十五万人以上の追悼式典(六月四日、ヴィクトリア公園)
1.「支連会」
「愛国民主運動を支援する香港市民の会(略称支連会)」は、香港市民が設立した組織です。一九八九年五月二一日、北京に戒厳令が布告された翌日、香港では百万人の市民が抗議デモを行い、「愛国民主運動を支援する全香港市民の会(全支連)」を設立しました。これは「支連会」の前身で、翌年から毎年六月四日の直前の日曜午後にデモ行進をして、四日の夜には追悼集会を開いてきました。
一九九七年七月一日に香港に関する主権がイギリスから中国に戻された「九七回帰」により、中国共産党を直接批判する活動の存続が危ぶまれました。多くの人たちが中国本土のように「反動組織」、「国家転覆組織」とされて関係者は摘発されるのではと心配されました。しかし、「一国両制」により、デモ行進や追悼集会は取り締まられず、続けることができました。
それでも二〇〇三年には「香港基本法」第二三条が可決されました。これによると「香港特別行政区は、祖国を裏切り、国家を分裂させ、反乱を煽動し、あるいは国家機密を盗むいかなる行為も禁じられ、外国の政治組織や団体による香港特別行政区における政治活動も禁じられ、香港特別行政区の政治組織や団体が外国の政治組織や政治組織や団体と連携することも禁じられ」ます。これに対して、七月一日に基本法二三条立法化反対デモが五十万人規模で行われました。立法化は阻止できませんでしたが、これは香港社会を震撼させるものでした。
このようにして、香港人は、その独特の立場により言論の自由、自分の権利は自分しか守れないということを自覚するようになり、「支連会」は中国で唯一合法的に「六・四」を祈念できる市民組織として二十年間、毎年ヴィクトリア公園で「六・四燭光追悼集会」を開催してきました。
2.「六・四燭光追悼集会」
今年のスローガンは「香港人は六・四の傍観者ではなく、参加者だ」、「香港が沈黙すれば、中国に声はなくなる」でした。 六月四日の午後五時頃、私は孟浪さんたちとヴィクトリア公園に向かいました。もう大勢の人たちが、地下鉄銅鑼湾駅からそごう百貨店前を通り過ぎ、潮のように進んでいました。約四十名の香港大学の学生たちが「平反六・四(六・四の再評価)」と書いた黒いTシャツを着て、太古橋までやって来ました。一九八九年、この歩道橋のある道路に「冷血屠城英魂不朽、誓殲豺狼民主星火不滅」と書かれましたが、今年もまたペンキでこれが書かれました。
私たちは大勢に押されながらヴィクトリア公園にたどり着きましたが、もうサッカー場は満員でした。そのため、なんとかして傍の芝生の広場に入り、座りました。陳建華さんと彼の友人たちは遅かったので、公園の外の道路から眺めただけでした。
←香港労働組合連合会の「六・四を忘れず、労働者の権利を支持する」という訴え
追悼集会が厳かに始まりました。まず「支連会」は「薪火相伝、接好民主棒(トーチの火を伝えあい、民主のバトンをリレーしよう)」というスローガンを表明し、「支連会」の代表と一九八九年生まれの青年が白い花を献花しました。次に青年たちは「支連会」主席の司徒華からトーチの火を受けました。
そして、録音テープに残された失脚した趙紫陽総書記の肉声が流され、天安門学生運動のリーダーの一人であった熊炎(現在が米軍従軍牧師)の発言、香港学生連合会秘書長の周澄の発言「二十年の血涙と国殤を忘れない」、「天安門の母」代表の丁子霖の肉声による発言(録音)、一九八九年生まれの青年の代表による「青年宣言」と進み、常務委員会による追悼文が読みあげられて燃やされました。その間に、会場全体で「二十年」や「自由花」などの歌を合唱しました。こうして二時間以上に及ぶ追悼集会が終わりました。
私のそばにいた青年は「三年連続して参加した。一昨年と去年は一本のろうそくが燃え尽きないうちに集会が終わったけれど、今年は二本が燃え尽きてもまだ終わらない」と語りました。
とても蒸し暑い中でも、会場内の十五万人と会場外の五万人は厳粛に参加し、閉会後は整然と散会し、帰路につきました。また、青年たちが芝生に落ちたろうそくの燃え残りやゴミを片づけていました。このようなところからも、参加者の意識の高さがうかがわれました。
追悼集会で発表された丁子霖の発言を紹介する前に、簡単に説明します。丁子霖の息子の蒋捷連は当時十七歳で、「六・四」のときに射殺されました。その後まもなく丁子霖は涙をぬぐい、犠牲者の遺族や負傷者を探しはじめました。それは、当局が力ずくで隠滅しようとする犠牲者の名前、年齢、職業、被害状況について一人一人記録すると同時に、遺族や負傷者の現状を訴え、援助を呼びかけることを目的にしていました。
そして、丁子霖の呼びかけに応えた勇気ある母親たちは、強い意志をもって固く封印された歴史の真相を明らかにしようと地道な努力を続けてきました。これは今では国際的に評価され「天安門の母」と呼ばれ、丁子霖さんはノーベル平和賞の候補にあげられています。
