はじめに
「日拱一卒、為民発声」は、四川省の作家、冉雲飛の座右の銘であり、その意味は、日々、一「卒」として少しずつ前に推し進め、民のため声を発するということである。これは、学者、思想家の胡適の「日拱一卒、功不唐捐」にならっており…
この「卒」にはいくつかの意味がある。「卒子」は中国の将棋のこまの名称で、日本では「歩」に相当する。「卒」は前に一つずつ進め、敵陣に入ると横に一つ動けるが、後退はできない。「卒子過河、有進無退」という成語があるように、「卒」は川を渡り背水の陣で戦うように前に進む他ないのである。また「卒」が最下層のこまであるように、「走卒」は走り使いの者を指す。そして、冉雲飛は「卒」のように、社会の低層で生きる「民」の立場で闘い、日々、倦まず弛まず少しずつ前に進もうと努力している。
私が初めて冉雲飛を知ったのは、廖亦武の『中国低層訪談録』の中の「書籍収蔵家冉雲飛」においてであった(1)。それによれば、冉雲飛は一九六五年に四川省西陽に生まれた。彼は少数民族の土家族の貧しい農民の出身だったが、四川大学を卒業してから、政府関連機関の四川省文芸聯合会傘下の四川省作家協会に配属され、作家協会の機関誌『四川文学』(月刊)の「思想随筆」というコラムを担当した。
(1)『中国低層訪談録』は二〇〇一年に長江文芸出版社から刊行され、大反響を呼び起こしたが、まもなく発禁処分とされ、関係者には圧力が加えられた。この日本語版は劉燕子訳『中国低層訪談録』として集広舎から二〇〇八年に刊行されたが、そこでは紙数の制限により「書籍収蔵家冉雲飛」を訳出しなかった。
1.逮捕、投獄
二〇一一年二月二〇日、日曜日、午後三時ころ、冉雲飛は自宅で成都公安局に逮捕された。説明などなく、全く状況が分からないまま、家族や友人は気が休まらない日々を過ごした。これは当局の常套手段である。
二四日になり、ようやく公安局は冉雲飛が民主化などを求める「中国茉莉花(ジャスミン)革命」の集会を組織したとして、「国家政権転覆」の容疑で逮捕したと家族に伝えた。ただし、一カ月後の三月二五日付の逮捕状では「国家政権転覆煽動罪」に変えられていた。
この「中国茉莉花(ジャスミン)革命」について説明すると、チュニジアで、二〇一〇年一二月一七日、失業中の青年による抗議の焼身自殺を発端に反政府民主化運動が高まり、政権が倒れ、さらに民主化運動は中東全域に広がり、エジプトでも政権が倒れた。これはチュニジアを象徴する花であるジャスミンを用いて「ジャスミン革命」と呼ばれた。それに対して、中国政府は情報統制を強め、「ジャスミン革命」の中国語訳の「茉莉花革命」は即座に厳禁とされ、さらに「ジャスミン」、「チュニジア」、「エジプト」、「ピラミッド」などが検索できなくされた。なお、「茉莉花(ジャスミン)革命」については、「つばめの便り」の「茉莉花(ジャスミン)の物語」で述べてある。
冉雲飛は『四川文学』の編集者であることを頼りに、冉雲飛の妻、王偉は、文聯(文学芸術聯合会の略称)や作協(作家協会の略称)は力添えをしてくれるだろうと期待して、作協の高級マンションの前でひざまずき懇願した。そかし、そこには数百人という規模の作家とその家族が住んでいたが、みな目をそらして通り過ぎた。
私は、このことを廖亦武から知らされたが、あまり驚かなかった。冉雲飛の前に、二〇一〇年六月、やはり四川省の作家で「〇八憲章(2)」署名者の劉賢斌は「国家政権転覆煽動罪」で一〇年の重刑を科せられた。また、四川省の夕刊紙『成都晩報』で二〇〇七年六月七日に一行広告「向堅強的64遇難者母親致敬(天安門事件犠牲者の不屈の母に敬意を表する)」を載せた陳衛も、二〇日の「茉莉花集会」の情報を転載したことで、身柄を拘束された。しかし、一人も顧みなかったという強い者になびき、弱い者に冷淡な風潮には呆れ、別の意味でショックを受けた。ただし、この点について、日本の読者には説明が必要である。
中国では作家や文筆家は作協に所属し、先述したように作協は文聯の傘下に置かれている。そして、作協に所属すれば、政府から給与を支給される。さらに、作協の所属が認められれば、取材などが容易になり、発表の機会も増える。それは作家にとって好都合のように見えるが、実際は言論統制と利益誘導で体制の意図に沿った文章を書かせる仕組みになっている。文章は体制の基準で評価され、それが各種の文芸賞や名誉職と結びつくため、作家として活躍するためには党と国家が喜ぶ文章を書かなければならなくなる、こうして作家は次第に精神を骨抜きにされ、従順になる。
従って、作家が自分の信念に従って文筆活動をしようとするならば、この体制から離れなければならない。しかし、離れれば発表の場を失うだけでなく、生計の道を断たれる。つまり、体制から独立して自由な文筆活動をすることは日本のフリー・ライターとは全く異なるのである。
確かに、中国でも一九九〇年代からフリー・ライターに似たような者が現れ、既成の価値観にとらわれない文章を発表し始めたが、それでも体制の根幹に関わる批判はインターネットや台湾、香港などで発表できるだけである。しかも、その程度でも弾圧の危険が常につきまとう。それに抗して、なおも言論の自由や真実の究明を求めれば、国家政権転覆煽動や国家機密窃取や誣告・誹謗中傷などの罪を着せられ、その容疑だけでも拘束される。日常生活まで絶えず監視され、ささいなことでも罪状に使われる。
従って、このような独裁体制に対して抵抗しないとすれば、飼い馴らされて従順になるか、せいぜい何も言わぬ沈黙の民となるぐらいしか選択の余地はない。しかし、これでは言論活動はできない。つまり、体制を代弁する御用作家になることを拒否してなお作家であろうとすれば、体制を批判せざるを得なくなる。このような意味で、中国において反体制は、言論の自由、それと不可分の民主や法治などと密接に関連しているのである。例えば、民主的な国や地域で既にある普通選挙を求めることが、中国では「反体制」とされるのである。都市とその周辺の経済成長の豊かさに目を奪われて、この現実を見過ごしてはならない。
