燕のたより

王力雄が記録した写真──天安門事件25周年に当たり

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◀天安門事件の時の王力雄

 1989年、私は北京で『黄禍(政治寓話小説)』を執筆していて、当時の天安門民主化運動に対しては、一人の傍観者であった。その時、私は「社会閑雑人員〔社会の雑多な閑人で、社会主義体制では排除・取り締まられる〕」、「無職の遊民」、「盲流〔移動の自由が厳しく制限されている戸籍制度化であちこち移動する流れ者との蔑称〕とされる身分で、民主化運動の側からも、弾圧する側からも警戒されていた。学生運動が発生してから、「六四(天安門事件)」の鎮圧まで、私は毎日、自転車に乗り、北京の至る所に「出没していた。
 六月三日のあの夜、私はずっと天安門広場と周囲を駆け回っていた。人民大会堂の西側の道路で、間近に軍隊の掃射を体験した。その時、私とピッタリ身を寄せ合っていた二人は銃撃された。その場面は、今でも瞼に焼き付いている。私は、その一人の被弾した胸からあふれ出る血を止めようとした。彼はもう話すことができなかった。その後、負傷者は北京市民が手押し車で病院に急送した。彼の生死は分からない。
 私は「六四」の前後に写真を撮っていた。当時はデジタル・カメラがなく、フィルムの現像は極めて困難で、まして写真館に持っていくことなどできなかった。そのため、ネガを保存し、昨年(2009年)、ネガをスキャンすることができた。
 この二十周年に当たり、改めて写真を見て、様々なことを感じさせられる。いくつかの写真を選び、当時、現場にいなかった友人とともに追悼したい。

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 学生のデモ行進の隊列。スローガンは「共産党を擁護」、「中華を振興」であることが分かる。当時のデモ行進は、一種のお祭り騒ぎのようであり、その後、血なまぐさい武力鎮圧が到来することなど、ほとんどが思いも寄らなかった。

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 私が唯一参加した活動で、五月四日の「首都ジャーナリスト」デモ行進である。私は「首都ジャーナリスト」になりすました。それは、デモを組織した者がどれくらいの参加があるか分からず、参加者が五十名以下ならば、デモ行進は取り止めにすると決めていたからである。私はデモ行進が実施されることを願い、枯れ木も山の賑わいと、一人の参加者として加わった。何と、参加者は二百名以上になったので、私は行進が一段落すると離れた。当局はデモ行進に「閑雑人員が紛れ込んでいる」と喧伝し、民主化運動に汚名を着せるからであった。
 この写真は、行進が出発する前で、横断幕の右端は、中国の著名な歴史学者の呉思である。六月三日、発砲の夜、私たちはずっと一緒であった。

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 「首都ジャーナリスト」のスローガンには「我々にウソをつかせるな」とある。当時のスローガンで最も有意義なものの一つである。共産党の「喉と舌(代弁者)」とされたジャーナリストが発した声で、おそらく最初のものだろう。

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 六月四日、戦車が北京の長安街を進行している。私はもろ肌を脱いだ胡同の庶民が、怨みを込めて発した言葉を聞いた。「蒋介石は、おれたちに武器を送ってこないのか?!」

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 ここは木樨地で、最初に発砲が始まり、最も多く人々が殺された。「天安門の母たち」の丁子霖の息子が射殺され、また私の親友の厳勇の弟も射殺された。虐殺の後、六月四日の早朝、意外なことに、数十台の装甲車が、ここに放棄されていた。憤激した群衆が焼き払ったのだという。後日、CCTV(国営放送の中央電視台)が「暴乱を平定した」ドキュメンタリー番組を放送したが、群衆が装甲車を焼き払ったという場面を前に、軍隊が発砲したのを後にして放送した。私はずっとこの装甲車は、企みがあって使われた道具ではないかと疑っている。

注記:木樨地は、王力雄と親交のある丁子霖、蒋培坤夫妻の息子、蒋捷連が、六月三日の夜十一時すぎ、戒厳部隊の銃弾に倒れたところである。蒋捷連は、一九七二年六月二日生まれ、当時は中国人民大学附属高校二年生で、その日は十七歳の誕生日を祝った翌日であった。また、丁子霖は元中国人民大学准教授で、天安門事件で子供や近親を殺傷された女性を中心に組織された人権擁護団体「天安門の母たち」を創設し、事件の真相究明を粘り強く続け「天安門の母」と呼ばれている。丁子霖、蒋培坤/山田耕介、新井ひふみ訳『天安門の犠牲者を訪ねて』文藝春秋、一九九四年、第二章「わが子蒋捷連のこと」参照。

