シベリア・イルクーツク生活日記

第3回

映画で振り返る戦争

空中でのみ勝利を記念

 もともと一年の前半は休日、祝日が多いロシアだが、5月も例外ではなく、5月1日のメーデー(春と労働の祝日)、5月9日の戦勝記念日が強い存在感を保っている。
 戦勝記念日とは、第二次世界大戦における対独戦の勝利を祝う日のことで、ヨーロッパは5月8日としているが、ロシアは停戦時のモスクワ夏時間に合わせ、1日遅い5月9日が公式の記念日だ。毎年この日、ロシアの各地でパレードや花火の打ち上げなどが行われてきた。
 今年は終戦75周年ということもあり、モスクワを筆頭に各地で大々的なイベントが企画され、巷でも「今度は大々的に祝われるだろう」という期待感が溢れていた。だが結果的には、新型コロナの感染者が急増中だったこともあり、地上のパレードはすべて延期となった。祝日のお祝いは空中だけで行われ、イルクーツクでも航空ショーや花火の打ち上げのみが行われた。

街のあちこちに掲げられた、戦勝記念日を祝うポスター街のあちこちに掲げられた、戦勝記念日を祝うポスター
街のあちこちに掲げられた、戦勝記念日を祝うポスター同上
戦勝記念日のパレードで掲げるための肖像画の制作を行う会社の広告。戦勝記念日には、かつて戦争に参加した近親者の肖像画を掲げてパレードをする習慣がある。戦勝記念日のパレードで掲げるための肖像画の制作を行う会社の広告。戦勝記念日には、かつて戦争に参加した近親者の肖像画を掲げてパレードをする習慣がある。
戦勝記念日にSNS上で祝いの言葉に使われた画像。 「戦勝記念日おめでとう!生きましょう!」と書かれている戦勝記念日にSNS上で祝いの言葉に使われた画像。 「戦勝記念日おめでとう!生きましょう!」と書かれている

 正直なところ、当初は「なぜすべての公式イベントを中止にしないのか」という疑問が頭に浮かんだ。メディアによる宣伝のおかげで、すでに記念日そのものの存在感は十分感じられていたし、対独戦に功績があった人々を追悼するだけなら、個人でもできる。対独戦の体験者が今はすべて高齢者であり、つまりは新型コロナウイルスに感染した場合、症状が悪化しやすい年齢層であることを考えれば、空のイベントであれ、実施には危険がともなうようにみえた。花火や飛行機が見えやすい場所に人が集中しかねないからだ。
 この疑問に対し、私の周辺では「空中で祝うだけならいいだろう」という意見が強かった。大戦を経験した生存者がすでに希少で、今後もさらに減り続けることを考えれば、すべてのイベントを自粛するのは酷だ、というのだ。確かに、今残っている戦争体験者たちが来年もこの日を迎えられるとは限らない。為政者にとっても国民の一体感を高める絶好の機会であり、すべてを自粛するわけにはいかなかったのだろう。

延々と流れる戦没者リスト

 実際、イベントに向けた助走はかなり早くから始まっていた。あるテレビ局では、通常の番組を放映する傍ら、対独戦で戦死した軍人たちの名前をキリル文字のアルファベット順に延々とテロップで流し続けた。

