1.廖亦武とその文学
廖亦武は、拙訳『中国低層訪談録』(集広舎、二〇〇八年)の著者である。彼は、一九五八年、中国四川省に生まれ、八二年から詩人としてデビューし、数多くの官制の文芸賞を受賞した。八三年から八九年まで多くの在野詩人と知りあい、地下刊行物『中国当代実験詩歌』などを主編したが、八九年六月四日に起きた天安門事件を告発する「大虐殺」という長詩の朗読を録音し、また映画詩「安魂」を制作したため、反革命煽動罪で逮捕され、九四年まで投獄された。出獄後、職を得られず獄中で和尚から教えられた簫を吹いて生計を立てながら最低層の民衆に出会い、それを『中国低層訪談録』などにまとめた。著書には『沈淪的聖殿─中国二〇世紀七〇年代地下詩歌遺照』、『漂泊—辺縁人採訪録』、『証詞(証言)』、『中国低層訪談録』(いずれも発禁)などあり、『中国低層訪談録』は日本語の他に仏語、英語、独語に翻訳された。そして、ヘルマン/ハメット賞と中国独立筆会自由創作賞をそれぞれ二度受賞し、アメリカの『パリ評論(The Paris Review)』誌で二〇〇七年、二〇〇八年に取りあげられるなど、国際的に高く評価されている。『パリ評論』誌で二度も取りあげられた作家は、ヘミングウェイ以来である。
日本語版『中国低層訪談録』では、三十数名の最低層の民衆へのインタビューが編集されている。そこから読者は様々な低層の現実を知ることができるだけでなく、この現実と格闘し、たくましく生き抜く姿に力づけられる。つまり『中国低層訪談録』には読む者を励ます文学の力がある。この点について、私は次のように述べた。
「マスコミは華やかな話題や派手なスクープを追いかけ、『低層』の現実を取り上げることが少ないため、彼らはほとんど注目されていません。エゴイズム、強者への阿諛追従、冷淡さが満ちあふれる世の中で、彼らはかえりみられず、訴えることもできない苦痛に苛まれています。たとえマスコミが取りあげても、それは『高層』から見た姿で、現体制にとって痛みも痒みもないように描かれるだけです。しかし、廖亦武は違います。彼によって、私たちは中国史を通して『民』の大多数を占めつづけてきた農民などの民衆の真の姿に接することができます。
また、成果を享受している人たちは、それと引き換えに代価を払わなければなりませんが、これは『低層』にまわされています。しかも、代価を押しつけられる『低層』は、このような状況を表現し、伝える術をもっていません。日々の生活では、不満、苦しさ、理不尽な扱いへの怒り、無力感、悲しさなどを感じていますが、それを伝えきれないのです。確かに、現代の中国は経済発展がめざましいですが、主流の政治エリート、ビジネス・エリート、知識エリート、文学エリートだけに目を向けず、その贅沢な生活を支えながら、社会から忘れられ、うち棄てられる存在を忘れてはならないでしょう。」
今日、中国における言語や情報の世界は、一党独裁体制と商業主義の結合により権力、財力、暴力が隅々にまで侵略し、偽善や腐敗で汚染されている。しかし、その中でも、このような世界を支える最低層の民衆が奥底から発する本音には真実があり、また生き生きとして強靱である。まさに汚された暗黒の世界を照らす灯火と言える。私たちは、ここにこそ立脚点、原点を据えなければならない。
廖亦武の文学が強靱なのは、彼自身が極めて強靱な精神の持ち主だからである。彼は天安門事件で投獄されたにも関わらず屈服せず、出獄後も真実の文学、言論の自由のために批判的な姿勢を堅持し、一党独裁体制を改革し民主的な法治国家を実現することを提唱した「〇八憲章」発表時の三〇三名の署名者の一人でもある(「〇八憲章」については、私の編集した『天安門事件から「〇八憲章」へ』藤原書店、二〇〇九年参照)。その間に様々な圧力が加えられたが、権力に媚びを売らず、彼の詩にあるように「投降しろ」に対して「否!」と答え続けている(『中国低層訪談録』九頁)。
2.二〇〇九年四月、ベトナム国境地帯をさまよう
廖亦武は国内で発禁処分を繰り返されているだけでなく、国外で高い評価を得て何度招聘されても、出国を禁じられている。二〇〇〇年から幾度パスポートを申請しても受理されず、二〇〇八年の四川大地震の混乱のとき、戸籍を移してよく分からないようにして、十回目の申請でようやく取得できた。そして、大地震のルポルタージュ『地震瘋人院:四川大地震記事』(允晨文化、台北、二〇〇八年)により、オーストラリアの華人が設立した「斉氏文化基金会」の第二回「中国の文化を推進する賞」を受賞し、この授賞式に出席するためオーストラリアのビザを取得し、二〇〇九年三月から携帯電話やeメールを使わないなど、全て消息を消し、四月下旬に成都から広西省の省都の南寧に行き、そこからベトナム・ハノイ行きの長距離バスに乗った。国境に着き、「友誼関」(国境警備隊の検問所)でパスポートの審査を受けるために列に並び待っていると、声をかけられた。
「初めての出国ですか」
「はい」
「身分証を出して」
「廖亦武だね」
「はい」
