狼の見たチベット

第04回

銃殺された4人の若者

 吾輩は狼である。

 毎回、チベットの悲惨な現状ばかり語られても、読むほうもいたたまれないだろうから、今回はチベットの地理に関する話でもしようかと思っていた。
 ところが、悲報が飛び込んできたので、用意していた話は次回に回し、今回は急遽その悲報について語ろうと思う。

 先週、10月20日午前11時過ぎに4人のチベット人が、人民解放軍によって銃殺された。
 後ろ手に縛られ、後頭部を撃つという銃殺だった。
 殺されたのは、20代の若者ばかりだった。
 ラサの若者の間では、この死刑を若者に恐怖心を与えることを目的としたものとして反発の声が高まっている。
 去年にように命をかけて立ち上がらなければいけないという声も、随所であがっているようだ。

 4人は、昨年、2008年3月にチベット全土で起きた大規模な抗議活動に参加していたために中国当局に拘束されていた。
 4人の身元については、今現在情報が交錯しているが、わかってる限りでは以下の通りである。
 ロサン・ギャルツェン(Lobsang Gyaltsen)、ラサ出身の27歳の男性で、彼には奥さんと4歳の子供がいた。
 死刑前日、母親に面会したロサンは「子供のことをよろしく頼む。とにかくちゃんとした教育を受けさせてほしい。自分のことはもうあきらめてくれ。自分のことは心配しないでいい。大丈夫だ」と語ったそうだ。
 ローヤー(Loyak)、ラサ在住、ソル地区タシガン出身の25歳の男性。
 ペンキ(Penkyi)、サキャ県ドクラ地区ノルブ村出身の21歳の女性。
 4人目に関しては、まだ名前はわかっていない。

 さすがに中国当局も、「デモに参加したから死刑」とは言えなかったらしく、表向き彼らは放火犯として刑を宣告されている。
 ロサンとローヤーに関しては今年4月8日に、即時執行の死刑判決が出されていた。ペンキについては、4月21日の新華社の報道で2年の執行猶予期間付の死刑判決を受けたと報じられていた。この執行猶予は日本で言う執行猶予と違い、文字通り執行を2年待つだけのもので、その間は収監され2年後に刑を執行するというものだった。今回のペンキに対する死刑執行は、自分達が出した判決すら無視した1年半早い死刑の執行ということになる。
 ロサンとローヤーが死刑を宣告された裁判では、他の二人のチベット人男性テンジン・プンツォク(Tenzin Phuntsok)とカンツク(Kangtsuk)にも2年の執行猶予付きの死刑判決が出ている。

 これらの判決が出た直後、これらの裁判は被告側が何ら司法的な防衛手段を与えられなかったものだと世界各地の人権団体やチベット支援団体が抗議を行った。
 日本国内でも、前回紹介したジグデルの翻訳を行った「Students for a Free Tibet Japan」らのチベット支援団体が署名活動等を行い、この死刑の執行を取りやめ、公正に審議をやり直すよう中国当局に働きかけを行っていた。
 中国当局は、この裁判は公開で行われ弁護士もついていたと主張したが、その時期外国人記者はチベットから締め出されており、中国の主張の真偽を確認する手段はなかった。

 そもそも、彼らは何故拘束されていたのだろうか?
 事の発端は2007年の10月になる。
 アメリカ連邦議会は2007年の10月17日、ダライ・ラマ14世に対して最高の栄誉をたたえるゴールド・メダルを授与した。
 チベット独立を警戒する中国は当然猛反発したが、授与式にはブッシュ大統領や下院議長も出席し、ブッシュ氏や共和党幹部達が中国にチベットとの対話を相次いで呼びかけるなど、中国にとっては手痛い内容となった。
 各地のチベット亡命者達は、自分達の敬愛するダライラマへの栄誉を祝った。
 ここまでで終わっていれば、何の問題も起きはしなかった。

 ところでデプン寺という寺がラサにある。大きな寺だ。ダライラマ5世がポタラ宮に居を移すまで、歴代のダライラマの拠点だった。またその後も、若きダライラマが修行する場でもあり、最盛期には1万5000人の修行僧を擁したチベット最大の寺だった。
 中国の侵攻や文化大革命の中で、寺院の多くの建物が破壊され、多数の僧侶が殺された。生き残った僧侶の多くはインドに亡命し南インドのムンゴッドにあるチベット人居留地に寺を再建し現在では5000人の修行僧を抱えて活動している。
 日本にも広島市内に龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院というこの寺の別院(平たく言うと支店のようなもの)があり、チベット人の僧侶達が生活している。
 チベット本土の寺も、1980年以降に残った人々により建物の一部が復旧され細々と活動しているが、中国側の弾圧により修行僧は数百人に過ぎず、修行の場としてより観光地や巡礼地としての側面が強い。

 話しを戻すとラサの人々もダライラマがゴールドメダルを授与された話を伝え聞き、とても喜んだ。
 ラサのデプン寺の僧侶達も、この受賞を祝おうとした。それを知った中国の武装警察は寺院内に侵入し、祝いの文字を書こうとしていた僧侶の頭を殴打し阻止した。
 その後、実弾を装備した3000人の武装警官によって寺は包囲され、僧侶達は街に出ることを禁じられた。
 この騒動の折に、十数人の僧侶達が中国当局に拘束された。

 2008年3月10日、ラサのデプン寺の僧侶達は昨年の事件で拘束され、いまだ釈放されない仲間の僧侶の解放を求めてデモを行った。
 3月10日は、50年前に中国軍からダライラマを守るためにラサの市民達が蜂起した日でもあった。この50年前の事件については後日時間をとって詳しく語ろう。
 僧侶達は当初平和的にデモを行っていた。しかし中国当局は武力でこのデモを押さえ込もうとした。ラサの市民達は目の前で僧侶達が暴力を振るわれている姿を見て、僧侶達を助けようと武装警察と衝突した。この話はチベット各地に伝わり、チベット各地で多数のチベット人たちが抗議の声をあげた。そして、その全てが最終的に武装警察によって鎮圧された。
 この事件で、チベット亡命政府が氏名を確認できただけでも300人を超えるチベット人が武装警察に殺害され、また多数のチベット人が中国当局に連行された後、拘留先すら不明なままになっている。

 今回、銃殺された4人は、そうやって連行され拘束された多数のチベット人の中の4人だった。

 ◎TCHRD(チベット人権民主化センター)チベット騒乱の真実 日本語版

コラムニスト
太田 秀雄
1971年福岡に生まれる。地元筑紫丘高校を卒業後、九州大学で生物学を専攻する。コンピュータプログラマを生業とする傍ら、いまだに学究心が捨てきれず大学に戻ろうと画策している。2008年3月のチベット騒乱を機にチベット支援に積極的に関わるようになり、国内外のチベット支援者や亡命チベット人達と広く交友関係を持つ。チベット支援をしているものの、別段中国の全てに否定的というわけではなく、とくに『三国志』や中華料理は大好きである。尊敬する人物は、白洲次郎、ホーキング博士、コルベ神父。