シベリア・イルクーツク生活日記

第09回

火事の記憶が決めた街並み

街を襲った大火

 
 イルクーツクに住み始めて驚いたことの一つに、火事の多さがある。先日まであった建物の屋根が、ある日見ると焦げていたり、夜、歩いているともくもくと煙が上がっているので、近づいてみると家が燃えていたり。原因は事故のものもあれば、故意らしきものもある。焦げた建物はすぐに撤去されるとは限らず、いつまでもそこに焦げたままで建っていたりする。街の中心部からそう遠くない焼け跡でも、何年も放っておかれたりして、訪れるたびに、「ああ、まだ前のままだ」と、残念なような、知り合いに会ってほっとしたような、微妙な気分になる。

イルクーツク市内に残る、火災に遭った建物イルクーツク市内に残る、火災に遭った建物
イルクーツク市内に残る、火災に遭った建物イルクーツク市内に残る、火災に遭った建物

 ところで、イルクーツクはその歴史において、二度の大火に遭っている。1879年のイルクーツクの大火とシベリアの森林を広い範囲にわたって焼失した1915年の大火だ。
 まず1879年の大火災では、6月22日と24日の出火によって、実質上、街の半分の建物が被災したといわれている。統計によると失われた木造の建物は3418軒、石造りの建物は105棟、中庭を囲んだ建物の焼失も918棟に及んだという。
 一方、1915年のシベリアの森林火災は、中央シベリアでの長期にわたる干ばつが原因で、春に始まり、夏の間ずっと続き、広大な地域を覆った。火災による煙はシベリアのほぼ全域に広がり、火災が発生した地域では、空が真っ暗になることもあったという。煙の密度が非常に高い状態は約50日間続いたため、夏の日射量も極端に減り、作物の収穫に影響を及ぼした。延焼を止めることができたのは大型河川だけで、125,000平方キロ、つまり北海道と九州を合わせた大きさを越える面積の森林が影響を受けたと推定されている。

遅れ、阻まれた消火活動

 今回はそのうち、1879年のイルクーツクの火災について少し詳しく語ってみたい。
 火災が大規模になった理由にはいくつかあった。まず、1879年の6月は、人々が夏の休暇を取る時期だったため、総督や警察署長、市長、軍事司令官、守備隊の隊員たちなどがこぞって休暇を取ったり、出張に出かけたりしていた。また、その年の夏はとても暑く、空気も乾燥していた。
 木造住宅ばかりだった当時のイルクーツクは、詳細な都市計画などなく、自発的に成長した都市だったため、車の通れる道路が複雑に曲がりくねり、消防員の現場へのスムーズな到着が難しかった。そういった状況も事態を悪化させたと言われている。
 現在でこそ、消火にも利用できる水道が街を網羅するように走っているが、当時のイルクーツクの消防署が所有していたのは蒸気消防車1台、手動消防車21台、19の消火用水のタンク、4台の格納式はしごのみで、街の中心部の大半を襲った火事に対処するには、文字通り、「焼け石に水」だった。

帝政時代の手動消防車(イルクーツク消防博物館の展示品)帝政時代の手動消防車(イルクーツク消防博物館の展示品)

 井戸水も消火には不十分だったため、結局、人々は消火用の水を川から運ぶしかなかった。当時のイルクーツクでは水はとても高価で、火事によってその値段はひどく高騰した。周囲の柵や家を解体して延焼を防ぐ努力は、火勢の強さを前になかなか効果をあげられなかった。
 当時、街の中心部を横切るアンガラ川にはまだ橋がなく、対岸からくる消防士たちは渡し舟で駆けつけるしかなかったが、その舟が事故によって下流に漂流したことも、消火活動を大きく妨げたといわれている。
 翌日に火はいったん収まるが、同日の午後、竜巻が発生し、火の柱は市場に向かって動いていった。その勢いで、高層の石造りの家にまで火が及び、被害の範囲はさらに広がった。