このようなわけで、私は作協が冉雲飛を支援するとは思わなかったが、それでも作協の高級マンションには数百人の作家や家族が暮らしているはずで、誰一人として振り向かなかったという冷淡な状況に呆れたのである。
確かに、この状況には一定の理由がある。事実上の一党独裁体制の中国では、政治的な問題で国家の敵とされると、当人だけでなく、子供を含めて家族や親族まで連座され、社会的な差別を受け、その悲惨な境遇は想像を超えるものである。しかし、これもまた人間を自立した存在と見ずに、血族・血縁を基準に考える前近代的な観念の所産であり、それが独裁体制を支えているのである。
(2)「〇八憲章」については、劉燕子編『天安門事件から「〇八憲章」へ』(藤原書店、二〇〇九年)を参照。
2.鋭い批判精神を持つ作家、研究者
冉雲飛は「李反動」というペンネームを使い、書斎を「反動居」と名づけ、自由な言論を「反動」として弾圧する共産党政府に対して鋭い批判を次々に発表してきた。
日本では「反動」が旧体制に戻るという意味で使われるが、中国では共産党が権力を掌握すると、政府に反対・批判する者に「反動」のレッテルを貼り、それを「反革命」に結びつけ、無数の人々を処刑、投獄してきた歴史があり、そのため、この「反動」を敢えて使うことは共産党体制に対する痛烈な批判と抵抗が含意されている。
そして、彼は作家、研究者として、真摯に現実を正視し、問題に取り組み、旺盛に著述活動に励んでいた。著書には『荘子我説』、『沈?:中国教育的危機与批判』、『通往比復帝国』、『像唐詩一様生活』、『陥穽里的先鋒』、『尖鋭里的秋天―里?克―』、『従歴史的偏傍侵入成都』、『呉虞和他生活的民国時代』など多数ある。この中の『沈?:中国教育的危機与批判』(南方出版社、海口、一九九九年)では、中国の教育における腐敗や暗黒面を明らかにし、教育は独裁政権の共犯者の訓練にすぎないと批判した。後述するネットにおける言論活動は、このような教育=教化に対する強烈な抵抗となっている。
また、彼は書籍の収集家で、数万冊の蔵書がある。その中には古典文学や「線装本(日本の和綴じ本に当たる)」の古書、および「一九四九年以後の中国独特の政治運動において共産党に真心を示す」ために書かれた「自白書」、「反省書」、「自己批判文」、「交心文(心の底をうち明ける文)」、また当局の「検挙書」、「摘発文」、「罪状」、「起訴文」、「判決文」、さらに「上奏文」、「保証書」、「誣告文」、また「積極分子」への「賞状」、その逆に失脚した者の「名誉回復文」などの実物も収集している。そして、これらは彼の歴史研究の基盤となっている。
このような冉雲飛は、「冉匪」、「冉雑」、「冉飯桶」などと呼ばれている。「冉匪」は、彼の故郷が四川省、湖南省、湖北省、貴州省の境界にあり、辺鄙な土地は痩せ、しばしば匪賊が出没することに由来する。匪賊とはいえ、その中には自由を愛し反骨精神があるために権力に追われて、やむを得ず匪賊になった者もいる。このような者たちには、最下層の粘り強い強靱な生命力が満ちあふれている。だからこそ、冉雲飛は鋭い批判をゲリラ的に発するのである。
また「冉雑」は、彼が雑種文化こそマージナルな立場から中心の「正統」とされる思想に抵抗するための強靱な精神が存在すると主張しているからである。そして、「冉飯桶」の「飯桶」は米びつで、彼は大いに食べ、大いに飲み、そして大いに発言するためである。
3.四川省の反骨精神
四川省は反骨精神を堅持する剛毅な知識人が輩出する土地で、今日でも、気骨ある知識人が多く輩出している(3)。先述した『中国低層訪談録』の著者の廖亦武はその一人で、最低層の無告の民から本心を聞き取り、オーラル・ヒストリーとしてまとめている。余傑は該博な知識をもって多方面で鋭い批判を発しているリベラル知識人である(4)。また、王怡は元成都大学教員(憲政学)のリベラル知識人であるとともに、繰り返し弾圧されながら信仰の自由を求め続けるクリスチャンでもある(5)。
さらに、黄琦は民衆の権利擁護のために「弱者と共に歩む」をモットーにしたサイト「天網人権事務センター」を運営している。その中で天安門事件のときに成都で検挙され拘留中に死亡した十五歳の若者について文章を発表したため「国家政権転覆煽動罪」で懲役五年の刑を受けたが、出獄後にサイトを再開した。そして、このような人権擁護活動が高く評価され、二〇〇六年にヘルマン・ハミット賞などを受賞した。また、四川大地震では多数の児童が校舎倒壊で犠牲となった手抜き工事(「おから工事」)を批判して、二〇〇九年六月十日、公安当局に連行された。
『文化人』誌の元編集長で環境保護活動家の譚作人は「おから工事」を調査し、崩れた学校の下敷きになり死亡した子供たちの名前を確認していたが、二〇〇九年三月「国家政権転覆煽動」の容疑で拘束された。そして、この「おから工事」は、冉雲飛や艾未未(6)たちも調査していた。
このような四川省で、とりわけ独特で強烈な反骨精神を持つのが冉雲飛である。従って、逮捕、投獄も覚悟の上であった。これは、余傑たちも認めるところである。
(3)貴州省も似ており、これについては「希望は『民間』にあり―人間として生きつづけるためには代償を払わねばならない―」『環』二〇一一年冬季号で述べた。
(4)前掲『天安門事件から「〇八憲章」へ』「アジアにおける『〇八憲章』の意義」の筆者。
(5)同前、一四三頁、二〇四頁参照。
(6)「鳥の巣」で知られる北京五輪のメイン・スタジアム(国家体育場)の芸術顧問となるなど国際的に著名な芸術家。彼については後述する。
4.冉雲飛との出合い
