燕のたより

第23回

公共知識人としてイバラの道を歩む

一、老朋友との出逢い

崔衛平氏近影(2013年01月。大阪にて/劉燕子撮影)

◀崔衛平氏近影(2013年01月。大阪にて/劉燕子撮影)

 二〇一三年一月十九日、乾いた冬空から吹きつける寒風が、冷たい巨大な束となって、次々に押し寄せていた。広島から到着した新幹線から、黒いダウン・コートをまとった小柄な女性が颯爽と降りた。崔衛平女史だった。
 私たちは固く抱きあった。初対面だったが、志を同じくする旧知の「同学」であった。
 八年前の二〇〇五年五月、吉林芸術学院の若き講師、盧雪松は、独立プロのドキュメンタリー映画「尋找林昭的霊魂(林昭の魂を探す)」を授業で上映したところ、学生に密告され、党支部により授業は停止され、教壇から追われた。タイトルの「林昭(本名は彭令昭)」は、北京大学在学中の一九五八年、反右派闘争で右派とされて投獄され、一九六八年に銃殺刑に処せられた。しかも、年老いた母は、娘を射殺した弾丸の費用を払わされた。
 この何重もの人権侵害について、私は共同編集長の一人として『藍・BLUE』第二十号で「観察中国(チャイナ・ウォッチ)」の特集を組み、その不当性を明らかにし、また言論や表現の自由の意義を提起した。そして、崔氏は前々から盧雪松事件を見守り続け、「盧雪松事件」と「公共表現の自由と責任」の二篇を寄稿した。その後、彼女は二〇一〇年に独立中文筆会(独立中国ペンクラブ)の第六回林昭記念賞を受賞したが、治安当局の妨害で授賞式には出席できなかった。
 このような私たちが、ようやく会えたのだが、しかし、喜ぶ暇もなく、崔氏が講演する市民「サロン」の会場に急いだ。

二、市民サロン「燕のたより」の歩みと趣旨

2013年01月、新公民運動のNGOで「自由、公義、愛」を呼びかけるTシャツ。

◀2013年01月、新公民運動のNGOで「自由、公義、愛」を呼びかけるTシャツ。

 この市民「サロン」は、特定の組織ではなく、独立した立場の人々が自由に語りあい、お互いの意見を尊重し、質の高い議論を交わしつつ、現場から発信されている生き生きとした情報を共有し、新たな公共空間の創造を目指す場(プラットホーム)である。
 発足は二〇一一年三月で、独立精神を有する作家、中国民主化や民族問題の研究家の王力雄の来日を契機に、市民の力で講演と対話の会を開いた。その後も、天安門事件で亡命したが、一党独裁に対して道義を貫き通そうと海外民主化運動の最前線で強靱に闘い続けている茉莉、上海を拠点にソーシャル・メディアを駆使し、八年間も連日、市民的不服従の最新情報を発信する呉洪森、中国「公民社会(civil society)」の形成を進めようと第一線で地道な努力を積み重ねている中国地方都市NGOの代表、また、変わりつつある中国の最新動向を伝えているユニークな日本人ジャーナリストなど、多彩な顔ぶれでトークや対話の集いを開いてきた。
 この参加者には、右から左まで様々な意見を持つ市民、研究者、在日中国人、台湾人、モンゴル人、チベット人留学生がおり、中国民主化、民族問題、日中関係の現状と未来などをめぐり、お互いに真正面から切り込もうとして侃々諤々の議論が起きることもしばしばである。
 そして、今年の一月十九日には、手弁当で崔衛平氏の講演会を開くことになった。

