シベリア・イルクーツク生活日記

第1回

近いだけに微妙な関係

東シベリア随一の文化都市

 中国の北京に16年半ほど暮らした後、ロシアの東シベリア南部にあるイルクーツクという町に拠点を移して、はや2年余りになった。
 「シベリアのパリ」とも呼ばれる伝統的で美しい街並みを残すイルクーツクはシベリアにおける文化、芸術の都として知られており、実際にも芸術、学術関係の多くの機関が集中している。

イルクーツクの市街地の中心部に位置するウリツキー通りイルクーツクの市街地の中心部に位置するウリツキー通り

 また、イルクーツクは古来、ユーラシア大陸の東西南北を結ぶ交易路の交差点に位置してきた。長らく、ウラル山脈以東で指折りの交易都市として繁栄を謳歌し、18世紀にこの地に流れ着いた伊勢商人、大黒屋光太夫も、多くの中国人、朝鮮人、満州人などが訪れ、交易を行っていたことを記している。1822年には東シベリア総督府もこの地に置かれた。
 イルクーツクはロシアのアジア側に位置しているため、地理的にもアジアと密接なつながりがある。モンゴルとの国境が比較的近く、車で8時間余り走れば、国境の町、キャフタにたどり着ける上、モンゴルはもちろん、中国との間にも時差は存在しない。

イルクーツクからモンゴルへと続く道沿いのバイカル湖イルクーツクからモンゴルへと続く道沿いのバイカル湖
ロシアとモンゴルの国境近くの町、キャフタ。清代に交易が行われた市場跡ロシアとモンゴルの国境近くの町、キャフタ。清代に交易が行われた市場跡

 現地の人の話によれば、ソ連崩壊後の1990年代にも、イルクーツクで多くの中国人商人が商売をしていたそうだ。彼らは市の中心部に広い市場を形成し、主に安価な商品を扱い、一定の顧客層を獲得していた。だが、街の中心部の景観が秩序を失ったなどの理由から、市場はやがて当局によって閉鎖されてしまった。当局が中国資本の流入増加を警戒したという説もあるが、今でも別の市場では一定数の中国商人たちが商売をしている。閉鎖された市場の跡地は今も荒れ果てたままだ。

「クズ」を売り買い

 残念なのはその頃、イルクーツクで商売や建設に携わっていた中国人たちの生活風景がイルクーツクッ子たちに与えたマイナスの印象によって、現地でわりと偏見の強い中国人観が形成されてしまったことだ。中国人の季節労働者が安全性に問題のある建築物を数多く建てたことも、印象の悪化に拍車をかけた。質の悪いものしか売れない、作れない、というイメージだ。
 だが実は、この状況は中国側から見ると、また別の様相を呈する。
 私が初めてロシアを訪れたのは、2015年だった。その時、私はまずハルビン経由で中国とロシアの国境にある町、撫遠を訪れ、そこから小型船でアムール川を渡り、ハバロフスクで入国した。川を越えて買い付けにきたロシアの仲買人、いわゆる「倒爺(ダオイエ)」たちでかつては大いに賑わったとされる撫遠の町は、その頃すでにすっかりさびれていた。そもそも、1990年代をピークに、ロシア人商人の姿は減る一方だったが、近年は流通ルートの多様化と、ルーブルの価値の下落により、彼らの商売が成り立つ商品そのものが激減してしまったらしい。筆者の目から見ても、市場にならぶ品は粗悪な安物ばかりで、誰が買うのだろう、と頭をひねりたくなるものさえあった。市場で働く人々は一様に、「商売あがったり」と嘆いており、ある売り子に至っては、吐き捨てるように、「ロシア人に売っているのはクズ。そういうものしか彼らは買っていかない」と言い放った。
 幸か不幸か、ロシアにはまだまだ、安価な中国製品を必要とする客層が存在するようだが、品質の劣悪な商品を売り続ければ、結局のところは「安かろう、悪かろう」のイメージが固定しすぎて、中国側も悪影響をこうむることだろう。

観光業の発展はもろ刃の剣

 このような悲劇をもたらしたルーブルの価値下落は、一方でロシアを訪れる中国人観光客の激増ももたらした。なかでも観光地として名を馳せるイルクーツクは、新型肺炎が流行するまでは、中流から富裕層まで、さまざまな中国人観光客を受け入れていた。
 もっとも、観光業の急激な発展はひずみももたらす。正式な建築許可を得ていない宿泊施設の増加や、観光業をターゲットにした中国資本の流入によって、シベリア最大の観光資源、バイカル湖の周辺が環境悪化の危機に直面してしまった。このことが現地のロシア人と中国人の住民の間で、新たな摩擦を生んでいるという。