私は二〇〇九年一二月二五日、成都を訪れた。二〇〇〇年に四川省の文革期地下文学の調査研究のために訪れてから五度目であった。成都には、敬愛する流沙河・呉茂華夫妻や廖亦武、余傑、王怡たち親友(老朋友)がいる。
この二五日の午前には、「〇八憲章」起草の中心的存在で、言論弾圧で投獄された劉暁波(二〇一〇年のノーベル平和賞受賞者)に一審判決が下されたが、それは数秒後には世界各地に知れ渡り、様々な抗議がなされた。冉雲飛は、知識人たちと「西南地区部分人士就当局重判劉暁波博士的厳正声明」を公表し、劉暁波の逮捕の不当性を訴えた。
そして翌日、私は成都で、この判決について冉雲飛、廖亦武、余傑、王怡たちと議論した。みな「〇八憲章」発表時の署名者である。
冉雲飛は丸刈りの頭で、大きな目をくりくりさせて話しはじめた。私たちは会食しながら語りあったが、冉雲飛はよく食べ、よく飲み、活発に発言した。彼は様々な問題を取りあげては、舌鋒鋭く批判を展開した。
その時、香港では二一名の「〇八憲章」署名者たちが集団で深?の羅湖に行き「中国共産党の司法当局が言論表現を犯罪と定めるなら、劉暁波と共に罪を負う」と“自首”した。その中の最年少は十六歳であった。この行動に対して、二一名のうち黒いテープで両腕を縛り、「〇八憲章署名者」というプラカードを背負っていた四名が拘束されたが、当日の夜に釈放された。記者会見では「劉暁波や〇八憲章など知らない。有効な入境証明書がないために拘束したのだ」と釈明されただけであった。この時も、冉雲飛は携帯電話を駆使して無数の署名者や支持者と緊密に交信し、大きな支援と共闘の輪をつくった。私は彼の横にいて逐次状況の推移を知ることができた。
この他にも、冉雲飛は、上海出身の人権活動家の馮正虎が八度も中国政府から帰国を拒否されたことに抗議して、成田空港内制限エリア内で「籠城」生活を続けていたことをツィッターなどで支援していた(7)。このように、冉雲飛は官制メディアに対して緊張に満ちた苦闘を続けていた。そして、彼は「透明性や開放性を目的としたツィッターはお互いの理解が深まり一体感が形成され、言論の公共空間が広がり、これはジャーナリズムの新たな可能性を切り開くものだ」と強調した。
これに対して、廖亦武は「確かにネットのユーザーは数億人もいるが、その中で十億の農民がどれほどいるか? しかも農村のユーザーは主にゲームや低俗で卑猥なサイトを見ているだけだ。ツィッターやユーチューブなどはまだアクセスさえできず、発言権を獲得しようがない」と発言した。この点は、冉雲飛も充分に承知していた。その上でなお、彼は「日拱一卒」の姿勢で、あくまでも抵抗し続けるのである。
このような議論の合間に、私は藤原書店から出版したばかりの『天安門事件から「〇八憲章」へ』を手渡した。彼は子どものように無邪気な笑顔を見せて大喜びした。
(7)馮正虎は空港を通過する支援者が差し入れするなど、様々なかたちで支援されたが、ネットでは内外から約一万五千人のユーザーが支援した。その後、彼は二〇一〇年二月三日に帰国を達成した。
5.ネットにおけるオピニオン・リーダー―一党独裁への抵抗―
冉雲飛は作家、研究者だけでなく、ネットでニューメディアを駆使して発言するオピニオン・リーダーであり、また環境問題に取り組む実践者でもある。特に、携帯電話を十二分に使いこなし、毎日、中国で起きた事件を収集し、ミニブログのツィッターで発表しており、内外からとても注目されていた。
彼は、二〇〇四年から「新浪」、「捜狐」、「網易」、「牛博網(8)」などの民間ポータルサイトで毎日情報や意見を発信するようになった。さらに、いくつかのチャット・ルームにも出入りして、積極的に発言した。特に「牛博網」では、人気ブロガーとなった。
また自らツィッターを活用して「一五一〇ブログ」、「牛博ブログ」、「独立ブログ」、「主ブログ」、「匪話連篇(9)」を創設し、ネット・ユーザーが意見を交換しあう場を形成した。特に「匪話連篇」は有名で、五年間、日々変化している情勢をブログに掲載し、それを個人の記録としてまとめネットで公開している。それらはしばしば当局に閉鎖され、時にはプロバイダーまで検閲の対象とされるため、プロバイダーをアメリカと日本の大阪に移したという。二〇〇八年一二月には、「牛博網」のブログが厳重に封鎖されたため、「捜狐」、そして「徳賽」で新しくブログを開設していた。
このような冉雲飛をフォローするユーザーは一万から二万人で、ブログへアクセスするユーザーは数万人という。しかし、中国全体でユーザーは数億を数えており、割合で言えばとても少ない。それでも、この少数派のユーザーが様々な方法により、少しずつ自由な言論の場を広げている。そのために「翻墻」と呼ばれる方法が使われている。この「翻墻」は、当局がウィルス対策を名目にしてネットの規制を強化するために設けた「国家ファイアウォール(国家防火墻)」に対して、その「ウォール」=「墻(壁)」をひっくり返す、また乗り越える=「翻」という意味である。例えば、いくつものサイトを迂回して、「封鎖」されたサイトにアクセスしている。さらに、最先端技術を活用した「反封鎖」ソフトを使い「封鎖」を突破する者も増えている。 このように、いわば情報のゲリラ戦が広がって、政権がその動勢を押し返すことは困難になっている。それは、あたかも実力伯仲の双方が一手一手で一進一退する碁の対局のような状況であり、その中で自由や民主を求める動きは新たな展開を示している。
これに対して中国政府は二〇〇九年六月、「ポルノ退治」の「インターネット・フィルタリングソフト」の名目で検閲ソフト「緑?(グリーンダム)」をパソコンに登載することを義務づけると発表したが、ユーザーやメーカーの猛反対に遭い、八月には見送ると表明した。しかし、その後もプロバイダーに「藍盾(青い盾)」義務づけようとしている。これもまた、ネットを監視して、当局が「有害」と見なす情報を統制するためである(情報統制の手段は他にも様々ある)。