三、公共知識人としての崔衛平氏

 崔衛平氏は北京電映学院の元教授で、ヴァーツラフ・ハヴェルの論集を中国語に翻訳するなど東欧知識人を研究するとともに、言論の自由や民主化に取り組む「公共知識人」の一人である。この「公共知識人」とは知識、常識、見識、胆識、賞識(他者の意見に耳を傾ける)を備え、また体制の内外に関わらず、社会を批判し、改革する思想をもって、公共性の高い社会問題について自由に積極的に発言するなど実践に努める知識人であり、ニュー・オピニオン・リーダーとしても注目されている。
 他方、このようではない知識人は、ただ知識を溜めるだけなので「公共トイレ」と揶揄されている。そして、崔氏は、二〇〇九年度、「共識(共通認識)」というリベラル派ウェブサイトにより「公共知識人」に選ばれた。
 また、崔氏は「〇八憲章」の最初の署名者で、劉暁波が拘束されると、十二日に、署名者有志の一人として、彼の釈放を求めて「我々と劉暁波を切り離すことはできない」という声明を発表した。さらに、友人や知人に電話やメールで劉暁波拘束の所感を尋ね、それをコメント付きで発信し、これは「抗議活動」というより「パフォーマンス・アート(行為芸術)」だと呼ばれて注目された。
 二〇〇九年三月には、平和的に人権運動を進める人を表彰するチェコの「“人と人”人権賞」が、劉暁波はじめ「〇八憲章」署名者に授与され、プラハで開かれた授賞式には、署名者全員を代表して改革派哲学者の徐有漁や劉暁波の弁護士の莫少平とともに出席した。
 そして二〇一二年、世界人権デーの十二月十日を前に、劉暁波が拘束された八日に合わせ、中国国内のリベラル派知識人たち四二名が劉暁波の有罪判決は基本的人権の侵害であり、政治を改革し人権保護条項を実行することなどを求める公開書簡を発表したが、この発起人の一人であった(他に天安門事件で親族を失うが独自に粘り強く真相究明を続けている「天安門の母」グループ代表の丁子霖や改革派法学者の賀衛方たち)。

四、日中関係のイバラの道 “市民「サロン」での講演”

ウェイボーで公表された写真。支給された同じ弁当を食べる反日デモ隊員。

◀ウェイボーで公表された写真。支給された同じ弁当を食べる反日デモ隊員。

 崔氏は、まず一枚の写真を両手で掲げ、静かだが鋭いウィットを込めた口調で「戦争と平和と記憶」について語り始めた。以下、彼女の講演の要旨を紹介する。
 この写真の人物はヒロシマの原爆被害者の第二世代で、自分は抗日戦争(日中戦争)被害者の第二世代である。ともに「戦争と記憶」は人生の大切な足がかりであり、個々の人命を犠牲にする戦争の歴史を繰り返さないようにと、二人で語りあった。
 この点から、日本の尖閣諸島国有化に抗議する反日デモを考える。確かに、中国では他の反対運動はことごとく鎮圧されるのに、反日デモが同時に百近い地域で続発したことから、政府が後押ししていた可能性が高い。その参加者については、学生でも、労働者でも、ホワイトカラーでも、知識人でもない、普段の日常生活では見かけない、よく分からない人びと―これこれだと規定できない群衆―が、突然地面から湧き上がったようであった。
 当然、破壊、略奪、放火などの暴力行為にはとても心が痛み、強く反対する。そして、「日中関係を理性的なものに戻せ」と訴える署名活動をネットで始めたところ、法学者、人権活動家、学生、一般市民たちに共鳴が広がり、瞬く間に七五〇名を超えた。
 ただし、反日デモのもう一つの側面には、怒り、憎しみ、不満、恨みなどの対日感情という巨大な氷山の奥底には多大な被害、損害、犠牲、屈辱の傷が凍りついて、冷たくて分厚いかさぶたで覆われているという状況がある。つまり、一九七〇年代の日中国交回復のとき、中国では各単位(学校、工場、病院などの組織)で上意下達の「紅頭文件(中国共産党最高指導部からの命令という書式の公文書)により、民衆の対日感情を強制的に抑え込んだ。そして、民衆は個々の感情を出せないまま、中国政府の代弁で日中友好が進み、戦争の被害に加えて、さらに辛い気持ちを味わうことになった。
 このような日本の侵略に加えて中国政府の権力的な代弁という二重の暴力・圧力は、民衆の心に大きな暗い影を落としている。その中で「日本認識」イコール「日本怨念(怨気)」という「歴史の記憶」が形成されたのである。
 国と国、民族と民族の間の戦争の最大の被害者は、無数の個人である。しかし、個人への賠償はなく、権利や尊厳の回復もない。自分の父も日中戦争で学業は中断され、その微小な運命は翻弄された。父の脳裏にはその悲惨な記憶が焼き付いていて、今回の来日にも反対した。
 ところが、日本が長年ODAで中国を援助してきたことを、ほとんどの中国人は知らない。従って、反日デモは未熟で過激な表現であるが、それでも、二重に封じられ、無理矢理ねじ伏せられた痛切な「歴史の怨念」を解放させるという性質が強く出ていることも軽視できない。この点で、反日デモは言わば民主主義の前夜に向かわせることも可能ではないだろうか。このような意味で「怨念(怨気)」を理解することもできる。
 自分自身について言えば、一九八二年に南京大学で学んでいたとき、初めて南京大虐殺(南京事件)を知り、市政協(政治協商会議)に犠牲者記念館設立の提案書を提出して、採択された。そして、戦争の巨大な惨禍は南京だけでなく広島にもあると認識し、広島を訪問した。それは、広島と南京の記憶を踏まえて日本も中国も民間交流を一歩一歩進ませるように努力すべきだと考えるからである。

