制作室の副主任を務める喬蘭蓉さん

◀年画制作室の副主任を務める喬蘭蓉さん

 中に入ってみると、そこは博物館というよりアトリエや工房に近く、テーブルの上には年画制作用のさまざまな道具が並んでいた。制作の現場が生で見られるのは興味深いが、人影はまばらだ。聞くと、現在ここで作っている作家は4人のみ。もっとも、現在活躍している桃花塢年画の作家は、そもそも全員合わせても10人未満だとのこと。最盛期の清代には、年間百万枚を超える生産枚数を誇ったといわれる桃花塢年画だけに、その落差にかなりの驚きを覚えた。

二流絵師のアルバイト

 同じ年画でも、山東省の楊家埠や、河北省の武強などでは、制作は農閑期に農家で行われるのが主流だ。だが、桃花塢の年画は、経済や文化の発達した都市で興り、発展したことが大きな特徴。そのため愛好者の多くも、都市に住む文化人たちだった。「蘇州は物質的に豊かだったからこそ、精神的な要求も高かった」と喬さん。「文人や才子、つまり文化的修養のある人が多かった場所ゆえに、作品も細かい点にこだわった品が多かったのです」。

都市の生活を描いた桃花塢の年画

▲都市の生活を描いた桃花塢の年画

富貴を願った縁起物の年画

◀富貴を願った縁起物の年画

 描かれたジャンルは、縁起物、美人画、風景、民俗、草花、戯曲など。雅趣のあるものが多く、かつては伝統画の画師で、一流には達しないレベルの者たちが、稿料かせぎのために下絵を描いたという。
 基本的に分業スタイルで、制作には絵師、彫り師、摺り師の少なくとも3人が必要だったのは日本の浮世絵と同じ。だが日本の浮世絵については、北斎や写楽など、下絵を描いた浮世絵師がその名を残しているが、中国の年画については、相応する知名度の作家はいない。落款のある年画が少ない理由を、喬蘭蓉さんは「版元の力が強く、絵師の名よりは店の号を入れたがったからではないか」と推測していた。

菓子折りの包みにも

 文化の爛熟した都、蘇州では、年画の用途もいろいろだった。かつては贈り物として年画を贈り合うことも多かったという。また、尼寺などの観音像にも年画を用いた。面白いのは、ゲームにも彩色年画が使われていたことだ。「彩選格(または彩格選)」と呼ばれる、いわば昇進ゲームで、サイコロの目の数の大きさで遊び手の官位の大きさが決まったことから、「昇官図」とも呼ばれたらしい。
 他業種とのコラボも盛んで、点心屋の菓子折りの包みや、有名な蘇繍(蘇州の刺繍)の絵柄の下絵にも、桃花塢の木版画は活躍した。
 残念なのは、太平天国の乱の末年に、清軍が蘇州を包囲攻撃すると、蘇州の年画産業は大きな打撃を受け、その後衰退の一途をたどったこと。1950年代には、年画社を立ち上げ、新たな創意を加えて復興に努める動きもあったが、人々の生活スタイルの変化や、近代的な印刷技術の普及には逆らえなかった。市場が縮小しただけでなく、社会的な地位も低下し、やがて消滅の危機に直面したのだった。

コレクション品として再スタート

 そんな中、現在の桃花塢年画が選んでいるのは、「芸術品、コレクション品」路線だ。
 現在、年画博物館では、職人や作家に美術大学の卒業生を積極的に採用。制作の際は、下絵から摺り上がりまでのすべての工程を一人で手掛けさせている。材料も、全国でトップクラスだ。紙は紅星ブランドの高級宣紙で、顔料も書画用のものとしては最高レベルのものを使用している。
 色刷りの版木に至っては、12色から16色分という多彩さ。河北省武強の年画が最多でも4枚の色板で7種類の色を摺るだけなのと比べると、いかにカラフルであるかが分かる。摺りの段階におけるもう一つの大きな特色は、ぼかしの技術が駆使されていること。「ぼかしを入れる際は、紙の状態や空気の湿度なども考慮しなくてはなりません。これは、桃花塢の材料と技術があって初めてできることです」と、自身も第一線の作家として活躍中の喬さんは語る。

細かな彫刻が施された年画の版木

▲細かな彫刻が施された年画の版木

繊細なぼかしの入った年画

▲繊細なぼかしの入った年画

 だが、「質が第一」である分、値段も高くならざるを得ない。博物館で販売しているものは、最高で9800元(約14万5000円)。桃花塢の年画を代表する図柄、「一団和気」の小型の年画も、480元(約7100円)だ(2012年12月時点)。「コレクションの価値は書画と同じくらい高く、保存も数百年は可能なのですが、やはり価格が高いせいか、購入する人は多くありません」と喬さん。

桃花塢年画の代表的な図柄、「一団和気」

▲桃花塢年画の代表的な図柄、「一団和気」

 最後に喬さんは、自らのオリジナル作品を見せてくれた。伝統的なモチーフを斬新で趣ある構図で配置している。保護そのものに苦戦を強いられる中、敢えて伝統に新たな息を吹き込もうとするチャレンジ精神に、筆者は桃花塢年画の明るい未来を見た気がした。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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