燕のたより

第36回

ユゥトン!ユゥトン!私たち女子組

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1.

 蘇雨桐(スゥユゥトン)と私は、昨今の言い方では「女子組(中国語では閨蜜)」で、ドイツと日本で遠く離れていてもとても気脈が通じあえる。

 ユゥトンは、中国で地方ラジオ局の記者であった。ジャーナリストとして社会問題に取り組み、水の汚染による被害者を支援するNGO「守望家園」を創設し、日本の水俣病やイタイイタイ病の経験や教訓を学ぶために来日したことがある。
 彼女は、闘志の中にあふれるばかりのユーモアを持ちあわせた魅力的な女性である。孤軍奮闘だが、機知と勇気をもって闘い続けている。
 2009年6月4日、天安門民主化運動と天安門事件の20周年を記念し、一人で一輪の白バラを持ち、天安門広場で追悼し、国保(国家安全保衛隊)に一時拘束された。この「白バラ」のパフォーマンスについて、以前『遭遇警察』(徐友漁編)を紹介した「警察国家の証人たち」(2012年6月25日)の五節 “ペンネーム「一七匹の猫と魚」の場合” が参考になる。
 今回、改めてユゥトンにメールを送ったところ、おそらく「一七匹の猫と魚」は、高瑜(共産党一党独裁を一貫して批判したジャーナリスト、現在獄中)だろうと答えた。これを踏まえて、「一七匹の猫と魚」の表現を改善して、再掲する。

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2.

 「一七匹の猫と魚」は、ユーモラスかつシニカルに「小市民奇遇記」という表題で、一輪の「白菊」にまつわるストーリーを発表した。
 一人のネット・ユーザーは暇をもてあまして退屈なのでバスに乗り、「五星紅旗(中国国旗)」を謳歌する放送を聞きながら、ふと、1本の白菊を買って、天安門広場で国旗を降ろす儀式を見物しようと思いついた。これを歌っていた歌手は、まもなく国家主席になる習近平の夫人で、彼女自身もまもなくファースト・レディになる彭麗媛だった。
 ところが、この1本の白菊が、テロ対策で厳戒態勢の広場の入口における検問で、思わぬトラブルを引き起こした。
 「お前らは何人だ?」
 「“お前ら”って言いますが、違います。私は一人です」
 「この花は、何のまねだ」
 「持ってたら、いけませんか」
 「身分証!」
 「持っていません」
 「待て。確認する」
 ……(パソコンで検索する)
 「広場で何をするつもりだ」
 「国旗を降ろすところを見物しようと思いました」
 「白い菊の花とは、どういう意味だ」
 「法律で禁止されているのですか?」
 ……(広場に停車しているパトカーに入れられ、訊問を受け続ける)
 「どこで買ったんだ」
 「西単です。1本、5元でした」
 「警戒、警戒。西単に白い菊の花を売るやつがいる」
 すぐさま警官は無線電話で叫びだした。
 「この白い菊は、どういう意味だ」
 「意味?……そんなこと考えていませんわ」
 「必ずある。すべての花には意味があるんだ。例えば、バラには男女の愛、それで、菊は……」
 「ええと、美しさ、純潔、幸福?」
 「しかし、これは白だぜ」
 「菊の花には白、黄、紫といろいろありますわ」
 「白い菊は供養専用だ」
 「ああ、そうですか……でも供養って? 誰に供養するのですか?」
 この間、数人の警官が「一七匹の猫と魚」に繰り返し訊問した。
 「どうして、今日、国旗を降ろすのを見に来たんだ?」
 「昨日は時間がなかったし、明日は気が変わるかもしれないし」
 「お前は何か記念するために違いない」
 警官は焦った。
 「ええ? どういう意味ですか? 全然分かりません。もう少し分かるように説明してくれませんか」
 「今日は、6月4日だ」
 「6月4日? どういう日ですか? 特別な日ですか?」
 ……警官たちは答えに窮した。
 その後、「一七匹の猫と魚」は警察署に連行され、数時間後にやっと釈放された。
 「もういい。帰れ。もし、今度供養するときは、まず管理局に登録しろ」
 「違います。国旗を降ろすのを見に来ただけです」
 「もし、と言ってるんだぜ。サッサと帰れ」

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3.

