中国文化大革命50周年
書名/モンゴル人の民族自決と「対日協力」
副題/いまなお続く中国文化大革命
著者/楊海英
発行/集広舎
A5判上製本 384頁(予定)
定価/本体2980円+税
ISBN/978-4-904213-41-4 C3022
チンギスハーン生誕850周年祭を盛大に祝ったモンゴル共和国
「中華民族の英雄」としていた中国は内モンゴル自治区で行事を行わせなかった
楊海英氏は気鋭の文化人類学者。南モンゴル出身で日本名は大野旭。
「日本名は筆名ですか?」と質問したことがあるが、モンゴルの本名はオーノス・チェクトゆえ、音感から日本字を充てた由。
現在は静岡大学人文学部教授。しかし静岡に留まらず日本全国を行脚して、南モンゴルの悲劇、中国共産党の残忍な支配を語り継ぐ。日本の進歩的ブンカジンや左翼の反応は「中国を批判するのは右翼を利する」とか「まさか中国がそんなことをするわけがない」
理解しようという努力さえ示さずに固定観念の視野狭窄のセクト主義、毛沢東思想礼讃の影響が日本の左翼に残っている悲劇を指摘する。
ようやく最近の日本の論壇事情が変わり、左翼ブンカジンは「ガラパゴス」扱いを受けているが、朝日新聞はまだ巧妙にいくつかの隠れ蓑を用意して生き延びている。朝日新聞はゾンビだ。つまり現代日本では内蒙古で何が起こり、いま何が問題であるかを殆どの人は知らない。
さて本書である。
モンゴル人と中国人の対立は現在も続行している。あの文化大革命とはモンゴル人を抹殺するジェノサイドだった。この歴史的真実が日本でまったく伝わっていないもどかしさ、いったい日本人は何に遠慮しているのか。
チベットに悲劇はダライラマ猊下の存在により、そして仏教界の支援もあって、中国の残忍で暴力的な支配はあまねく知られている。
ウィグルの悲劇は在日ウィグル人組織の情宣活動やラビア・カーディル女史の世界行脚によって、かなり知られるようになった。
これらに比較すると南モンゴルが経験した民族抹殺という残酷な悲劇が、どうしても影が薄く、多くの日本人がちゃんと理解しているとは思えない。
最大の理由は情報を中国共産党に完全に支配され、南モンゴルで、「モンゴル人が少しでも独自の歴史観を示したり、生来の自治権を主張したりすると、たちまち1960年代とまったく同じようなレッテルを貼られ、逮捕され」るからである。
つまり「文化大革命は少数民族地域から収束していないのが事実である」と楊海英氏は悲痛な訴えを続ける。
毛沢東革命が成立してしばし、モンゴルはウランフが統率していた。
毛沢東は策謀をめぐらす。「北京の北口玄関に住む『北荻』を眺めると」(中略)「モンゴル人の指導者ウランフは国務院副総理にして政治局候補委員、国家民族事務委員会主任、『十三軍区』の一つ、内モンゴル軍区司令官兼政治委員を担っていた」。
眼の上のたんこぶを取り除かなければならないと毛沢東は決意する。
ソ連が攻め込んできたら、モンゴルはどちらにつくのかという不安があった。ウランフは「共産主義の大本営モスクワで学んだ輝かしい経歴があり、ことあるごとに民族理論をめぐって毛沢東と異なる見解を示していた」ことも毛沢東にとっては強い脅威だった。ウランフがソ連について南下してきたら北京はひとたまりもない。
「事前に不穏の根を絶とうとしてモンゴル人ジェノサイドは発動される」
同時並行して文化大革命は毛沢東理論を世界に広めようとしていた。日本にもマオイストのセクトが何かを絶叫していた時代である。
しかし「東南アジア諸国や南米で中国に呼応する暴力革命のゲリラ組織が活動していたのと対照的に、北隣のモンゴル人民共和国では北京を好意的にみる勢力は皆無だった。モンゴル人の民族革命の対象そのものがシナであり、シナからの自立こそが半植民地闘争の勝利であると国民も政治家も共通した認識を抱いていた」