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 これは六月四日、木樨地附近の復外医院の安置室である。みな軍隊に射殺された死体である。ほとんど医院に着いた時には息がなかった。救命措置がとられた痕跡は見当たらない。

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 とても多くの人々が様々な病院の安置室を回って、子供や兄弟姉妹がいないかと探した。詩人の阿堅は、以下の詩を書いた。

ある若者たちと病院を探し回る。
クラスメートの姿はもう二日も見えない。
みな無邪気な子供で、つぶらな瞳が目の当たりにした恐怖を、
訴えるが、とても信じられない話だ。
切々と霊安室を探させてくださいと懇願し、
医師は仕方なく五、六枚のカラー写真を出した。
死体の写真だ。青白い、若者が
眠って、口元によだれを垂らしているのなのも、
悪夢で顔を引きつらせてようなのもいる。
探している者は見つからないけれど、
一人一人見るたびに痛みで茫然自失となる。
無言で病院から出て自転車に乗る。
大通りを走り、別の霊安室で降りる。
全市の霊安室を繋ぐ大通りには、
自動車はなく、自転車だけ。
自転車だけがくるくる空しく回る瞳のように走る。
どの病院も入口から戦慄させる。
霊安室はあふれかえっていて、
路上や物置にまで横たえられている。
それぞれ白いシーツがかぶせられ、一応、
世界から見えないようにしているけれど、死者の
目鼻立ちは雪におおわれた山々のようだ。
鼻梁の高い者もいれば、胸が高い者もいる。
白いシーツの下には優美なスタイルの娘がいるのか、
その笑顔が白いシーツを突き破り咲きほこるかのようだ。
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 西単から六部口の間の死体はずっと収容されなかった。最も早く収容しなければいけないはずの軍人であった。しかも、装甲車が次々に通りかかっても、停止して自分たちの戦友の尊厳を守ろうとはしなかった。このことは、収容してはならないという命令が下されたのではないかという疑問を抱かせる。その目的は人民解放軍が暴徒化した市民に襲われ、残虐に殺害されたことを生々しく教える「現場の教育」である。街頭のならず者は、もちろん、この機会を逃さず、死体にあらん限りの侮辱を与え、甚だしくは死体の腹を切り開いた。私が目撃したのは、その直後だった。その場にいた年若い女士が憤激して叫んだ。「彼も人間よ!」 今でも耳元で響いている。

注記:写真の死体は人民解放軍39軍の崔国政で、後に「共和国衛士」とされた。

 天安門事件20周年に際し、オーセルは、私に詩を転送してくれた。

六月のある日、
若々しい顔でいっぱいだった。
春の風に吹かれ、
時を忘れた。
六月のある日、
若々しい顔でいっぱいだった。
陽光の下で、
世界に想いを馳せていた。

大風が、
君を吹き飛ばした。
大雨が、
雲を押し流した。

六月のある日、
若々しい顔でいっぱいだった。
春風に吹かれ、
世界を忘れていた。
六月のある日、
若々しい顔でいっぱいだった。
陽光の下で、
時に想いを馳せていた。

大風が、
君を吹き飛ばした。
大雨が、
雲を押し流した。

コラムニスト
劉 燕子
中国湖南省長沙の人。1991年、留学生として来日し、大阪市立大学大学院(教育学専攻)、関西大学大学院(文学専攻)を経て、現在は関西の複数の大学で中国語を教えるかたわら中国語と日本語で執筆活動に取り組む。編著に『天安門事件から「〇八憲章」へ』(藤原書店)、邦訳書に『黄翔の詩と詩想』(思潮社)、『温故一九四二』(中国書店)、『中国低層訪談録:インタビューどん底の世界』(集広舎)、『殺劫:チベットの文化大革命』(集広舎、共訳)、『ケータイ』(桜美林大学北東アジア総合研究所)、『私の西域、君の東トルキスタン』(集広舎、監修・解説)、中国語共訳書に『家永三郎自伝』(香港商務印書館)などあり、中国語著書に『這条河、流過誰的前生与后世?』など多数。
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