しかし、スカイプやQQ(中国で最も普及しているインターネットのソフト)などによる情報化のうねりは凄まじく、いかに統制しても水面下におけるネット世論は日増しに激しくなっている。これに対して、数万人とされる「ネット警察(網警)」は、HP、ブログ、チャットからパソコン内の文章や通信まで監視し、盗聴しているという。ジャーナリストで、詩人の師濤は、二〇〇四年にヤフーでメールをアメリカに送信したが、ヤフーは師濤の個人情報を中国当局に提供し、このため師濤のメールは検閲され、「海外に国家機密を不法に提供した」という理由で逮捕され、禁固十年の刑を受けた。
今日では文字の検閲を強化するだけでなく、画像まで検閲しているという。さらに、数千万人のブロガーに対して、検閲や封鎖だけでなく、ユーザーを装って書き込み、議論を誘導している。そのために大量の「ネット評論員」を雇っているが、「五毛党」と嘲笑されている。「ネット評論員」にはリストラなどで仕事を失った者が多く、書き込み一回につき出される「五毛」で当局に使われているからである(「毛」は貨幣単位の「角」で、「角」は「元」の十分の一)。政府は経済成長を強調しているが、金融危機の影響は大きく、湖南省では「一毛党」まで現れたという。
このような情報統制下で、天安門事件を示唆する「六四」の数字さえ使えないが、これに対しては、「八八」を(八×八=六四)などが使われている。他にも「劉暁波」の代わりに「劉少奇波」を、「〇八憲章」の代わりに「〇八県長」を使い、また一部の漢字を発音記号に変えて、漢字と記号を織り交ぜる等々、様々に工夫されている。この動勢に関して、冉雲飛は、次のように述べた。
「西側のミニブログでは日常生活の細かいつぶやきが多いが、中国では時事問題、人権問題、“公共事件(多くが注目する事件)”などに強い関心が寄せられている。ネット・ユーザーは次々にフォローしてミニブログのコミュニティを形成し、それがネットにおける自由な言論の場となる。そこでは時事問題から歴史認識の再考や公民社会の要求まで議論されている。一般市民が、記者となり、またオンブズマンとなり、ミニブログを通して突発的事件を現場中継し、そこで表明された当局への異議申し立てを貫徹させようとする。まさに、公民精神に基づいて社会を変えることで、中国の政治空間の間隙を広げている。それはまた官権の情報統制や言論弾圧を漸進的に弱め、また人々の恐怖心も取り除いている。これは公民の不服従運動の一つだ」
なお、冉雲飛は、テレビ放送に対しても、二〇〇九年一月、学者の凌滄洲たちと共に二二名の連名で「抵制央視、拒絶洗脳(国営放送の中国中央テレビ、CCTVをボイコットし、洗脳を拒絶する)」という声明をネットで公表した。そこでは、CCTVが転換期の社会矛盾に関して「失語症」の状態にあり、重大な突発的事件や民衆の集団的抗議行動を隠蔽する一方で、外国に関しては暗部ばかり報道しているなど七つの問題が指摘され、これでは「ニュース」というより「プロパガンダ」であるため、「CCTVのニュースやネットの報道などを見ない、アクセスしない、聞かない、語らないという四つのノーという行動をとる」ことが提起された。情報統制への抵抗、批判が、ネットを超えてテレビにまで迫ることが目指されていた。
(8)政治や社会の改革を通して公民社会の実現を目指すことを趣旨としていて、改革派、リベラル知識人、人権擁護活動家たちが交流している。
(9)匪賊の話の連載という意味。「匪話」はむだ話を意味する「費話」と同じ発音。
6.現代史研究―正統化への抵抗―
冉雲飛は、文化史、思想史の観点から、中国の密告の歴史や現状を丹念に研究し、一般的な道徳的な非難ではなく、共産党体制の正統性に痛烈な打撃を与えるものとして「中国の密告の歴史」をまとめようとしていた。これは、独裁体制がいかに暴力と謀略に満ち、どのようにして人間の自由や尊厳を踏みにじってきたのかを明らかにするものであった。それは、現体制が自らを正統化するために真理であるとしてきた歴史を根底から問い直す研究で、まさにミシェル・フーコーが「権力は怪物です、というのは、真理自体が権力だからです」と指摘した問題に取り組む実践であった(10)。そして、この研究に多くが注目し、期待していた。
また、彼は私に『五八劫―一九五八年四川省中学生社会主義教育運動紀実―』(正続二巻)を手渡した。これは正続二冊で九〇〇頁にもなる、貴重な記録集である。ただし、出版社、出版年が記されておらず(続編の後記では二〇〇九年八月一九日の日付が記されている)、いわゆる地下刊行物である。
☜『五八劫―一九五八年四川省中学生社会主義教育運動紀実―』正続
これまでも、私は帰国するたび、様々な立場の人士から政治運動に翻弄され迫害された者の回想録、発禁処分とされた作品、キリスト教、法輪功などの地下刊行物を手渡されてきた。都会から離れた小さな印刷所で密かに印刷され、信頼できる人に手渡されている。印刷所は、公安警察にしばしば急襲され、印刷物が没収されるが、それでも粘り強く立ち直り、また密かに地下刊行物を印刷するようになる。一筋縄ではいかない強靱さがある。
この『五八劫―一九五八年四川省中学生社会主義教育運動紀実―』によれば、反右派闘争末期の一九五八年一月二六日から二月二六日まで、四川省党委員会が直接指令して、卒業前の高校生に「大鳴、大放、大字報、大争弁」というスローガンで徹底的な思想弾圧が行使された。これにより、「反動的立場」から「反党反社会主義的」な発言をしたとされた高校生は「反革命分子」、「悪質分子」であり、敵対的な矛盾があるというレッテルを貼られ、差別され、監視の対象とされ、進学や就職ばかりか、社会生活も制限が加えられた。
これにより迫害された高校生は三二〇〇人にのぼった。一九五八年の四川省における高校卒業生は一万人未満であったから、その三分の一が迫害されたことになる。しかも、文革終息後、全国で九九%の「右派分子」が再審査で誤認とされ、名誉回復を得たが、高校生たちは「右派分子」と明確に認定されなかったため、名誉回復さえ受けられなかった。