著名な政治討論番組でも、テロップで戦死者を追悼著名な政治討論番組でも、テロップで戦死者を追悼

 対独戦の犠牲者については諸説あるが、一般的に当時のソ連は、民間人を含めて1660万人から2600万人におよぶ死者を出したと言われている。第二次世界大戦による日本人の死者が民間人を含めても310万人、中国でも1321万人とされているのと比べれば、その被害の規模の大きさは際立っている。そのため、この日が重んじられ、歴史を記憶に刻むべく、人々がいろいろと盛り上げようとするのは、理解できることだ。
 だが、現実のところは、こちらでも若者たちの戦争に対する関心の低下が話題になっている。18歳から27歳の成人男性を対象にした徴兵制も、いろいろな理由で免れる人が増え、期間も2年から1年に短縮された。
 もちろん、ロシアは今もさまざまな形で戦争や紛争と関わり続けている。とくに、まだ不安定なウクライナ東部の情勢は、毎日のようにテレビなどで取り上げられており、つねに関心の高い話題の一つだ。かつて兵役についた50歳未満の男性は、有事の際に招集される可能性があることもあり、ウクライナ問題は多くのロシア人にとって、決して他人ごとにはできないテーマとなっている。
 だがその一方で、第二次世界大戦については、終わってからもう75年が経っており、戦争を体験した人の数も減っている。ソ連時代、ひいてはペレストロイカさえ実体験としては知らない若者ばかり、という昨今、対独戦など遠い歴史上の出来事、と感じる若者が増えてしまうのも当然だ。だが、それに強く抗うかのように、ロシアのテレビで対独戦を扱った映画が流れる頻度は極めて高い。そもそもロシアには勝利という意味をもつ「パベーダ」という名のチャンネルが存在し、しょっちゅう大戦関係の映画などを流している。

ドラマティックに描かれる戦争

 この状況は、日中戦争を扱った映画をテレビで頻繁に流す中国の状況と、だいぶ似ているようにみえる。だがここで一言断っておくと、そもそもロシアのテレビチャンネルは、中国ほど「一辺倒」ではない。ある程度は機能している多党制のもとで、いろんな政治的主張をもつ国内のチャンネルや番組が存在しており、インターネットテレビをつなげば、ひと月1000円ほどの費用で、国内の多数のチャンネルだけでなく、BBCやCNN、そしてユーロニュースなども観ることができる。
 そんななか、レーニンやスターリンの評価もさまざまだが、ロシアのチャンネルでは、こと第二次世界大戦に関しては、スターリンは肯定的に扱われることがほとんどで、自国を勝利に導いた偉大な指導者だとされている。
 そして「戦勝記念日」が近づくと、ロシアの多くのテレビチャンネルは、いつにも増して頻繁に対独戦をテーマにした映画を流す。作品には定番、新作に限らず、ドイツの兵隊や将校の役をロシア人が演じているものも目立ち、この点は、中国に長期滞在した者としては、日中戦争をテーマにした中国映画を思い起こさずにはいられない。戦争映画をめぐる「偏りすぎ」や「やりすぎ」が視聴者、とくに若者の「食傷感」やテレビ離れを招いているようにみえるのも、やはりお隣の中国と少し似ている。
 では、どう「やりすぎ」ているのか。私も映画館やテレビなどでロシアの戦争映画の一部を見たが、正直なところ、出来はピンキリで、新作のなかには、戦闘シーンや、戦場でのロマンスなどに、素人の私がみても「ありえない」という設定のものもある。ある作品では、ドイツ軍の銃砲に追われ、必死に右往左往しながら逃げまくる戦車の中で妊婦が産気づき、最終的には何とか無事に赤ちゃんを産んでいた。「事実は小説より奇なり」という例があるのは分かっていても、多くの人の人生や生死を左右した実在の戦争を、ここまでドラマティックに脚色していいものなのか、という疑問が頭に浮かんだ。

