シベリア・イルクーツク生活日記

第4回

農村訪問記

身近になったコロナウイルス

 だいぶ遅れてやってきた流行の波を受け、イルクーツク州では現在、新型コロナの感染者が急増している。現地の報道に基づけば、7月3日現在、イルクーツク州における累計感染者数は8260人で、死亡者数は115人。6月26日時点の累計では、感染者数は6635人で死亡者数は37人だったので、ここ数日で患者も死者も急増していることが分かる。イルクーツク州は日本の約2倍の面積をもつが、人口は日本の2パーセントにも満たないので、人口との比率でみると死亡者の割合は日本の5倍ほどだ。しかもこれはあくまで公表された統計に基づくもので、筆者のこちらでの直接、間接の知人、友人だけでも感染が判明している人が5人(うち重症者が1人、死亡者が1人)もいることを鑑みれば、体感的に実際の感染者数や死者数はもっと多いのではないか、というのが正直な印象だ。

 イルクーツク州では、主要な医療機関は州都イルクーツク市やブラーツク市などの都市に集中しており、都市部から離れた農村で集団感染が起きると対処するのはたいへんだ。実際、シベリア地方の小さな村落でクラスターが発生し、「村民の大半が感染してしまう」といった事態はすでに起きていると聞く。筆者が先日立ち寄ったジガロヴァ村にいたっては、筆者が村を去った翌日に感染者数の急増が報じられ、「もし、あと1日滞在していたら」と冷や汗をかくことになった。

 こういった大規模な感染やクラスターに関しては、自ら正確な情報を得るのは難しいので、すでに報道されている内容に基づくしかないが、少なくとも、新型コロナがイルクーツクの人々にとって、たいへん身近なウイルスとなってしまったことは確かだ。このような時期に憲法改正をめぐる国民投票が強行されたことに、当惑している有権者は少なくないことだろう。

ウルトラ「三密」のバス

 そんな状況で、筆者は先日、イルクーツク市から北へ350キロほど行ったところにある農村へと向かった。こんな時期に、感染者が多い都市部から医療設備が十分でない農村に行くなど、不謹慎な行為だと責められてもしかたないが、今回はワラビヨバ村に住む親戚の訪問という、私的かつやむにやまれぬ事情があってのことだった。

 今回の旅でまず印象に残ったのは、イルクーツクからバヤンダイと呼ばれる村までは、舗装された道をスムーズに進むことができたのだが、その後、道は悪くなり、カチュガ以降の120キロメートルは、細かな砂利の道だったことだった。イルクーツクからバヤンダイまでの道が舗装されているのも、バヤンダイがバイカル湖の主要な景勝地、オリホン島へと向かう際の分岐点となっているからで、そうでなければ、舗装道路はもっと早く終わっていたであろう。

延々と続く未舗装の道延々と続く未舗装の道

 やはりシベリアの大地は広い。小さな村々を結ぶ道のほとんどは舗装されていないのだ、という現実は、それまで大都市間や都市周辺の移動ばかり繰り返していた私には、ちょっとした衝撃だった。

 もちろん、砂利の道といっても、定期バスが頻繁に走っているだけあって、きちんと平らになるよう整備はされている。だが、いざ走行すると、たいへんな濃度の土ぼこりが上がるので、バスの窓を開けることはタブーだ。そのため未舗装の道を走る間、バスの中は文字通り、「密集、密接、密閉」の三密状態となった。ロシアの農村地帯での移動は基本的にどこも似たり寄ったりのはずだから、都市部から遠く離れた農村部といえども、感染が急速に広まる危険とはつねに隣り合わせなのだということが、実感をともなって理解できた。

 ちなみに、私の乗ったバスにはもう一つおまけがある。エアコンが壊れていたため、耐えがたいほどの蒸し暑い空気が漲っていたのだ。かくして、乗客たちは感染のみならず、熱射病の心配もしながら、6時間以上の道中をともに過ごすことになった。

