秋は北京にとって最高の観光シーズン。10月に八達嶺長城を訪れる機会があった筆者は、往年と比べ、日本人観光客が激減していることに遺憾の念を覚えたものの、それを補って余るほどの国内の観光客の数に圧倒された。
言うまでもなく、長城より北はかつて「塞外の地」と呼ばれ、長い間、漢民族にとっては外国も同然だった。今でも北京っ子の感覚の中にはそんな区分けが頭のどこかに残っているようで、北京から200キロほどしか離れていない河北省張家口のことを、あそこは昔は外国だったんだ、と言われ、驚いたことがある。
「塞外之地」という言葉からつい思い浮かべてしまうのは、かつて北方騎馬民族が跋扈した、どこか荒涼とした北方中国の大地。だが、万里の長城が北京市内、しかも最も近いものだと、市街地から車で1時間余りの場所にあることからも想像できるように、北京市内にも「塞外之地」は存在する。しかもそこには時に、驚くほどさりげなく、その歴史と地理的特色を感じさせる文化財が残っていたりする。その一つが、密雲県番字牌村に残る「番字牌」だ。
真言が刻まれた岩
◀村の商店
北京市内からまず密雲県の県城(県政府の所在地)に出て、さらにバスに揺られること1時間半。山合いの細長い道沿いに、番字牌村はあった。その風景は、いわゆる長城の南側にある「塞内」の山村とそう変わらない。ただ、かつて改革開放前からそう様相を変えていないと思われる、国営商店風の店が残っていて、現地の時間の流れの緩やかさを感じた。
市の予算で建てられた小学校が、かつて貧困救済の拠点だったということからも、どちらかというと経済的に貧しい土地柄だったらしい。もっとも現在は定期バスが走り、都市の富裕層を狙った農家風別荘も売り出しており、時代の流れを感じさせる。
▲その内部
番字牌を残す寺は、孤山の南側、バス停の驚くほど近くにあった。修復中だが、参観は可能とのこと。さっそく新たに設けられたばかりと見られる門を入ると、すぐ目の前に巨大な岩の塊が迫り、圧倒された。番字牌は直訳すれば、「異民族の文字が記された板」。この板とはもちろん、巨大な石の板で、実際は岩塊に近い。
さまざまな文字が刻まれた岩塊には、酸性雨による浸食を防ぐための屋根が取り付けられていた。それはいいことに違いなかったが、柱が岩塊の上部に固定されているのに気づくと、「文化財なのに、大丈夫なのだろうか?」と不安に駆られた。
▲石刻が見られる敷地に入る門
▲石刻のある岩塊の一部
国家文物局が編集した『中国文物地図集』は、この遺跡をこう説明している。「小さな石の山は東西の長さが約35メートル。平均の高さは5メートル足らず、全部で11組の文字が刻まれている、……(中略)……完全な保存状態を保っている」。
番字牌の別名が梵字牌であることからも分かるように、この11組の文字はいずれも、仏教とゆかりのある六文字の真言。「オンマニペメフム」、つまりチベット仏教において「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」に相当する祈りの言葉らしい。
▲岩塊に刻まれたさまざまな文字の一部
▲同上
▲同上
▲同上
二都を結ぶ要路
サンスクリット文字を除けば、いずれも北方の少数民族の文字だというが、歴史の解説書などでも見たことのない文字が多く、しかも間や末尾に不思議な記号が挟まれている。清華大学建築学院による『北京古建築地図』は、これらの文字を以下のように説明している。
「1987年、中国社会科学院民族研究所の専門家の考証により、これらの異民族の文字は3種類に分けられることが判明した。まずはサンスクリット文字、チベット文字、回鶻(現在のウイグル人の祖先)式モンゴル文字で、その内チベット文字とモンゴル文字は中国の古代少数民族の文字であり、全部で11組ある……(中略)……専門家によれば、石の上に異民族の文字で『(第)三陰火兎年』(訳注:チベット歴でいう西暦1326年)、『軍隊造』などと刻まれていることから、この石刻は元の泰定三年(1326年)に刻まれ、軍隊と関係あると推測できる」。
本書によれば、この地には元代に軍隊が駐屯していたことがあり、この地に石刻があるのは、同じ元の泰定三年に、元軍が居庸関の崖の岩に西域の異民族のまじないの言葉を刻んだ、という史書の記述と呼応するという。ちなみに、居庸関は八達嶺の東南、現在の昌平区に位置する、長城の重要な関所兼要塞だ。つまり、北京郊外の少なくとも2カ所で、ほぼ同じ時期にまじないの言葉が刻まれたことになる。