受け継がれるべき傑作も

 もっとも前述のように、やはり実際にはまだ「戦場」と縁が切れていないお国柄からか、ロシア映画の戦闘シーンの脚色ぶりは、全般的に中国の対日戦を扱った映画ほど派手ではない。中には驚くほどリアリスティックで、きっとこんな感じだったのだ、と強く思わせる戦場の描写もある。ドイツ兵の描き方も、中国映画の日本兵よりは誇張やステレオタイプ化が少なく、人間的だ。
 それをしみじみと感じたのが、ヴャチェスラフ・チーホノフなどの名優が起用され、劇中音楽もたいへん人気が高い、タチアナ・リオズノワ監督の『春の十七の瞬間』だった。原作は人気作家、ユリアン・セミョーノフの同名小説だ。主人公は親衛隊の指揮官としてナチス内部で諜報活動を行ったソビエトのスパイだが、対独戦末期のナチス内部の人間模様もリアルに描かれているのが興味深い。
 一方、イルクーツクと縁のある作品としては、イルクーツク出身の映画監督、ミハイル・ロンムの『ありふれたファシズム 野獣たちのバラード』も、芸術家らしい立場から、普通の人々の生活にファシズムが根付いていく様子を風刺的に表現した傑作だ。
 映画はソ連に保存されていた記録フィルムを再構成したもので、すべての子供たちの将来を思いやる立場から綴られている。つぎはぎされたフィルムたちは、悲惨なユダヤ人への迫害だけでなく、一歩引いた位置から、当時の庶民の暮らしぶりやヨーロッパの情勢、文化環境なども映し出しており、ファシズムが決して特別なものではなく、誰にとっても身近なものとなり得たことが、臨場感とともに伝わってくる。監督自身が手掛けたナレーションも自然かつユーモアがあり、ナチス独特の人種論の無意味さを実例を挙げて立証したり、ヒトラーが指導者らしい身振りを懸命に身につけ、権威を確立していく過程を皮肉を込めて紹介したりしている。

映画の町、イルクーツク

 映画『一年の九日』などでも知られるミハイル・ロンムは、旧ソ連映画界の重鎮の一人だ。『一年の九日』は、シベリアの地方都市で行われた原子力実験で致死量の放射能を浴びてしまった物理学者たちの青春を鮮やかに描いており、各国の映画祭で高い評価を受けた。ロンムは教育者としても活躍し、アンドレイ・タルコルスキーやニキータ・ミハルコフなどの世界的な名監督を育てたことで知られている。
 余談になるが、そもそもイルクーツクは映画監督とゆかりが深い街であり、日本でも知名度が高いアレクサンドル・ソクーロフやソ連コメディー映画の第一人者、レオニード・ガイダイなどを生み出している。筆者の知人の中にも、「映画を撮ったことがある」と語る人は何人もいて、イルクーツクは映画を撮りたいという意欲が掻き立てられる街なのかもしれない、とつくづく感じる。そのまま歴史映画が撮れそうなほど、伝統的で美しい街並みが残るこの街に、映画にまつわる博物館や記念館がまだ建てられていないのが不思議に思われるほどだ。

ミハイル・ロンム(1901年―1971年)の生家があった建物。ミハイルが生まれた翌年、革命活動に関わっていた父がこの地を追われたため、一家で現在のブリヤート共和国に移住。そこで5歳までを過ごした後、モスクワへ移住。この建物は、ソ連時代は多世帯がキッチンやトイレを共用するコムナルカというスタイルだったミハイル・ロンム(1901年―1971年)の生家があった建物。ミハイルが生まれた翌年、革命活動に関わっていた父がこの地を追われたため、一家で現在のブリヤート共和国に移住。そこで5歳までを過ごした後、モスクワへ移住。この建物は、ソ連時代は多世帯がキッチンやトイレを共用するコムナルカというスタイルだった
ロンムの生家であることを示すプレートロンムの生家であることを示すプレート

 二度の大戦を自ら体験したロンム監督ほど傑出した成果を残すのは難しいとしても、第二次世界大戦をめぐる生々しい記憶がどんどん遠ざかっている今、監督の偉業を受け継ぎ、大量に蓄積された画像資料を整理、編集する作業は、今後も根気よく続けられるべきだろう。
 その一方で、インターネットを通じた映画配信がこれだけ発達した今、『ありふれたファシズム』のような完成度の高い作品が日本でほとんど知られていないことは、とても残念に感じる。
 世界中にあふれる「戦争をテーマとした作品」のなかから、世界の多くの人と共有する価値のある傑作を選び出し、改めてじっくりと分析しつつ、紹介する。そうすることで、より効果的に戦争の記憶を次世代に受け継がせる──難しいことだが、そういった努力を行うべき時期を、今は迎えているのかもしれない。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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