コルホーズ遺跡

 もう一つ、移動中に忘れがたい印象を残したのが、沿道に並ぶ建物の多くが廃墟化していたことだ。コルホーズの閉鎖や経済の停滞が、集落から人が去っていく、大きなきっかけとなったという。実際、コルホーズ時代の牛舎や豚小屋の跡と思われる建物にもたびたび出会った。

コルホーズがあった頃の牛舎の跡コルホーズがあった頃の牛舎の跡
沿道で見かけた廃墟沿道で見かけた廃墟
廃墟の内部廃墟の内部

 ある村では、寂れた建物の横で、村の唯一の住民であるおじさんが、ひっそりと暮らしていた。おじさんが村に残る「最後の1人」となってから、もう十数年経つという。

 消滅の危機にあるくらいだから、ソ連時代に集団農場の出現によって発展した、比較的歴史の浅い村なのかと思いきや、村の歴史は300年以上で、かつてのシベリアの古都、イルクーツクにも引けを取らないそうだ。沿道では、このような村や集落が次々と現れたので、そのたび、村や建物の背景に興味が引かれた。

 意外かもしれないが、これらの廃墟には、建物の多くがもともとはほぼ木材だけで建てられているためか、崩れ落ちていくさまにも風霜を経た建物だからこその、独特の美しさがあり、その荒涼としたたたずまいには「もののあわれ」さえ誘われた。そこには、素朴なペンキの装飾を色褪せさせながら、人の生活の痕跡がゆったりと「土に還っていく」時に生まれる、途方もないおおらかさがあり、時間によって養われる大地の包容力に、私は畏敬の念さえ覚えた。

住民が去り、荒れるに任された家住民が去り、荒れるに任された家

ひっそりと再興を待つ教会

 もちろん、すべての建物がこのように寂れるに任されていたわけではない。必死に廃墟化に抗っている例もあった。例えば、ある村で立ち寄った、東方正教会の教会では、熱心な信徒によって、修復のための準備が進められていた。

道中、偶然見つけた教会。19世紀の建物で、国の文化財にも指定されている道中、偶然見つけた教会。19世紀の建物で、国の文化財にも指定されている

 ソ連時代、ソ連の領土内では多くの教会が破壊されたり、閉鎖を余儀なくされたりしたが、この教会もその例にもれず、建物の外郭だけを残し、中のイコンなどはすべて撤去された。もちろん、教会としての機能も失われ、建物は何と映画館やダンスホールとして利用されたという。中国でも毛沢東の時代、キリスト教の教会が閉鎖されたり、倉庫として用いられたりしたのと同じだ。

 近年やっと、教会として再整備されることになったが、内部を見る限り、一部のイコンや洗礼に使われる用具などはまだ片隅に置かれたままで、壁や天井の修復などにも時間がかかりそうだ。かつては建物の上部に吊るされていたという鐘も、まだ掛けることができないため、教会の外のやぐらに吊るされていた。

教会の内部、手前の容器は洗礼に使われる洗礼盤教会の内部、手前の容器は洗礼に使われる洗礼盤
教会の天井、修復を待つ状態教会の天井、修復を待つ状態
修復された教会内の祈祷用スペース修復された教会内の祈祷用スペース
もとは教会内部にあった鐘もとは教会内部にあった鐘
修復のために尽力する地元の信者の一人修復のために尽力する地元の信者の一人

 修復のための寄付金を募っている現地の信徒のおばさんたちによると、最大の問題は、いかんせん村人が減少していることもあり、十分な額の寄付金がなかなか集まらないことだという。

 もっとも、かりに今後、寄付が集まり、理想的な復元が行われたとしても、人口流出が激しい村でどのように教会を維持していくかは、難しい課題だろう。かつて中国の農村部を旅した際、信仰はある程度残っているのにも関わらず、歴史の古い道教や仏教のお寺が寂れるに任されているのをたびたび目にした。歴史的建築物として価値が高いのは明らかだったが、人口規模の小さな村などにおける宗教建築は、十分な数の住民や信者がいなければ結局のところ維持は難しい、ということを当時、しみじみと感じた。シベリアの農村の教会もいずれは、同様の問題に直面するのかもしれない。