冉雲飛はこの歴史に取り組み、二〇年以上も様々な文書や資料を「すくい上げ」、忘れられた民間の記憶から生き生きとした歴史の細部を取り出してきた。ただし、それらは断片であるため、彼は粘り強く断片をつなぎ合わせ、歴史の全体像を導き出す努力を続けてきた。
彼はブログで「後世の人たちに真相を語るのは、年長者の義務である」、「我々はどのようにして年長者に歴史の回想を喚起させるか」などを発表し、二〇〇五年から二〇〇八年まで三年かけて、王建軍たち高校生被害者の回想をまとめ、『五八劫―一九五八年四川省中学生社会主義教育運動紀実―』として刊行した。冉雲飛は「序」で「良識ある知識人、研究者と民間人は協力して一九四九年以後の“中国政治災難学”という学問を打ち立てる」意義を提示し、「イデオロギーの実験がもたらした悲惨と恥辱」のライフストーリーを書き記さなければならないと述べている(11)。そして、彼は理性的に真相を究明して得られる歴史の教訓こそ和解を導き出せるが、しかし現状は、当局と民衆との関係は、犯人と人質が閉鎖的空間で長時間非日常的体験を共有したため生じた「ストックホルム症候群」のような状態になっていると指摘する(12)。つまり、独裁体制下で抑圧され、それに伴い依存させられてきた中国の民衆は加害者である当局に強く共感し、特異な信頼や情愛さえ抱くようになっているのである。
また、人質は警察が突入すると危険が生じるため、突入を望まないように、中国の民衆も現状の改革を望まないようにされている。しかも、体制に依存し続け、飼い馴らされてしまったため、改革により自由を得ても、その自由に適応できない。まさに、あたかも暗黒の闇に慣れてしまい、明るい光に耐えられないようである。
かつて、フランクリン・ルーズベルトは、一九四一年一月六日に一般教書演説で「独裁者たちの恐喝」にひるまず、言論の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という「人類の普遍的な四つの自由」を提起して演説を締めくくった。現代の中国では欠乏からの自由は得られたかもしれないが、言論の自由、信仰の自由、恐怖からの自由はない。そして、この中途半端な状況において、「ストックホルム症候群」に似た倒錯的な心理が現れるのである。
しかし、これは倒錯であり、問題は解決されず、むしろ深刻化している。冉雲飛は「中国では日常生活の中でさえ至る所に不公平や暴虐があふれている」と語る。しかし、これに続けて、彼は、この不当な現状に対して「怒るのは勇気あることで、これをバネにして真相を語ることができる。確かに、これを広げるには力量が求められるが、勇気に加えて、寛容と理性という美徳をもって努力し、それにより和解が得られれば、必ず社会は調和的に発展する」などと力説した。
(10)今井成美訳「権力とはなにか」『現代思想』一九七八年九月号、五五頁。
(11)前掲『五八劫―一九五八年四川省中学生社会主義教育運動紀実―』六頁。
(12)同前、同頁。
7.冉雲飛の知行合一―地に足のついた実践―
冉雲飛は、知行合一の実践者でもある。彼は「作家は行動すべきだ」と繰り返し語った。
具体的に言えば、冉雲飛は、二〇〇八年五月、四川大地震のとき、多くのボランティアとともに被災地に入り、国内外からの義援金や救援物資の配分やジャーナリストの案内などで積極的に活動した。官制メディアは温家宝首相が発言で使った「多難興邦(災いが多ければ国家は興隆する)」をスローガンにして連呼したが、その一方で被災者の本音は取りあげなかった。これに対して、冉雲飛は「断じて民心を避けてはならない」として「死亡した子どもの親が政府に陳情に行くことを阻止できない」などのメッセージをネットで発信した。
この時から、四川省作協の党組織の党員全員と『四川文学』編集長は彼に「集体談話」という集団的な批判活動を始めた。これは「車輪戦」とも呼ばれ、一人に対して次々に相手が変わって激しく批判し、自分が誤っていたと認めるまで続けられるというものである。同時に、冉雲飛は四川省作協が関係するあらゆる刊行物で作品を発表することや編集部のHPなどを使うことを禁じられた。
また、冉雲飛は、岷江の上流で進められている紫坪鋪水力発電所建設の反対運動に加わった。先述した譚作人や艾未未たちと彭州における石油化学工場の建設反対運動にも加わっていた。前者は成都平原を貫流する灌漑用水、農業用水に悪影響を及ぼすためであり、後者は環境汚染や農民の土地問題のためであった。さらに、艾未未とは、四川大地震の「おから工事」でも共闘し、それを容認した当局を追及し、犠牲者の名簿をブログで公表した。
余傑によると、地元当局はこれらに対して逆恨みを抱き、そのため「ジャスミン革命」への取締りを好機だとして逮捕したという。
8.茉莉花革命を目指して
冉雲飛は「茉莉花革命」を広く知らせるために、フォロワーが数万人もいるということを最大限に活用し、自分自身をメディアとして奮闘した。
「ジャスミン革命」が起きると、中国ではツイッターの友(推友)が、簡易型ミニブログ(微博)を通して「茉莉花革命」の情報を広めた。当局の検閲を逃れるために、失脚したエジプト元大統領のムバラクの中国語表記「穆巴拉克」を「木瓜拉克」に変えるなど、様々な造語や隠語が使われた。さらに、散歩という形でデモをしようと「茉莉花散歩」が呼びかけられ、そして、お互いに微笑みで意志を確認しあう「茉莉花微笑」、そのような人たちが集まる「茉莉花集会」などが提唱された。これまで、地下刊行物から、風刺や皮肉、造語や隠語まで、様々な手段を使って強権体制の検閲をくぐり抜けて意見を表明してきた民衆の知恵が、ここでも発揮された。