五、日本市民の異議申し立て “国家間の条約は無効なのか”

◀2012年11月、鄭州、毛沢東の写真を裂き、タブーを破る青年たち。

◀2012年11月、鄭州、毛沢東の写真を裂き、タブーを破る青年たち。

 講演が終わり、質疑応答になった時、会場はシーンと静まりかえった。この市民「サロン」に集う参加者は、中国民主化の行方、独裁体制が生み出す民族問題の検証、そして日中関係の改善という共通認識がある。
 しかし、戦後の日中民間交流は不十分なため、反日デモで「日本怨念(怨気)」が噴出したことを理解し、日本人は平常心で対応してもらいたいと繰り返す崔氏の話に、どう受けとめたらいいのか、言葉に詰まったようだ。
 しばらくして、半世紀以上、人生の大半を日中民間交流に献げてきた年輩の先生から、二つの質問が出された。
 一つは、一九七二年の国交回復、一九七八年の日中平和友好条約締結から今日までの長期間、「謝罪していない」、「賠償していない」というのであれば、国と国との公式な条約は無効、非合法となるのか、もう一つは、日中戦争(抗日戦争)後の、国共内戦、土地改革、反革命鎮圧運動、大躍進政策、文化大革命などの大規模な惨劇の真相究明や検証に関わり、中国人自身の「歴史の記憶」の検証はどうなるのかという質問であった。
 崔氏は、第一については「もちろん、有効だが、ただし、巨大な戦争がもたらした痛恨極まる個人の体験と歴史の記憶を理解していただきたい」と答えた。
 第二については「確かに中国ではかくも多くの痛ましい難題が山積している。日中間の問題はその中の一つであるが、今、日本にいるので、敢えてこれを取りあげた。また、民主化されたとしても、すべての問題をすぐに解決できるわけではない。将来、民主化が達成された後でも、しばらくの間は依然として両国の信頼感が低い状況が続くだろう。だから、日中間の問題を後回しにせず、少しずつ身近なところから取り組むべきである」と答えた。

六、若い世代の異議申し立て “無知に基づいた「日本怨念(怨気)」”

作家、ブロガーの李承鵬は、新刊『世界のみんなは知ってるぜ』記念サイン会で、挨拶まで発言を禁止されたため、抗議のパフォーマンスで訴えた。2013年01月、成都。作家、ブロガーの李承鵬は、新刊『世界のみんなは知ってるぜ』記念サイン会で、挨拶まで発言を禁止されたため、抗議のパフォーマンスで訴えた。2013年01月、成都。

◀作家、ブロガーの李承鵬は、新刊『世界のみんなは知ってるぜ』記念サイン会で、挨拶まで発言を禁止されたため、抗議のパフォーマンスで訴えた。2013年01月、成都。

 次に、日本の身の回りのできごとを、インスタント・メッセンジャーの「QQ」などニューメディアを駆使して発信する若い世代の在日中国人が幾人か異議を唱えた。以下、それを要約する。
 私は崔先生と世代が違う。私の心には「日本怨念(怨気)」などない。先生の話には被害者意識がなお強く残っており、これに基づく「理解」、つまり「ワケあり」の「理解」を求めている。このため賛同できない。
 日本に来てわずか数年だが、日本人のイメージは、中国の愛国教育で仕込まれたものと全く違う。日本はすばらしい国である。
 また、日本は比較的正常な、普通の国だから、一般に国民は常識的に多元的に考えられる。しかし、中国人には自己中心的な見方が強く、ここからまさに無知に基づいた「日本怨念(怨気)」が生まれる。
 まるで、子どもが隣の家から盗んだとき、「うちの子は昔いじめられて性格がひねくれているのよ。理解してね」と、盗みがまちがいであるという事実を正視せず、過度に子どもを溺愛してかばう母親のような考え方だ。
 崔先生は、問題を二階、三階から見ていて、一階や土台・地層にある本質を見抜いていないと思う。特に地層には数千年の専制主義が沈殿しており、それが土壌の質となっている。
 これらを崔氏は共通点や相違点を考えつつ、うなずきながら聞いていた。そして、最後に関西で発行する中国語新聞社からの求めに応じて、「未来を期待できる中国のためにともに頑張りましょう」と書いた色紙を贈った。