中国は南モンゴルを植民地化したのである。そして「内蒙古自治区」などと呼称し、中華帝国の版図にくわえ込んで漢族を大量に移植させた。漢族もモンゴル人も同じ「中華民族だ」というフィクションを強要した。すると、チンギスハーンも中華民族だから、元朝も中華民族の国という、つぎなるフィクションが成立する。
「1962年はチンギスハーン生誕800周年にあたるためウランバートルは盛大な祝賀行事を準備していた。ところモスクワはチンギスハーンを侵略者と見なしており、タタールの軛という恐怖心理も手伝って、この行事を中止させた。これを聞いた毛沢東は内モンゴルで盛大な行事をおこなってソ連と対抗した。
そして半世紀を閲した。
「2012年冬、モンゴル国は大統領の主催でチンギスハーン生誕850周年祭を盛大に実施した。一方、中国では『成吉思汗』(チンギスハーン)は禁句とされ、一切の記念活動が禁止された。1962年とは対照的な政治政策が導入された」のだった。
ついでに書くと1990年までモンゴルはソ連管理のもとにあり、「モンゴルを日本の侵略から防いだのはノモンハンの英雄、ジューコフ将軍の統率した戦車部隊だったとして首都のウランバートルの一等地に巨大な銅像とジューコフ博物館があった。当時、反ソ活動は徹底的に弾圧され、モンゴルには言論の自由などあるはずもなく、チンギスカーンは歴史教科書から抹殺されていた。
1991年、ソ連が放火し、モンゴルは独立した。直後からモンゴルの指導者は、英雄を捜した。
「チンギスカーンとは何者なのか」
資料と伝記をもとめてモンゴルの歴史学者が日本に派遣され、碩学・岡田英弘教授を訪ねた。岡田氏はモンゴル学の世界的権威である。
92年にチンギスハーンは歴史教科書に復活し、大銅像と記念館が建てられた。
ジューコフ博物館はまだウランバートル市内に残るが(評者が2014年九月に見学した時点ではまだあった)、モンゴル市民は誰も訪れようとせず、取材に行くと、KGBの生き残りのようなロシア人が管理していて、ギギィと軋むドアを開けた。見学者は評者ひとりだった。
なぜモンゴルを支配してソ連がジューコフ元帥の博物館をウランバートルに開館したかと言えば「ハルハ河戦争」(ノモンハン戦争)の英雄だからである。しかしモンゴル人にとっては、もはや栄誉をあたえるべき人物でもない。そのうち、ジューコフ記念館は閉鎖されるに違いない。
ところが、ロシア本国ではスターリンに対抗したジューコフは人気が高く、ロシアばかりか、ベラルーシの戦争博物館へ行ったらジューコフ元帥のトルソが飾られていた。ナチスと戦って英雄として。
時代の変化とともに歴史的評価も変遷する。
内モンゴルが中国共産党の圧政から立ち上がるのは何時の日か?
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成28年(2016)8月28日(日曜日) 通算第5007号 書評 BOOKREVIEW
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編集部の今月この一冊
中国の文革、人権弾圧、少数民族迫害を批判すると「反中だ」と指摘する日本人がいる。著者は彼らを〈中国共産党日本支部の党員か、さもなければ共産主義陣営においての流氓無産階級(ルンペン)ではないかと思っていた〉。後に彼らが左派で進歩的文化人だと分かった、としているが、もしこの本を読んでも著者を「反中」と呼ぶなら、その人物はまさに「中共日本支部の党員」という他ない。
内モンゴルの文化そのものを「毒草、毒汁」と断じ、言葉を奪い、誇りを奪い、命を奪う中共。日本統治時代の満州で学んだ者を「スパイ」と見做(みな)し、迫害した事実から、「日本支部の党員」たちは目を向ける。
〈モンゴル人にとって、自分を「中国人」だと言わされるほど侮辱的なことはない〉。著者が引く先達(せんだつ)の言葉だ。
本書は中国共産党が行った凄惨(せいさん)な弾圧の膨大な記録であると同時に、民族の誇りを失わずに戦い続けた内モンゴル人の魂の記録でもある。
月刊 Hanada 2016年11月号