世相の不安を反映

 いかにも東西の交易路上に位置する商人の街らしく、火災がいったん収まると、郊外の村の者たちが駆けつけ、被災者たちを相手に、盛んに商売をしたという。もちろん、街のすべてが一瞬にして焼けたわけではないので、火の手が回ってくるまで、ある程度の時間があった家もあった。だがどこか滑稽なことに、富商たちの中には、火の手が目の前に迫るまで、泥棒を恐れ、自らの店や倉庫に鍵をかけていた者もいたという。よくあることだろうが、まさか自分の店や倉庫にまでは災難は及ぶまい、と信じていたらしい。果たして、炎が目の前に迫り、慌てて運び出した時には、それを今か今かと待っていた貧しい人々が商品に跳びかかった。かくして彼らは、かつて食べたこともなかった南洋産の缶詰や、高級な菓子などを口にすることになったという。

 値段を不当に吊り上げる行為も横行し、すぐに逃げたいと焦る避難者に対し、御者が足元を見て通常よりずっと高い値段をふっかけることも多かった。
 なかなか火の勢いが衰えぬなかで、もっとも大きな影響をもたらしたのは、やはり水の価格の高騰だった。ブリャンツェフという名の商人は、ひと樽のワインを救いだすために、ひと樽の水を3ルーブルで買ったという。当時、3ルーブルといえば、現在の価値で恐らく8000円前後だったであろうと考えられる。
 火事の原因は世情の乱れによる放火だとも、サモワールに使われる火からだとも推測されているが、このように貧富の差が広がり、悪徳商売や火事場泥棒が跋扈していたという現実をみれば、放火説にもそれなりの説得力があるように感じられる。

再建が変えた街並み

 火災の後の惨状は、イルクーツクの貿易の都と東シベリアの行政の中心地としての地位が人々の間で危ぶまれるほどだったらしい。
 2万人の群衆が近郊の牧草地や丘、川辺、川の中の島、墓地などの広々とした場所に避難したり、広場に小屋を作って住んだりした。
 街の復興を助けようと、国内外から援助が集まり、皇帝、名誉市民、赤十字社、議員、市長、男爵、モスクワの証券取引委員会、富商、そして、他の都市や農村の住民や非居住者まで、多くの人々が寄付を行い、街の復興を助けた。
 大地震や戦争などによってもしばしば起こることだが、街を襲った大火は、当時の街の風景だけでなく、再建後の街並みをも変えた。石造りの防火壁などができたほか、建物の建材にレンガや石が多用されるようになった。

イルクーツク市内に残る防火壁の跡イルクーツク市内に残る防火壁の跡

 イタリア人の建築技術者なども呼ばれて再建を手伝ったため、イルクーツクの街並みは、より欧州の都市に近い景観となった。イルクーツクがシベリアのパリと呼ばれたのも、その頃のことだった。幸いなことに、イルクーツクは二度の世界大戦でともに戦火を免れることができた。もし、ロシア革命後に大々的に行われた教会などの破壊がなければ、イルクーツクの景観はかなりの範囲で、20世紀初頭と変わらぬものが残されたことだろう。

火災の実況を伝えるビデオも

イルクーツク消防博物館の一部で、もとは火の見櫓だった部分。1901年に建てられ、1989年まで利用されたイルクーツク消防博物館の一部で、もとは火の見櫓だった部分。1901年に建てられ、1989年まで利用された

 イルクーツク市内にある旧消防署跡を利用した「イルクーツク消防博物館」(見学には許可が必要)を訪れると、大規模な火災の経験を経て、人々がいかに防火に力を入れるようになったかが、実物を通じて理解できる。

 イルクーツクでは、19世紀の初頭に消防隊が創設され、20世紀初頭には地区ごとに、消防車用の車庫と火の見櫓を具えた立派な消防署が作られた。消防隊員の制服も統一されており、消火活動にまつわる一切が厳しい管理のもとに置かれていたことが良くわかる。

 1898年に建設された火の見櫓の機能を果たす塔は、当時、イルクーツクで一番の高さを誇っていたそうだ。そういった点からも、当時、防火がいかに重要視されていたかが伝わってくる。同館には、帝政時代の消防設備はもちろん、ソ連時代の移動式給水ポンプなども展示されており、機能的で独特のフォルムが興味深い。