春のバイカル湖春のバイカル湖

 もともとシベリア・極東地方には、歴史的経緯から、土地を中国に占領されたり、買い取られたりしてしまうかもしれないなどといった、漠然とした不安を抱いている人が多い。「今の中国には軍を動かす必要などなく、お金で土地を買い占められてしまう」と自嘲するロシア人の知人もいる。
 つまり、巨大な人口および経済の規模をもつ隣の大国、中国がもたらす、そういった現実のプレッシャーに、こちらの人はつねに向き合わねばならないのだ。そのため、彼らの多くが漠然ともつ中国への警戒感には、ただの偏見として切り捨てられない面もある。
 その一方で、ロシアでも中国人観光客がもたらす多額の観光収入、および中国人留学生の受け入れが大学の経営を支えているという事実は、もはや無視できない。そのことを熟知している人々の心情には、葛藤もあるようだ。
 今のイルクーツクでは、店の広告や観光関係の掲示板や地図などに中国語の表記が目立つ。私はある日、市の中心部にある土産物店で、中国人ツアー客らが去った後、店長が売り子を強く叱りつけているのを耳にした。「さっきの人たちに、なんでもっと熱心に品を売りつけなかったのよ!」と。いかにも「上客を逃した」といった、悔し気な口ぶりだった。
 ある機会に、日本語を学ぶロシア人学生に、「なぜ日本語を学ぶことにしたの?」と尋ねてみた時のこと。返ってきたのは、意外な答えだった。「中国語を学んだ方が就職に有利なのは知っていたけれど、お金を稼ぐためだけに言葉を学びたくなかった」と言うのだ。それを聞いて、中国語そのものの魅力によって大学で中国語を学んだ筆者は複雑な気持ちになった。

共通点の多い二つの大国

 こういった多少の地域的摩擦こそあれ、改めて言うまでもなく、中露両国は、国を単位とした場合は、深刻な対立があるわけではなく、むしろ「戦略的友好関係」を維持している。人々がお互いの文化に抱いている感情も、決して悪くはない。北京のロシア料理レストランもイルクーツクの中国料理レストランも、つねに多くの客で賑わっているし、好きが高じて、自分で中華料理を作るようになったロシア人の友人もいる。
 そもそも、中国とロシアには20世紀以降の政治史、国土の広大さ、民族の多様さなどにおいて、共通項が多い。首都と地方のギャップの大きさもしかりだ。中国で、「北京は特別」と思われているのと同様に、ロシアでも、「モスクワは別世界」だと思われている。
 とりわけ、資源面でロシア全土を支えていながら、経済やインフラの面で大きく後れを取っているシベリアや極東は、中国でいえば、西北地方のような位置づけに近いかもしれない。
 中国の西北地方の農村などには、上下水道が整備されておらず、自宅に浴室やトイレなどもない、戦前とあまり差がなさそうな生活環境を保っているところがまだまだ多いが、シベリアの農村部も然りで、ある地域については、「ここに電気が通ったのは21世紀に入ってからだ」という話も聞いた。
 また、ひと昔前の中国と同じく、まだ「建てた者勝ち」という面が強いのか、上下水や電気が通っておらず、住所さえないのでタクシーも呼べない、といった住環境は、都市部やその周辺でも目にする。自由度、とくにDIY度が高く、きわめて自生的かつ野生的なそういった住環境は、「住まいってそもそも何だろう」という疑問を呼び起こし、とても興味深い。かつて北京の郊外の芸術家村などでも同じような建物を目にしたので、親近感もある。
 それらを「結局のところ、違法建築じゃないか」と切って捨てるのは簡単だ。でも私は、経済的に貧しい人は多いのに、こちらにホームレスが少ないのは、そういった建物で風雨をしのいでいる人が多いからではないかと感じている。犯罪の温床となっては困るが、やはり街にはそういう「あいまいゾーン」がある方が、人間味があって面白い。
 もちろんこれは、日本とロシア、そして長らく住んだ中国の文化をそれぞれ身近に感じ、いわばそれらの間の「あいまいゾーン」で暮らしている私だからこその感慨かもしれないが。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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