今年の五月、「香港天安門母親運動(民間支援組織)」は十二名の「死難者」の遺族が自ら書いた、二十年間の厳しい監視と締めつけによる苦しい生活を歯を食いしばって耐え忍びながら進めた歴史の真相を明らかにする調査とともに屈辱、悲憤、嘆息を乗り越えて尊厳を回復しようと書きつづった本『二十年生死両茫茫』と、ドキュメンタリーDVD「天安門母親之路」、「六・四受難者家族証詞」を出しました。
「天安門の母」たちは、六月三日の深夜に、亡くなった子どもたちの追悼を事件現場で行うことを求めました。しかし、現場も自宅も多数の警官が目を光らせ、追悼は阻止されました。 丁子霖の発言は、このような状況においてなされたものでした。丁子霖は「天安門の母」たちを代表して、次のように述べました。
「今日、ここでお話しするにあたり、なかなか気持ちが落ちつきません。私はいつも思っています。私たち中国人は生きていくのが余りにも重く、余りにも身動きがとれません。もう百年以上も、中国の民衆は尊重されず、思うままに殺戮され、操られ、議論も行動も自由にできません。恐怖から逃れる自由もありません。私たちは、一年また一年とこのように暮らし、一年また一年と耐え忍んでいます。もはやどうしようもないほど追いつめられて立ち上がり、何度も反抗しましたが、最終的にはみな失敗しました。
最近の反抗は、一九八九年に勃発しました。歴史上、これは先人たちに続いたもので、さらにこの百年来、とりわけ半世紀以来の正義と邪悪、自由と隷従、尊厳と屈辱とをめぐる無数の戦いを引き継いだものでした。しかし、これは今までの歴史における反抗の単純な繰り返しではなく、独自の新たな言葉、新たな要求、新たな抵抗の形態を持っていました。つまり平和的な請願と平和的なデモという方法で、公民の自由や権利を守り、民主主義の実現に努力し、役人の不正に反対し、政治体制の改革を推進しようとしていました。これは中国人が世界の潮流と融合することを熱望し、新たな生活様式を探し求めるという偉大な試みでした。
ところが、五十日間も続いた平和的な請願とデモは、結局、独裁者に弾圧され、しかも空前の虐殺による悲惨な流血事件として終止符を打たれました。しかし、まさにこの空前の惨劇、空前の悲壮こそ、中華民族の歴史において不朽の石碑の一つになり、私たちの民族的精神のシンボルの一つになりました。
『六・四』は世界に宣言しました。中国人も、世界の自由を愛するすべての人々と同じように、自らの自由、権利、尊厳のために社会を震撼させる闘いを行い、そのために高い代価を払いました。この闘争と代価は、世界中の進歩的な人々から尊敬されています。
今や『六・四』虐殺事件から二十年も経ちました。この二十年間、中共(中国政府)当局は頭をふりしぼり、利益誘導と買収、官憲の圧力と威嚇、欺瞞と隠蔽などあらゆる手だてを使い、『六・四』事件が民間にも、国際社会に影響を及ぼさないようにしてきました。初めは『暴乱の平定』と言い、その後は『動乱』、『事件』、さらには『一九八九年の春と夏の境目における政治的な騒動』など次々に言い方を変えてきました。このようなやり方の目的はただ一つです。後代の若者たちから『六・四』を隠蔽することです。
この点については、確かに成功したようです。今の若者はほとんど『六・四』について知りません。たとえ一部の人がネットから『六・四』に関する部分的な情報を得ても、信じません。中には『人間が生きるのは何とすばらしいことなのに、アア、どうして死ななければならないのか』などと的はずれの発言をします。
確かに、中共は『六・四』後の世代を労することなく味方に引き入れました。かつて毛沢東はこう言いました。
『世界は君たちのものであり、また我々のものである。しかし、結局は君たちのものである』(『毛主席語録』三十「青年」)
まさに中共は「六・四」後の世代をたよりにしているのでしょう。
ですから、香港の同胞が数年前から提唱した『トーチの火を伝えあい、民主のバトンをリレーしよう』というスローガンには遠望の見識があります。香港の同胞は最大限の努力をもって『六・四』虐殺を若者に伝え、真相を知らせ、一九八九年に大陸で何があったのか、そして、どのように災厄に対処すべきかを分からせてきました。中共は政権を掌握してから、この半世紀余り愚民政策を推し進め、これによって一世代一世代の人々の集合的な記憶が失われ、これまで受けてきた迫害と苦痛を一種の知恵や精神力に転化することができなくなっています。もし万一、災厄が再び襲うとき、私たちは相変わらず何もできないでしょう。
私はいつも思っています。歴史を通して、中国人は常に『正義のために命を捨てる』、『身を殺して仁をなす』、『士は殺すべし。辱むべからず』などと言います。これはまさに大きな災厄の後に先人から残された教訓です!