そして、冉雲飛は連日情勢を見守り、「茉莉花革命」に関する情報を発信し続けた。二月一二日(エジプトでは一一日)、冉雲飛は「毎周一推(毎週のツイート)」で、「中国人民の“老朋友(古いつきあい)”のムバラクは打倒され、タハリール広場は歓喜に包まれている」と発信した。そして、彼は次のように続けた。
「中共独裁政権の“老朋友”は誰でも打倒され、消え失せる。袋小路、破滅の道を歩むだけだ。中共の“老朋友”であるのはコストが高い。もし、不幸にも中共の“老朋友”と呼ばれたら、すぐに事実を明らかにして、厳粛に反論すべきである。お前こそ中共の“老朋友”だ、お前の一族こそ中共の“老朋友”だと。
強大な独裁政権の恐怖政治に抑えつけられ、追いまわされるとき、賢明な人民は身をかがめ、敬い、謹み、こっそりと屁をする。これはエチオピアの諺だ。しかし、ある日、黙々と屁をしてきた人民が、デモ行進をして、これを咆哮に変える」
さらに、コロンビア大学の留学生、孔霊犀の「中国の青年よ、エジプトのドリームに燃えよう」という呼びかけを、冉雲飛はネットで転載した。そして、二月一三日に続き、二十日にも二回目の「茉莉花集会」が呼びかけられたが、その四日前の一六日、冉雲飛はブログで「我々の“飯酔”(13)、我々の献花」を発表した。
(13)「飯酔」は集会が厳しき規制されているため、会食の名目で集まることだが、これさえも犯罪とされる。
9.「我々の“飯酔”、我々の献花」(要約)
二月一二日(現地では一一日)、エジプトの人民は、タハリール広場でムバラク打倒の歓喜に沸きあがっていたとき、遙か東方で、ネット・ユーザーが不眠不休でツイッターやフェイス・ブックなどのソーシャル・ネットワーキング・サービスを通してエジプトが生まれ変わったことに歓声を上げたことなど思いもよらなかっただろう。エジプトの民衆が独裁者を追い払って歓喜する状況を目にしている中国人は、まるで、隣で若いカップルが大喜びで新婚の部屋に入るのを、指をくわえて見ている独り者のようだ。
これはふざけた冗談だろうか。数千年の専制体制の歴史、特に六〇年の独裁体制の現代史を持つ中国にピッタリだ。
実は、この老いさらばえた独り者〔中国〕にも、結婚〔憲政による法治化〕のチャンスは何回もあった。例えば清末の立憲、民国の建国、内戦の直前、一九八九年の天安門事件の前などだ。しかし、残念無念なことに、ご成婚までには至らなかった。
今でも、多くの中国人にとって、二二年前に結婚のチャンスがあったことは記憶に新しいだろう。いくら政府当局が血まみれの武力鎮圧の情報を封殺し、真相を知らせないようにしても、体験までは消せず、その体験者は、二二年前の痛ましい記憶がいつでも呼び起こされる。
ムバラクが打倒される前、多くのネット・ユーザーはエジプト人のために祈った。――タハリール広場が、第二の天安門広場にならないようにと。
しかし、幸いなことに、エジプトの軍隊は、一政党の私有物ではない。他方、中共は「党支部を各中隊に建設」という方式で軍を統制してきた。これは中共に勝利をもたらし、また中国独特の統制支配の道具となった。これは不可分で切り離せない。
中共に比べれば、ムバラクやベンアリ〔追放されたチュニジア元大統領〕などは小学生にも及ばない。中共は軍を強力に組織し、党が銃を指揮してきた。こうして軍は党派の私有物となり、とことんまで堕落してしまった。
この点はチュニジアやエジプトと根本的に異なるが、しかし、たとえ難攻不落のように見えても、代々続くものではない。軍と警察を掌握し、さらに至る所に特務や密告者を配置した独裁政権の統制力を過大に見る者もいるが、実際は万能ではなく、むしろ無能である。
当局は、弁護士、陳情者、言論人など理性的に一定の順序に従って物事を進める人権擁護の活動家は統制できる。しかし、至る所に潜んでいる時限爆弾のような群衆の事件(群体性事件)がいつ火を噴くか、予知するのは難しい。良識のある者は投獄できるが、次の瓮安事件(14)、石首事件(15)が、いつ、どこで突発するのか分からない。「静態的な安定の維持」で監視や統制にエネルギーを使い果たして疲労困憊したとき、燎原の火のように広がる群衆の突発事件にあわてふためいて対処しようとしても、その時はもう間に合わない。すべての独裁者のように、中国の独裁政権がいつ、どのようにして倒れ、中国が生まれ変わるのか、誰も予測できない。
まさに、清の時代、趙爾豊が成都の群衆が起こした事件を誤って処理したことを発端にして、一〇月一〇日に武昌起義が勃発し(16)、それが清朝滅亡に至ったという連鎖反応の歴史を思うべきである。確かに、今日の監視と統制は清朝の時代よりも強力だが、インターネット時代の同時性により、反抗の力量も、「東を討つと見せかけて西を討つ(敵は本能寺にあり)」という戦術の効果も高まっている。つまり、闘争の行方はまったく不確実なのである。
何故、ぼくは「老いさらばえた独り者」の中国の一員なのに、ムバラク政権が倒れたことを喜ぶのか。中共の“老朋友”の独裁者が一人でも減れば、中共当局は、同類相憐れむとなるからだ。それに、民衆は必ず独裁に勝利するという信念が強固になる。
実際、中共当局に屈服し、劉暁波のノーベル平和賞授賞式に出席しなかった国々のなかで、たった二ヶ月のあいだに、もう二つの独裁政権が倒れた。その前に、強権体制のスーダンは南北に分かれた。この絶妙な連鎖反応は、しばらく前まで誰も思わなかった。
このため、中共当局は、チュニジア、エジプトに続き、イエメン、シリア、イラン、バーレーン、リビア、そしてロシアにまで波及する反政府デモの情報に対して極めて神経をとがらせ、その動向に不安を抱いて注視している。
