チベットの秘密
発行日/2012年11月15日
著/ツェリン・オーセル、王力雄
編著/劉燕子
発行/集広舎
四六判/上製
定価/2,800円+税
情感あふれる詩とエッセイで、中国とチベットが抱える「闇」を照らし出す
「チベット問題」──。1949年、中華人民共和国が建国後まもなく、独立国家だったチベットを「わが領土だ」と主張し、強引に中国の一部に編入させ、「民主改革」の名のもとに軍事侵攻を開始したことを発端とする各種の問題だ。中国の統治・支配によって、ガンデンポタン(チベット亡命政府)や西側諸国政府の調査によれば120万人ものチベット族が虐殺され、チベット仏教の信仰やチベット語の使用も禁じられた結果、彼らは民族としての文化も失った。今もなお、チベット族は中国政府の弾圧と監視のもと、信仰、言論、表現、行動すべてを制限され、人権を保証されない生活を強いられており、抗議の焼身自殺をする者は後を絶たない。
本書の著者であるツェリン・オーセル氏は、チベット・ラサ出身で、「反中華主義者」として中国政府からの監視・軟禁下に置かれながらも、チベット問題についての取材と執筆を続ける気骨の女性作家だ。そんなオーセル氏が明るみにする「秘密」とは何だろうか? 現在進行形で中国政府が続ける「民族浄化」と称した破壊行為の暴露か。それとも物言えぬチベット族の心の嘆きか。
その「秘密」に対するひとつの答えとして、本書冒頭に収録された詩篇の一部をこれから紹介する。
バラバラに壊された痛ましい尊仏の記
ラサを離れてから二十日になりました。
いつもご尊顔がぺしゃんこにへこまされたあの仏像を想い出します。
トムセーカン居民委員会の前の露店におられ、
遠くからでも、目に入りました。
私は金露梅[エゾツルキンバイ]を買うためにトムカーセンの市場に行こうとしていました。
でも、仏像が目に入り、突然、深い悲しみに打たれたのです。
知らず知らずに壊された仏像に向かっていきました。
まるでいのちがあり、痛みを感じながらケースにもたれておられるようでした。
顔はぺしゃんこにへこまされ、腕は折られ、しかも真ん中で叩き切られていました。
まことに痛ましく陳列ケースにもたれておられました。
そして、醤油、豆板醤、サラダ油、トイレットペーパーに取り囲まれていました。
どれも中国の内地から私たちの生活に入ってきたものです。
歴史ある街並みが広がる聖都ラサ。そんなラサのあらゆる場所に並べられる、中国から来た生活用品たち。それは中国当局のチベット移住政策によって、それまで根付いていた文化が壊され、中国の生活様式に置き換えられた証拠である。中国から人民やモノが濁流のように押し寄せて、チベットの街はどんどん飲み込まれていく。中国からの生活用品は、チベットにとって「侵略の証」なのだ。
そして壊されて放置された仏像は、中国の無神経な破壊活動と、自分たちの信仰を奪われ、傷だらけになったチベット族の哀しみの象徴である。オーセル氏は、わずか原稿用紙一枚分の叙情詩で、読む人の脳裏にチベットの混沌とした風景が浮かび上がらせ、中国の粗野で侵略的な本質を明るみにする。彼女があわれな仏像の姿に衝撃を受け、まるで大怪我をして動けなくなっている人を助けるかのように駆け寄る姿には、チベット族に備わる篤い信仰心と、慈悲深い精神がにじみ出る。
オーセル氏は、自分の目で見て、耳で聞き、心で感じたことを詩やエッセイに記録し、それを「証言」として発信していく。彼女の作品はほぼ本人の主観に基づいていて、感情的な表現も度々あるため、客観性や信頼性を疑問する声があることも事実だ。しかし客観的な視点で、冷静な観察者としての立場でそれらを書いたならば、これほどまでに私たちの心を揺さぶる作品にはならないだろう。人が人や物事に対して抱く、喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などの「感情」は、すべての人間に等しく備わっていて、そこに国籍や民族の壁はない。だから海を隔てた日本で暮らす私たちも、彼女の情感あふれる作品から、チベット族が抱く怒り、羞恥、恐れ、悲しみの心情を読み取ることができるのだ。