どうして私たち民衆がこの教訓から学ばないでいられましょうか?
(中略)
二十年来、私たちは辛抱強く虐殺の真相を究明し、なかなか到来しない正義を追い求めてきました。前途は依然として先が見えないほど遼遠ですが、私たちは倦まず弛まず苦難に満ちた歩みを一歩一歩進めています。
これは弱者の強者に対する闘いであり、道義の権力に対する勝負です。私たちは一度ならず挫折を経験しましたが、それでも固く信じています。金銭と権力がこの世界を永遠に支配することなどありません! 正義は必ず存在します!」
4.追悼集会参加の理由
この二十周年追悼集会に十五万人以上も参加した主な理由について述べます(警察は六万二千人以上と発表)。
まず、インターネットで盛んに呼びかけられていました。
次に、香港人は中国大陸と緊密な運命共同体の関係にあると自覚し、天安門事件に無関心ではいられず、そして、ほぼ百年の歴史で養われた近代市民の意識として、常識的にも理性的にも虐殺は許されないと考えました。
ところが、今年の四月、香港大学学生会会長の陳一諤(20)は、「六・四天安門事件」に関するフォーラムで、「悲劇の責任は学生と政府の双方にあったのでは」、「もし学生が平和的に解散すれば、武力弾圧は避けられた。武力弾圧を一方的に批判すべきではない。やり方にも問題があった」などと発言し、「左派」、「共産党のスパイ」、「北京政府におもねる発言」などと大勢の学生が猛反発し、学生の陳巧文はリコールの動議を提出しました。三日間のリコール投票により、陳会長は解任されました。これは香港大学学生会の九七年の歴史で最初でした。
さらに、五月十四日、香港立法会で曹蔭権(ドナルド・ツァン)行政長官は「天安門事件に対する香港人の気持ちと見方は分かるが、事件から長い年月が過ぎ、香港人は国家の発展を客観的に評価できるはずである。この意見は多くの香港人を代表できる」と答弁し、市民の怒りと顰蹙を買いました。
このような状況において、市民の意識が高まり、中学生も積極的に社会に関心を向けました。香港中学生連盟は、六月三日からヴィクトリア公園で「六・四死難者追悼会」を行い、募金を呼びかけ、「Donald(曹蔭権)不代表我、我有我say」というビラを配り始めました。
五月末に香港大学「民意研究プロジェクト」が実施した調査では、「六・四を名誉回復すべきである」が61.2%になり、去年より12%増えました。「中国政府の対処はまちがっていた」は68.9%で、去年より10.9%の増加でした。
その間に失脚した趙紫陽総書記の回想録『改革歴程』は香港で数万部売れるというベストセラーになりました。
以上いくつか理由を述べましたが、やはり「支連会」や「天安門の母」たちの地道な努力や明鏡出版社や苹果日報社の長年にわたる言論出版活動などが、この根底にあると思います。だからこそ、国家が隠蔽し続ける歴史の真相究明、名誉回復への理解と共感が広がったのです。そして、丁子霖の「金銭と権力がこの世界を永遠に支配することなどありません! 正義は必ず存在します!」という訴えはまたさらに力強く参加者を励ましました。