既存のメディアでは、言うまでもなく、新華社の記事以外は禁止されている。ネットでも、「社会の不穏」をもたらす「動乱」、「反政府デモ」などの表現を混入させて、ユーザーを惑わしている。また、原因については「経済問題」だけしか述べずに表面的なレベルに止まり、独裁体制という事実に全く触れていない。要するに、少しばかりの真実に大量の嘘いつわりを混ぜあわせて、ただ真相の一部しか与えずに、思考を誘導しているのである。このような報道の管理操作は、全く情報を遮断するよりも欺瞞に満ちて、思考を麻痺させる。
二二年前、天安門民主化運動が最終的に虐殺により抑えつけられてから、多くの中国人はシニシズム(犬儒主義)に走り、あるいは意気消沈した。何故なら、我が国民は宗教心が薄く、目先の利益を求めることに忙しく、勝てば官軍、負ければ賊軍という観念が骨の髄まですり込まれているからだ。
それでも、自由を愛する心は不滅であり、北アフリカの民主運動が“雷管”となり、一部の中国人の中でぐっすりと眠りこけている天安門事件の記憶を呼び起こし、噴出させることはありえる。これこそ、中共が最も恐れていることだ。
一部の人たちはイスラムの伝統と文明社会の民主主義は合わないと思っているが、それは短見、偏見である。独裁政権が流す「国情論〔中国の国情を理由に人権や民主を拒むこと〕」を教え込まれた結果だ。我々はこれに愚弄され続けてはならない。
ますます多くの経験が人類に対して、次のことを明らかにしている。独裁政権は必ず倒れる。どれくらいの確率か。頭を抱えて考えこまなくてもいい。宝くじを買う時のように賭けなくてもいい。冷静な思考を保つだけでいい。
エジプトで革命が成功した後、このような対聯〔対句〕が流行った。
「ミイラは既に目覚め、街頭で声高らかに喚声をあげる。兵馬俑はまだ沈黙し、穴の底で命令に従っている」
この下の句は、我が民衆の麻痺した無関心への的確な批判である。しかし、独裁政権下で暮らす民衆のあいだには、恐怖感だけでなく、自由や民主への憧れもあり、しかもそれには伝染性がある。
独裁政権の統治方式は似ているが、崩壊の方式は異なるだろう。
(14)北京五輪の直前、二〇〇八年六月二八日、貴州省黔南布依族苗族自治州瓮安県で数万人規模の大暴動が起きた。
(15)二〇〇九年六月、湖北省石首市で暴動が起きた。
(16)一九一一(宣統三)年、趙爾豊は四川総督として鉄道保護運動を鎮圧していたが、武昌起義が勃発すると、この鉄道保護運動が革命派の蜂起と結びつき、鎮圧どころか、自分の身さえ危うくなり、総督を辞して下野する。しかし、鎮圧で怨みを買い、さらに官権からは「反動的」蜂起を疑われ、同年一二月に成都で公開処刑され
た。
10.推友(ツイッターの友)の艾未未との共闘
冉雲飛と艾未未は「牛博網」などで共闘している「推友」である。冉雲飛は艾未未を「有種、有趣、有料、有心(気骨、趣、才能、心意気がある)」と見ている。そして、冉雲飛は『芸術時代』二〇一一年一月号で「気骨ある艾未未」を発表し、二月に投獄され、その後、四月三日、艾未未は北京空港で身柄を拘束された。
これは瞬く間にツイッターで広く知られ、国際的に注目された。この拘束の理由は「経済犯罪」であると新華社は伝えているが、「茉莉花革命」に対する取締り強化のためであることは明白である。北京のEU代表部は、中国で人権活動家や弁護士の不当な拘束が増えていると批判する声明を発表した。また、艾未未のミニブログには約七万人のファンがおり、その一部はネットで「即時釈放を求めてみなで行動を始めよう」と呼びかけた。
かねてから艾未未は、民衆が国家権力と不公正な制度というまな板の上で切り刻まれるひとかたまりの肉にならないようにと、司法の透明性と公正を訴えていた。そして、警察が襲撃された楊佳事件(17)に関心を寄せ続けていた。
二〇〇九年には、先述した「グリーンダム」に対して、艾未未は「罷網(ネットのストライキ)」を呼びかけた。同時に、冉雲飛は「毎日、一人に『翻墻』を教えよう」と提唱した。
このような二人は、まさに「公民的草泥馬精神」を持つ闘士である。この「草泥馬」は、中国語の罵声「操?媽」をもじった造語で、自由、人権、民主などのために草の根で奮闘することを指す。これは、ネットで流行語となり、ここでも不公正な社会を批判する動きの広がりが見られる。
先述したように艾未未は「鳥の巣」の芸術顧問になった程で、そのような人物が、巨大な利益と徹底的に決別して闇に隠された真相を明らかにすることは、勇気や良知を持たなければならない。ところが、これは腐敗汚職で「黒社会(マフィア)」になりつつある体制にとって(18)、極めて痛烈な打撃である。艾未未は、譚作人のために証人として法廷に立とうとしたとき、ホテルで当局に雇われたと思われる正体不明の「黒社会」の者に脳内出血するほど殴られた。しかし、それに怯まず、彼は批判と抵抗を堅持していた。それ故、彼もまた拘束は覚悟の上であったと言える。
(17)二〇〇七年一〇月五日夜、北京から上海に旅行中、警官に訊問され、身分証の提出などを拒んだため派出所に連行されたことを恨み、二〇〇八年七月一日に警察署を襲撃し、警官六人を殺害、警官三人と警備員一人を負傷させた事件。ネットでは彼への同情論が禁止された。
(18)矢吹晋、加藤哲郎、及川淳子『劉暁波と中国民主化のゆくえ』(花伝社、二〇一一年、一三一頁)では、中国は「アメリカの強欲資本主義」、あるいは「マフィア資本主義」になっていると述べられている。
むすび
五月になり、「茉莉花革命」、「茉莉花散歩」、「茉莉花微笑」などは不発に終わったと語られるようになった。確かに、天安門民主化運動が高揚した二二年前とは異なり、現在では、いかにお金を稼ぐかが多くの関心事になっている。そして、一党独裁体制下で、収入の多い職場に就職するためには共産党への入党が鍵となっており、資本家の搾取に反対する無産階級の党であるはずの共産党に拝金主義者が増えている。しかも、このような党員は、まともに考えれば直ちに明白な矛盾、背反に突きあたるため、何も考えないように思考を麻痺させている。