 ユゥトンは、言論の自由、人権擁護、弱者支援にも取り組み、そのためたびたび家宅捜索や訊問を受けた。
 しかし、彼女は、2010年4月、北京の中国人民大学で講演中の伍皓・中国共産党雲南省委員会宣伝部副部長に5毛紙幣を紙吹雪のように浴びせる「扔銭門」のパフォーマンスを実行した(銭投げ事件)。それは、政府に都合のいい書き込みをし、或いは密告する要員の報酬が、一件あたり5毛の報酬であることから、共産党宣伝部を痛烈に批判したメッセージであった(この要員は「五毛党」と称される)。
 6月、ユゥトンは治安当局に訊問され、パソコンなどを没収され、北京から追放された。さらに、8月、身に危険が迫ったため、彼女は香港やタイなどを経由してドイツに事実上の亡命を余儀なくされた。
 そして、ドイチェ・ヴェレ(Deutsche Welle、ドイツの国際公共放送、中国語で徳国之声)の中国語部門に勤め、中国国内のネットワークを利用し、人権問題の実状をインタビューなどまじえてリアルに報道した。
 また欧州議会の公聴会に出て、人権活動家、弁護士、NGOのメンバーたちの声を伝えた。まさに時代の証言者として、大活躍した。
 ドイチェ・ヴェレの中国語サイトは、中国では封鎖されているが、彼女の活動は広く注目されている。それは、中国国内で厳重な情報統制を突破して真相を伝えようと苦闘しているサイトや人々を励ますものとなっている。
 2012年、彼女はツイッターによるラジオ放送局を創設したが、3日後に封鎖された。
 そして、2014年6月4日、天安門事件25周年では、その真相究明、及び高瑜(前出)や王炳章(医学研究でカナダに渡るが、中国民主化の必要を痛感し民主運動に取り組む)の釈放を訴えるべく、25輪の白バラを持ち、友人とフランクフルトの中国領事館を訪れ、「天下囲城(世界各地の中国人は中国政府の機関に示威・抗議して包囲)」のバッジを配り、スタッフは分からないままポカンとして受けとった。友人はそれを密かに撮影し、その映像をネットで公開した。

4.

 同じ6月4日、ドイチェ・ヴェレのサイトで Frank Sieren(中国語表記は仏蘭克・沢林)は「天安門からライプチヒへ」という評論記事を発表し、「1989年の事件は新中国の歴史における一時的な蹉跌にすぎない」と論じた。
 これに対して、彼女はツイッターで「高級洋五毛党(ハイレベルの西洋人の五毛党)」と批判し、次のように述べた。
 自分の文章が彼と同じ紙面に並べられるとは恥辱である。私は中国当局が封殺した事実・真相を伝えているが、同僚のSierenは「環球時報(人民日報傘下のメディア)」以上のディスクールで独裁体制を擁護している。彼が様々にカモフラージュし、また弁護したことは、私にとってベースラインを越えている。
 さらに、Sierenはドイチェ・ヴェレと組み、中国で会社を設立し、ビジネスを行っていると内部告発した。
 そして、王丹やウアルカイシなど亡命民主活動家86人は抗議の署名活動を始め、Sierenの記事の撤回を求めた。
 8月18日、ウアルカイシがドイチェ・ヴェレに抗議に訪れると、その翌日、彼女は突然解雇された。その表向きの理由は、彼女がドイチェ・ヴェレが「新しい方向への転換」という内部の会議の内容を発信したというものだった。
 翌20日、私は1時間近く国際電話で話した。彼女は、次のように語った。

 「新しい方向への転換」というのは、実際は共産党政権を誉めるというものよ。経済のグローバル化で、世界が中国経済への依存度を高めていて、いつの間にかジャーナリズムの精神が麻痺し、読者体制と共謀関係になるのではと危惧しているの。中国の影響力が各国に浸透しているわ。でも、私は大丈夫よ。法に基づき正義と道義を取り戻すわ。

 涼やかな美声が、受話器の向こうから流れてきた。
 事実、ドイツのみならず、中国の国営テレビCCTVは、2012年にワシントンに進出し、米国人ジャーナリストに働きかけ、中国のイメージ・アップを狙っている。ワシントン・ポストは、月に1度、中国共産党傘下のメディア「チャイナ・ウォッチ」を別刷りで挟み込むようになった。
 ユゥトンの危惧を軽視してはならない。日本にとっても重要な意味を有しているだろう。

コラムニスト
劉 燕子
中国湖南省長沙の人。1991年、留学生として来日し、大阪市立大学大学院(教育学専攻)、関西大学大学院(文学専攻)を経て、現在は関西の複数の大学で中国語を教えるかたわら中国語と日本語で執筆活動に取り組む。編著に『天安門事件から「〇八憲章」へ』(藤原書店)、邦訳書に『黄翔の詩と詩想』(思潮社)、『温故一九四二』(中国書店)、『中国低層訪談録:インタビューどん底の世界』(集広舎)、『殺劫:チベットの文化大革命』(集広舎、共訳)、『ケータイ』(桜美林大学北東アジア総合研究所)、『私の西域、君の東トルキスタン』(集広舎、監修・解説)、中国語共訳書に『家永三郎自伝』(香港商務印書館)などあり、中国語著書に『這条河、流過誰的前生与后世?』など多数。
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