苦難のチベットに光を当て、チベット族の心に寄り添い続けるオーセル氏だが、自身も中国の漢化政策によって民族としてのアイデンティティを失った「犠牲者」だ。彼女は1966年、チベット自治区のラサ市にて、漢民族とチベット族の血を引く父と、チベット人である母の間に生まれる。だが、父親の職業の関係からわずか2歳で中国・四川省に移住して、そこから20年後ラサに戻るまで、家族間での会話も、学校教育における言語もすべて漢語(中国語)を使用していた。彼女は故郷に戻った後、母国語であるはずのチベット語も上手く話せず、中国とのライフスタイルの違いに戸惑い、「中国人でも、チベット人でもない自分」に愕然とする。そこから彼女は、チベットの言語や文化、そしてチベット問題を含む「母国の歴史」を改めて学び、文革、チベット人大規模亡命、2008年ラサ動乱、抗議焼身自殺事件など、一連のチベット問題の取材と検証を通して、母国が直面する困難に真正面から向き合い始める。こうして、「チベット族の歴史」を「自分の経験」として記憶に刻みつけることで、やっと「チベット族」としての意識を取り戻すことができたのだった。
現在、中国のチベットに対する侵略活動は国際的にも憂慮されている。それでもなぜ、中国政府はチベットに対する弾圧と破壊を繰り返し続けるのだろうか? もちろんチベットの自然資源の確保や軍事拠点としての重要性など、政治的な理由が大きいのだろうが、そこには「民族としての感覚の違い」もあるのではないかと感じる。中華人民共和国が成立して以来、同国では共産主義教育が徹底され、12億人という膨大な人口による苛烈な生存競争が行われてきた。そんな中国から見ると、チベット族の牧畜と農耕を生業とし、信仰を大切に守る暮らしは「非合理的で前時代的な生活様式」に映るのではないだろうか。だから中国政府は、これまで自分たちがやってきたことを「過ち」だと世界中から指摘され、非難の視線を浴びながらも、未だにチベットに現代文明がもたらされ、豊かになったのは中国のおかげだと信じて疑わない。国力の増強と近代化を求めるあまりに、古い歴史や文化を無価値なものとして認識するようになり、現代になってもチベット族を「自国の発展を妨げる邪魔な存在」として躊躇なく制圧し続けているのだろう。
目覚ましい経済発展を遂げ、国力を世界にアピールし続ける中国。でもその正体は、近代国家とは程遠い監視社会である。Webサイトや出版物など、民間が作成した情報は検閲され、自分たちにとって不都合な事実はすべて隠匿する。中国は、これまで数十年に渡って続けてきたチベット族への人権侵害を頑として認めず、亡命チベット族の証言を「事実無根」だと一蹴する。私たち日本人は、隣国で起こっている暴虐の事実と、祖国と自由を奪われた哀しい民族の存在をもっと認識すべきである。オーセル氏は今後も、自身の文学を中国の圧政に対する「抵抗の手段」として、また、ツェリン・オーセルという「ひとりのメディア」として、著作やインターネットを通じ、勇気ある告発と批判を行っていくだろう。同書は、外からは見えない「真実のチベット」を知ることができる貴重な一冊だ。オーセル氏の詩やエッセイを読むと、私たちの脳裏にも、暴政に蹂躙されながらも、自分たちの「誇りと信仰」を守るためにもがき続ける人々のひたむきな姿が鮮やかに浮かんでくる。彼女はこれからも、強い使命感と繊細な感性をもって「野蛮な暴力の前であまりにも脆く儚い人間たち」の存在を書き続け、彼らの心に寄り添っていくだろう。
冬蜜柑
冬蜜柑/1987年生まれ、福岡県北九州市出身。女性。高校卒業後は進学のため上京、大学在学中より新聞、雑誌、ニュースサイト等で執筆活動を始める。2014年より再び福岡県に住まいを移し、現在は福岡市内のIT企業でエンタメ系コンテンツの企画・編集に携わるかたわら、フリーライターとしても活動中。普段は恋愛コラムや雑学など比較的ライトなものを書いていますが、執筆の機会さえあれば色んなジャンルの記事を書いてみたい、雑食系女子です。