1883年にイルクーツク市内に建てられた消防署の模型1883年にイルクーツク市内に建てられた消防署の模型
1901年に建てられた消防署で、現在イルクーツク消防博物館となっている建物の模型1901年に建てられた消防署で、現在イルクーツク消防博物館となっている建物の模型
帝政時代の消防車とスターリン時代の消防車帝政時代の消防車とスターリン時代の消防車
帝政時代の消防隊員のヘルメット帝政時代の消防隊員のヘルメット

 展示品から、二度の大火の後も、イルクーツクはしばしば大きな火事に見舞われたことが分かる。今でも時おり話題になるのは、1995年の3月13日にホテル『シベリア』を襲った火災だ。街の目抜き通りであるレーニン通りにあった、元インツーリスト系のホテルでの火災は、消火に12時間かかったといわれ、博物館では、消火の様子を詳しく記録したビデオが流れている。火災によって7人が死亡し、9人が重軽傷を負ったものの、無事救出された者も45人に及んだという。
 貴重なのは、こういった火事の消火活動については、何日何時にどのような消火や救出活動を行ったかが、後片付けのことまで含め、詳細に記録されて残っていることだ。現状では片付けられていない焼け跡も多いだけに、民家の火災についてはそこまで細かな記録や管理は行われていないのかもしれないが、悲惨な経験に学びつつ発展してきたイルクーツクの消防文化の原点を見るような気がした。

スターリン時代の消防車スターリン時代の消防車

防火は文化

 博物館を参観後、つくづく思ったのは、防火も文化だということだ。まず、防火設備は、常備され、それだけ頻繁に人の目に留まるものなので、機能的なだけでなく、形もそれなりに美しくなくてはならない。将来起きうる火災に備えて人員や設備を効率的に配置したり、どこで何が起きたか事細かに記録を取って次の経験に備えたりする一方で、火事を伝える警報や情報伝達のための通信システムも時代とともに最新のものを取り入れる必要がある。

帝政時代の消防隊員と当時の警鐘の模型帝政時代の消防隊員と当時の警鐘の模型

 一方、芸術と関わる面としては、ドミトリー・ロマノフという画家が、たいへん迫力のある筆致で1879年のイルクーツクでの火災を描いている。観ていてやや恐怖を覚えるが、街を覆いつくした焔の勢いを伝えるすばらしい記録となっているだけでなく、悲惨な火災の記憶を視覚的に人々の脳裏に刻むことで、防火の意識も高めてきたことだろう。
 ちなみに、火災の記憶が建物の景観まで変えるという点については、中国の南方で数多く見られる徽派建築、つまり切妻が上に突き出た独特のスタイルの建築を思い出しても明らかだ。交易で栄えた街だったイルクーツクでも、火事による財産の焼失のリスクが大きかったため、火災対策が街並みを変えてしまうほど徹底的に行われたのだろう。
 レンガ造りの家が多い北京でも、建物の骨組みは木材であるため、防火は重要な課題だった。故宮のあちこちにある水がめや、四合院の庭にかつて必ず置かれていた、金魚の入った水がめなどが、みな防火用だったことは、良く知られている。建物が肩を寄せ合う四合院では、火災の規模が大きくなりやすいため、いざというときはたらいリレーができるような、近所同士の助け合い精神も発達した。現在は胡同専用の消防車も普及している。
 古い町と火災の関係を見ていくと、防火や火災に備えた街づくりは、人知を結集させながら積み重ねられる貴重な経験に支えられていることに、改めて気づかされる。

イルクーツク消防博物館で制作されている土産物。右は帝政時代の消防局員をかたどった人形、左はそれをサンタクロース風にアレンジしたものイルクーツク消防博物館で制作されている土産物。右は帝政時代の消防局員をかたどった人形、左はそれをサンタクロース風にアレンジしたもの
コラムニスト
多田 麻美
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。