森や川に寄り添う暮らし

 
 シベリアというと、多くの人が毛皮貿易のことを思い浮かべるだろうが、イルクーツク州では伝統的に牛や馬の放牧も盛んだ。沿道には高級バターの産地として有名なカチュグスキー地区があり、イルクーツク市からわりと近いウスチオルダには乗馬学校もある。

カチュグスキー地区の入り口カチュグスキー地区の入り口
牛の放牧風景牛の放牧風景
馬の放牧風景馬の放牧風景
路傍でも人より家畜の方がずっと多い路傍でも人より家畜の方がずっと多い

 もっともこの乗馬学校では現在、サラブレッドなどの馬に必要な栄養を補給するための資金が不足しているとのことで、ウェブサイトを通じて寄付を募っていた。やはり、数多くの高級馬を育て、維持するのはなかなか大変らしい。

 今回たどった道の大半はレナ川に沿って走っていた。全般的に風景はチベットの山南地区やモンゴルで目にしたものと似ていたが、森林の一部は削り取られたようになっていた。シベリアの森林は、生育に時間がかかる割に乱伐が深刻で、それに追い打ちをかけるように、今年は山火事の記録的な多さが問題となっている。バスの乗り換え地点となったジガロバ村の周辺の森でも、筆者が滞在した直後に山火事が発生し、ニュースとなった。

沿道の風景、全般的に赤土が目立つ沿道の風景、全般的に赤土が目立つ
伐採した木材を運ぶ車伐採した木材を運ぶ車

 今回の旅で最終的にたどり着いたワラビヨバ村でも、過疎化は避けがたい問題となっていた。だが住民たちは数こそ減っても、森林の伐採や狩猟、レナ川での漁、木の実の採集、小規模の農業などを営みながら、つつましやかに暮らしている。一部の子供好きな家庭では、本業の傍ら、孤児やさまざまな理由で親元では暮らせなくなった子供たちを複数、里親の立場で迎え入れていた。国からは毎月、養育のための費用が支払われるため、いわば家庭の形をとった児童養護施設だ。実際、ワラビヨバ村の豊かな自然は、子供たちがのびのびと育つには理想的な環境であるように思われた。

ワラビヨバ村へと向かう道ワラビヨバ村へと向かう道
村で放牧されている牛、奥には森林を伐採した跡が見える村で放牧されている牛、奥には森林を伐採した跡が見える
道すがら、何度も目にしたレナ川。子供たちにとっては格好の遊び場。右側に見えるのは中州道すがら、何度も目にしたレナ川。子供たちにとっては格好の遊び場。右側に見えるのは中州

 そもそも、シベリア南部の風景には、緑の丘や森が広がる、のどかなものが多いが、ワラビヨバ村の自然はとりわけ、おとぎ話の世界のように清らかだ。レナ川もおだやかで浅く、子供たちの遊泳に適している。その反面、買い物は不便で、通常の商店は30キロも離れた村にしかない。近所の店で買えば、品ぞろえが悪い上、値段は通常の倍だ。学校なども家から遠いため、自動車のガソリン代などはかなり高くつくということだった。

 帰途、暑さと息苦しさに満ち満ちたバスの中とは裏腹に、外にはレナ川の川面が空の色を涼やかに映す、天国のような景色が広がっていた。緑輝く草原とレナ川の麗しさが奏でる絶妙なハーモニーは、どこか非現実的なほど爽やかで、灼熱地獄の苦しみを気分的に和らげてくれた。

 かつて東シベリアに移住してきた人々はこのレナ川沿いのルートで移動した後、最終的にイルクーツクに町を築いたといわれている。その歴史をしのばせるルートが、いまだに素朴な砂利の道であるのは、見方を変えれば、数百年前の歴史に思いをはせ、当時の情景を思い浮かべるのにはふさわしい。バスに揺られるのはつらいが、どんなことでも、便利になればすべていいとは限らない。そんな感慨を覚えながら、今回の旅は終わりを告げた。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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