インターネットの規制が強められても、ネット空間から抗議デモ、事件、暴動など血なまぐさい情報が次々に飛び込んでくる。もう鈍感になってしまったと思っていたが、この映画に衝撃を受け、戦慄した。中国で実際に起きた四つの事件を基に、その内実に鋭く切り込んだ秀作であり、たとえ観たくなくとも、観るべきであると薦めたい。なぜ、彼(女)は罪に触れてしまったのか?!
もちろん、悲惨でやりきれないシーンばかりではなく、エンターテインメントもある。ヒーローが立ち上がり銃を手に貪官汚吏、阿諛追従の小役人、悪徳商人を次々と撃ち殺し、無頼のアンチ・ヒーローは大都会のどまん中で公然と大金持ちを銃撃してバッグを奪い、鮮やかに逃亡し、ヒロインは横暴にセックスを強要する党幹部を目にも止まらぬナイフの一閃で切り裂く。とても痛快である。
第一場、ヒーローが悪に対してはもっと悪になると決意して銃をとるとき、織布に描かれた虎が咆哮する。まさに水滸伝の「憤怒により剣を抜き」の出で立ちであり、そして「たとい死するも、侠骨、香ばし」(李白・侠客行)と足を踏み出す。二〇年もの経済成長による華やかな饗宴から締め出され、不公平や腐敗汚職に歯ぎしりしながら、日々の生活に追われる庶民は、一人また一人と倒されるたびに溜飲を下げ、拍手喝采するだろう。
そして、このようなエンターテインメントに様々なメッセージが凝縮された場面が絡まり、味わい深い内容を創りあげている。四つの事件の舞台は、華北の山西、華西の重慶、華中の湖北、華南の広東で、各地の方言が使われ、さらにそれぞれ象徴的なシーンが配置されている。生き物では、働けと鞭打たれる馬、血を搾り取られるあひる、禍福を占う精霊の蛇、川に解き放たれる金魚。また信心では、聖母マリアとキリスト、修道女、毛沢東、タバコを供物に亡霊の祟りを祓う儀式、蛇のアニミズム、金魚を逃す善行で来世の幸せを願う輪廻転生。これらが巧みに組み合わされ、バイオレンスを軸にストーリーが展開し、全体として起承転結となっている。
第四場で、少年はドレイ工場のような職場で同僚に話しかけてケガをさせ、お前の責任だと低い給料からさし引かれ、それはイヤだと工場を去り、欲望渦巻くナイトクラブに勤め、淡い恋をつかんだと思ったが破れ、そこも辞めて再就職するが、親は給料日前なのに送金しろと責め立て、さらにケガをさせた元同僚に怒りを浴びせられ、茫然と寮に戻り何も遺さず投身自殺する。誰が、何が少年を追い詰めたか? 彼の自殺は無告の民の声なき声ではないか?
そして終幕では野外劇が出てくる。この劇中劇で裁判官が「お前は罪を認めるか?」と執拗に問いかける。それは「汝らの中で罪なき者よ、この女に石を投げ打て」(ヨハネ伝八章)を想起させるが、カメラはグルッと回って観客の民衆を映し出す。その表情には、必死に無実を訴える者への同情よりも、むしろ諦念、麻痺、冷淡がうかがえる。これもまた、理不尽な横暴をもたらしているのではないか?
このような「罪の手ざわり」は、利権、貪欲、無法、非道、追従、諦念、麻痺、冷淡、不満、憤怒、怨念などが狂おしく錯綜する混沌状況を、流血のバイオレンスを主旋律にした四楽章で奏でる狂詩曲のような作品であるとも言える。そして通奏低音は大地の鼓動のように響く怒りや呪いのうめきである。
中国語のタイトルは「天注定(天の定め)」で、日本公開の紹介では「この世の定めか、あゝ無情」と記されている。「あゝ無情」はユゴーの『レ・ミゼラブル』のかつての邦訳である。そしてユゴーには『ノートルダムのせむし男』もあり、そのキーワードは「アナンケ(運命)」である。殺人にせよ、自殺にせよ、天の定めから逃れられずに手を血に染める姿から「アナンケ(運命)」という言葉が耳元で響く。
さて最近、評論家、アーティスト/風刺漫画家、憲政学者と、中国知識人の来阪が続いているが、みな憤懣が鬱積した民衆の暴徒化を危惧している。これこそ「罪の手ざわり」のメッセージなのである。