ちなみに、年号の変換に誤りこそあるものの、比較的詳しく典拠を挙げている維基百科(中国語版ウィキペディア)によれば、この理由について学者たちの間からは以下のような説が出ているらしい。居庸関と現在の番字牌村が、それぞれ元の大都と上都を結ぶいくつかの道筋の西ルートと東ルート上に位置すること、また当時、皇帝がチベットの僧侶を霧霊山に送って仏事を行わせたという史実があることから、番字牌の文字は、上都に向かう皇帝や霧霊山に向かう僧侶の平安を祈るため、軍隊の監督の下で刻まれた、という。
伝説に彩られた文字
軍隊の者が刻ませた、という由来については、村人の間で伝えられてきた伝説の一つとも、ある程度呼応する。それは、岩の上の文字は、少数民族が戦に勝てることを祈って刻んだ言葉だ、というものだ。番字牌のある一帯に駐屯した軍隊が、軍隊の士気を上げるため、岩にこのまじないの文字を刻んだのだという。
殺戮行為、つまり殺生を行う軍隊が、仏教の真言で士気を上げるというのは、それが僧兵でもない限り、常識的には考えにくいことだが、皇帝を護衛する軍隊がここを何度も通ったため、村人が勘違いしたのだ、と考えれば合点がいく。
だが残念なことに、上記の伝説や仮説も、11組ものさまざまな文字がなぜわざわざ1カ所に刻まれたのか、という疑問を説き明かしてはいない。
結局のところ、謎はまだまだ残り、真相は掴めないままなのだが、それも仕方のないことで、そもそも地元の住民のほとんどは明清時代の山東省からの移民の末裔らしい。つまり、石刻は、今の村ができる前からそこにあったのだ。地元民にとっても、元以前のこの土地の歴史は謎で、村には番字牌を宋の太祖趙匡胤と関連づけた伝説さえ残っているという。趙匡胤と皇位を争って負けた妖怪は、密雲の山奥に逃げ込んだ。それを追ってきた趙匡胤は、この村で天帝から授かったまじないの札を使い、妖怪を懲らしめた。そのまじないの札の跡が、番字牌だというのだ。
「判読不能」が吉と出る
そもそも1980年代前半まで、この番字牌の文字は「判読不能」と信じられていた。実際のところは、専門家を呼べば、少なくとも一部はすぐに判読できたはずだ。だが、判読できなかったことが、結局は文革の嵐からこの石刻を救ったと考えていい。でなければ、番字牌のすぐ隣の孤山寺が文革中にすべて壊されてしまい、近年に再建されるまで姿を消していたのに比べ、番字牌が無傷で残ったことの説明がつかない。
これは憶測に過ぎないが、若き紅衛兵の歯牙にかからぬよう、あえて事実を追求せず、「誰も読めない、意味も由来も不明の文字」として封印してしまったのではないだろうか。かりに石刻の謎を探る根拠が当時、伝説のみだったとしても、そこに出てくる「まじない」は迷信とつながるわけで、文革中に壊される可能性は十分にあったわけだから。
中国の農村ではよくあることだが、文革の頃の様子を聞こうとすると、村人たちは途端にそっぽを向いたり、聞こえないふりをして、話題を変えてしまうことがある。ここでも、文革時の様子を尋ねた途端、それまでとても友好的だった村人が踵を返して立ち去ってしまった。伝統文化の破壊行為を目にし、時にはそれに手を貸した村人たちが負った心の傷を感じる瞬間だ。
今も誘うファンタジー
もっとも、番字牌を文化財の破壊者たちの視界から消す「まじない」は強力だったようだ。北京っ子の間では番字牌は今もなお、その神秘性によって知られ、実際、一緒に番字牌を訪れた北京育ちの夫も、訪問の直前までその文字を「解読不能」だと信じ込んでいた。
もちろん、漢民族の多くが無意識にもつ中華意識の強さが、少数民族の文字の解明を後回しにさせた、という可能性も否めない。だが、現地を訪れた者の旅行記ブログなどを覗いてみると、みな番字牌の文字に強いエキゾチシズムを感じ、「塞外之地」がもつ神秘性の象徴のように捉えていることが分かる。村人たちにしても、「読めない文字」がもつ摩訶不思議な感じを、不気味がりつつも、心のどこかで楽しんでいたに違いない。かつて理詰めの唯物主義に席巻された中国で許された、わずかな宗教的ファンタジーの一つだったのだから。「解けない謎」が誘う空想の余地が、伝説を守り、住民たちの精神世界を豊かにしたのだ。
番字牌の隣に再建された孤山寺は、道教の神、大仙爺を祀ってきた寺。道教は、中国に伝わる諸宗教の内、もっとも土着的でファンタジックな要素が強いことで知られる。漢民族が中心となった文革の嵐が、結局は自民族の伝統を断絶の淵に追いやった一方で、少数民族の遺産を盲点として残したことに、この地における歴史の皮肉を感じずにはいられない。