七、南方週末事件 “公民社会形成のためのトレーニング”

 中国問題研究者の石平氏は「今回の南方週末事件は、中国における言論の自由に何らかの変化をもたらすか」と質問した。崔氏は、そうだろうと答えた。
 そして翌日、この点について私たちはより深く議論した。
 まず第一に、七年前の「氷点週刊事件(中国の歴史教科書には思想的な偏りや事実の誤認があると指摘した論文を掲載したため、発行が一時停止、編集長たちが解職)」と似ているが、異なる様相もある。「南方週末事件」では、前のように「堂々と」抑えつけられず、編集者や記者が新年の休暇で不在の隙をついて、突然、記事書き直しの命令が編集長に電話や呼び出し伝達するという姑息な策謀が使われた。伝統的な「紅頭文件」ではなく、文書として残さず、極秘裏にこそこそ働きかける「地下工作」の手法が使われた。
 第二に、編集部とOBたちが、党宣伝部部長の辞任を求める抗議の公開書簡を発表したが、「氷点週刊」の時のように職を追われる者は一人も出なかった。これほどの抗議は、天安門民主化運動における一九八九年四月の『世界経済導報』発禁事件以来だが、その時は欽本立編集長が職務停止処分を受けた。
 第三に、「南方週末」本社前で抗議する市民の一部が治安当局に連行されたが、数日後には釈放されるか、地元に強制送還された。かつてのように「国家政権転覆煽動罪」など無実の罪を着せることなどなかったようだ。
 第四に、北京の「新京報」や河南の「東方今報」など他のメディアに連帯の動きが現れた。前者は、共産党の意向に沿った紙面で「宣伝部の番犬」と呼ばれる「環球時報」の社説を転載することに抵抗し、後者は「南方週末」の題字を一面に掲げて公然と支援した。
 第五に、最も注目すべきは、連帯が社会の各方面に広まったことである。数百万のフォロワーを持つ不動産王の任志強、グーグル・チャイナ元総裁で『微博改変一切』の著者でもある企業家の李開復、女優の李氷氷、台湾出身の歌手・伊能静たちが支援し、その大きな発進力で話題が広がり、「南方週末」にとって追い風となった。
 第六に、これらから「南方週末事件」は権利意識に目覚めた人びとにとっては「公民社会(civil society)」形成のための一種のトレーニングとなる。
 これらを踏まえると、厳重な言論統制に風穴をあけることができるように思われる。実際、以下の戯れ歌がネットで最も流行っている。

 お前ら(民)が十人なら、おれたち(官)はお前らを消滅する
 お前らが百人なら、逮捕する
 お前らが千人なら、追い払う
 お前らが一万人なら、何もできない
 お前らが百万人なら、おれたちはお前らに加わる

 また、非暴力の低いコストで持続的な抗議活動を次々に展開し、それによる量的な変化を質的な変化に転化させることができると語られている。この質的な変化について言えば、一月八日、「南方週末」本社前で、広州民主行動派が「我々はかつて利益のために抵抗した。生存権や土地所有権のために強制収用に抵抗した。また労働権、医療保障権、教育権など社会権のために闘った。そして今や、言論、表現、集会、結社など自由権のために闘っている」という演説が注目される(ネットで広まる)。生存権、社会権、自由権と、「権利のための闘争」(ルドルフ・イェーリング)の質的な発展が見られるのである。
 民主主義は、それを担うだけの力量が求められ、崔氏の言うとおり「トレーニング」は絶えず必要なのである。これにより成長・発達した市民によってこそ民主主義が実現できる。たとえ、その力量が強大な政権に比して一本の麦わらのようであっても、一本一本と積み重なれば巨大なラクダでも押しつぶすように(中国の俚諺)、独裁体制を崩壊させるだろう。