二〇一〇年の時点で、党員は約七八〇〇万人を数えているが、拝金主義が強まってから入党した、党歴が一〇年未満の者はこの約四分の一であり、その多くが拝金主義に染まっていると言える。矢吹晋は「拝金主義に汚染された若者によって、あえていえばこのような社会でよりうまい汁を吸おうとする若者によって中国共産党は利用された始めた」と述べている(19)。そして、このような若者を育てたのは、共産党の一党独裁体制である。
確かに、中国の場合は、一党独裁体制とはいえ集団指導体制となっており、ベンアリ、ムバラク、カダフィなどの独裁者はいない。つまり、利権を独占しているのは党を軸とした利益集団であり、個人とその一族ではない。しかし、官(政治や行政)と民(企業)が癒着した腐敗・汚職の深刻さは変わらない。今年開催された全人代の報告でさえ、汚職が立件された公務員が四万人以上にのぼったことを認めた。
他方、失業は改善されず、物価上昇は止まらない。従って、この状況が続けば、不満は鬱積し、まさに冉雲飛が指摘したとおりになる他はない。そして、ひざまずくことに慣れきって、ただそれを優雅に飾ることに専念するような欺瞞と奴隷根性の持ち主でさえ、ついには不満を爆発するようになる。その時は、独裁体制を讃えて、その利益を貪る御用学者や沈黙して追認することで間接的に利益のおこぼれにあずかる日和見の偽学者たちがどのようなレトリックで飾りたてても、カモフラージュしきれない。
この点はまた、中国人だけに止まらない。独裁体制は国際社会の批判をかわすために、腐敗汚職で搾取・収奪した富の一部で外国人を懐柔している。かつて魯迅は次のように指摘したが、これは今も変わっていない(20)。
「中国の固有文明を讃美する人々が多くなって来た。しかも外国人までがほめ立てる。私はよくそう思うのだが、中国にやって来た人で、中国を憎み、考えただけでも頭が痛くなり顔をしかめたくなるといえる人があったら、私は心からその人に感謝を捧げるだろう。なぜなら、そういう人は決して中国人の肉を食うことを欲しない人にちがいないからだ」
「中国人の肉を食うこと」は決して誇張ではない、都市で浪費されるものは、民衆が骨身を削り、血と汗を流して産みだしたものである。ただし、苛酷な労働現場と虚飾にまみれた消費の場がかけ離れているために、意識しなければ、これを感じないだけである。魯迅は、中国を「讃美する」者とはこのような者であると批判したのである。
そして、血と汗の怨念により群衆が突発的事件を起こし、それが連鎖反応で拡大すれば、独裁体制でも崩れると、冉雲飛は論じる。これは彼が地に足のついた知行合一の知識人だから分かることで、軽視すべきではない。そして、民衆の実状や心情に通じている彼を投獄したことは、群衆の突発的事件を暴走させることになる。
彼が自分自身をメディアにして非暴力の「茉莉花革命」を広く伝えたことは、体制の変革を暴力的になることを防いでいた。それ故、冉雲飛をはじめ知識人や人権擁護活動家を次々に拘束、逮捕している中共政権は、まさに自らの墓穴を深く掘っていると言わざるを得ない。
それでは、このことを認識するならば、どのようにすべきであろうか。冉雲飛たちの釈放を求めるとともに、彼らに代わって非暴力の変革を訴え続けることである。逆に、腐敗した独裁体制に懐柔され、それを「讃美」していた者は、事実をしっかりと認識し、恥じ入って止めるべきである。
かつて、白居易が「野火焼けども尽きず/春風吹いてまた生ず」(「古原草を賦し得て別を送る」より)と詠じたように、自由や民主を求める声は次々に生まれてくるだろう。その中で、冉雲飛は解放され、再び旺盛に言論活動を展開し、密告の歴史をまとめ、また未完の『中国思想起義』や『百年中国語文課本変遷』を完成させることを祈る。
(19)前掲『劉暁波と中国民主化のゆくえ』七七頁。
(20)松枝茂夫訳「灯火漫筆」『墳』。引用は『魯迅選集』第五巻、改訂版、岩波書店、一九六四年、一八六頁。
追記:
余傑は、今、成都におり、電話で冉雲飛の状況について聞くことができた。冉雲飛は、成都の管轄下にあるの都江堰市の拘置所に拘禁されている。彼は、自分に同情する看守に頼み、妻の王偉にメモを渡すことができた。
そのメモには、生活が苦しければ、蔵書の中の「線装本(日本の和綴じ本に当たる)」を売り、生活費に充てなさいと書かれていた。また、彼は投獄が長期に及ぶと覚悟しており、読書プランを立て、本のリストを作成し、それに従って差し入れを頼んだ。
王偉は、当局非公認の家庭教会である「秋雨之福教会」の信徒たちから力強い支援を受けている。「秋雨之福」という教会名は『聖書』「詩篇」八四篇七節「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」からつけられている。この教会については「劉暁波とは誰か」『環』第四一号(二〇一〇年春)や「希望は『民間』にあり」『環』第四四号(二〇一一年冬)などで述べてきた。その長老で、憲政学者の王怡は、四川省で投獄されている良心犯(冉雲飛の他に劉賢斌、譚作人、陳衛など)の家族への人道的支援を呼びかけ、「良心犯家族援助基金」を設立している。また、中国各地の家庭教会と連帯し、迫害されている北京の家庭教会の「守望教会(エバンジェリカル・チャーチ)」を支援し、また「六〇年間迫害されてきた宗教のために声をあげる」という公開書簡をまとめ、全人代に提出しようと準備している。これが実現すれば、中国の歴史上、家庭教会が全人代に提出する最初の意見である。
また、冉雲飛の一人娘は中学生であるが、教師やクラスメートから「お父さんはえらい、勇敢だ、すごい」などと言われている。これまで、思想犯や政治犯の家族は連座により迫害されてきたが、変化が現れてきている。独裁体制の恐怖に打ち勝ち、自由、権利、尊厳が確実に尊重される民主的でヒューマニズムの社会をつくろうという動きとして注目すべきである。