八、日中間の民間チャンネルのために

 市民「サロン」から一夜明けて、翌日、私は崔氏の京都観光に同行し、嵐山、金閣寺、銀閣寺などの観光の間隙を縫うようにして、様々な問題について語りあった。その中で、中国人の「ワケあり」の「日本怨念(怨気)」を解消するための民間チャンネルを開通するうえでの鍵が取りあげられたので、ここで述べる。
 つまり、確かに「反日」の再燃は、今もなお生きた歴史として日中相互のイメージに悪影響を及ぼしているが、それとともに、インターネットにより、これまで沈黙を強いられていた中国民衆は真実を知り、発言する場(プラットホーム)を得ることができ、そこに自立した市民の創出の可能性を見ることが重要である。
 そして、双方ともこの問題をタブー視せずに議論しあうことが重要である。具体的に言えば、中国側では日本側の意見に理解や共鳴を示す者を売国奴と見なさないこと。日本側では、中国政府から独立した文字通りのNGO(非政府組織)であることを確かめて交流・支援することを通して、中国市民と手を繋ぐことが重要である。
 今日では、「新低層」の不満だけでなく、中産階級でも不満が噴出している。その中で、李開復や任志強など、公共性の高い社会問題に関して積極的に発言する私営企業家を日本に招聘する。現代中国で最大の民間パワーと言えば、私営企業は、ニューメディアのウェイボーと並ぶ双璧である。
 このような人たちが日本社会の現実に触れ、市民と交流していけば、歴史と現実を受けとめつつ相互理解をさらに広げることができるだろう。それこそが建設的で実践的であると言える。

九、市民「サロン」の役割 “多様な意見の交換”

 二〇一二年十一月、中国の有識者七五名は、憲政に基づく共通認識、合意形成を提唱した。これは「〇八憲章」への呼応であり、また新しく発足した習近平体制の方向性を見極める試金石ともなっている。
 様々な立場や意見があるなかで、言論の自由、司法の独立、汚職・腐敗を取り締まる清潔な政治、社会の自治(例えば労働組合、農協、学会など)、出産の自由(一人っ子政策の問題)、移動の自由(都市と農村の戸籍区分の問題)などはベースライン(基準線)で、左も右も、官も民も、また国内外を問わず合意できるものである。
 そして、共通認識、合意形成を提唱する中国の有識者、公共知識人に照応して、様々な意見を持つ人が集うこの市民「サロン」が存在することの意義は大きい。実際、先述したように在日中国人から我が身を炎として抗議する焼身自殺が続発するチベットの留学生まで集い、対話の糸口が見出せるとても貴重な場(プラットホーム)となっている。
 旧ユーゴスラヴィアの作家で、一九六一年に「自国の歴史の主題と運命を叙述し得た叙事詩的筆力」(スウェーデン・アカデミー)によりノーベル文学賞を受賞したイボ・アンドリッチは晩年「この世のすべては橋です」、「微笑みも、溜息も、まなざしも。なぜなら、この世のすべては架橋されること、向こう岸に至ることを願っているのです。つまり、他の人びとと理解し合うことを熱望しているからです」と語った(田中一生訳『ドリーナの橋』大学書林、一九八五年、xxiii頁)。ところが内戦が起き、いくつもの国や地域に分裂してしまった。
 そして、私は二〇〇三年八月、内戦の跡が生々しいベオグラードを訪れ、アンドリッチの記念館を見学し、彼の書斎にたたずみ、「向こう岸に至ることを願っている……他の人びとと理解し合うことを熱望している」という彼の言葉をしみじみと噛みしめた。東洋と西洋、またカトリックと正教とイスラムが接し、多くの民族が混在し対立しあうボスニアに生まれ育ち苦しんだにも関わらず、このように語ったアンドリッチはどのように思うかと考えたが、分からなかった。
 それは今でも同じである。この分からない思いを胸に、市民「サロン」に向かっている。

コラムニスト
劉 燕子
中国湖南省長沙の人。1991年、留学生として来日し、大阪市立大学大学院(教育学専攻)、関西大学大学院(文学専攻)を経て、現在は関西の複数の大学で中国語を教えるかたわら中国語と日本語で執筆活動に取り組む。編著に『天安門事件から「〇八憲章」へ』(藤原書店)、邦訳書に『黄翔の詩と詩想』(思潮社)、『温故一九四二』(中国書店)、『中国低層訪談録:インタビューどん底の世界』(集広舎)、『殺劫:チベットの文化大革命』(集広舎、共訳)、『ケータイ』(桜美林大学北東アジア総合研究所)、『私の西域、君の東トルキスタン』(集広舎、監修・解説)、中国語共訳書に『家永三郎自伝』(香港商務印書館)などあり、中国語著書に『這条河、流過誰的前生与后世?』など多数。
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