そして「出国禁止決定書」を読みあげられ、次のように通告された。
「調査が明らかにしたところでは、君は“上級文件(上から下への一方的な通達)”により出国できない者とされている。中華人民共和国出入国管理法第八条第五条により、我が国の国境警備所は君の出国を阻止する。本決定に不服ならば、決定書が届いてから六十日以内に広西省公安辺境防衛総隊に不服を申し立てることが許されている。」
出入国管理法第八条第五条では「国務院の主管部門から出国後に国家安全に危険をもたらす、あるいは、国家利益に重大な損失を与えると認められる者」について記されている。それでも廖亦武は諦めず、バスを乗り継ぎ、二十数時間かけて雲南省の河口に着いた。そこからベトナムに密出国できたが、パスポートに検印がないので、ベトナムから他の国に行けず、やむを得ず成都に引き返した。なお授賞式は、ガールフレンドの小金が代理で出席した。
3.二〇〇九年九月、警察から「お茶」に呼ばれる
二〇〇九年十月、『中国低層訪談録』のドイツ語版出版が評価され、フランクフルトで開催されたブックメッセに廖亦武は招聘された。この時は中国フェアが開かれ、中国政府は作家協会を中心に数千人(出版関係を含めると約一万人)規模の訪問団を送り込んだ。しかし、廖亦武は警察に「お茶を飲もう」と呼び出された。
「君は出国できない。」
「何で? パスポートも、ビザもあるよ。」
「自分で分かるだろう。」
「いや。分からない。」
「今年は建国六〇周年。あれ(天安門事件)は二〇周年。向こうも、壁の崩壊二〇周年。様々に複雑な国際的国内的な状況の中で、君にだって祖国の困難と苦境を理解できるだろう。」
「なら来年は出国できるかい?」
「さあ。」
やはり出国できなかった。それでも、廖亦武は、このようないきさつに、繰り返しパスポートを申請し、ようやく十回目で取得できたことや、たとえビザが得られても出国できないことなどを加えて「さらば、遙かなるフランクフルト」というタイトルの文章にまとめ、それがドイツ語に翻訳されて「南ドイツ新聞」に掲載された(二〇〇九年十月に数回連載)。これは大きな反響を呼び起こしたという。
4.二〇一〇年三月、飛行機から降ろされる
そして、今年の三月、彼はドイツ語版の二冊目の本『証言』の出版に合わせてケルンの文学祭に特別ゲストとして招聘された。そこでは二〇〇九年ノーベル文学賞受賞者のドイツ女性作家ヘルタ・ミュラーとの対談、簫を演奏するミニ・コンサート、詩の朗読などが計画されていた。彼の簫について、私は『中国低層訪談録』で「何度も廖亦武の簫や嘯(悲愴な絶唱)を聴きましたが、どのときでも終始その音や声を彩るものは、ひたむきに自由を求める純粋で孤独な芸術精神でした。そこには、彼の生き方の真髄を流れる漂泊、はかなさ、弱者と強く共振する受苦、共苦の憂愁や悲愴がありました」と述べた(三九四頁)。
このように準備が整ったが、二月三日、警察にまた「お茶を飲もう」と呼び出された。
「北京方面から相変わらずお前は出国が制限されている人物にされていると伝えられた。リストの中でかなり前にいる要注意人物だぞ。」
「いつ解禁されるんだい。どうしたら解禁されるのかい。」
「分からん。上の考え次第だ。」
このような状況について、彼は次のようなメールを送ってきた。
「ぼくはこれでおしまいにしたくはない。憤慨の気持ちは言葉にならない。ぼくは元々政治や国家や『宣言』などに興味はない。劉暁波のような抵抗者ではない。しかし、まさに劉暁波が言うように、尊厳ある生き方をするためには反抗しかない。」
そして、二月五日、彼はメルケル首相に直訴の手紙を送った。
「ベルリンの壁が崩壊したとき、首相は三五歳で、私は三一歳でした。私はベルリンの壁が崩壊する前に起きた六四天安門事件を告発して逮捕され、四年間投獄されました。私たちは共通する歴史を体験しています。
私の祖国は私の口を永遠に封じようとしています。私は、中国の最下層の民衆のようにディスクールの権利を奪われ、人格も踏みにじられ、迫害されても声を出せないようにされています。しかし、文学は強権により辱められるだけでしょうか?」
これとともに、簫を演奏したCD「不死的流亡者」と中国語版「善き人のためのソナタ」を領事館を通じてメルケル首相に贈呈した。領事は『中国低層訪談録』を読み、とても優れたものだと語った。
そして、二月十三日、成都のドイツ領事館でビザを取得し、さらに航空券もドイツから送られてきた。しかし、十五日、警察がまた「お茶」で呼び出した。
「成都から出られない。たとえ北京に行っても、絶対に連れ戻される。これは上級機関の“批示”だ。我々は執行するだけだ。それに、外国のマスコミの陰謀に踊らされるな。病気などの理由で行けないと言え。」
「批示」とは、下級から上がってきた文書に上級が直接書き示す指示や決裁で、元来は皇帝が臣下から上がってきた文書に下した決裁を指した。これが現在でも使われている。
しかし、たとえ「批示」であろうと、廖亦武の出国の意志は変わらなかった。
三月一日、彼は空港に向かった。まず、十一時三十分発のフライトHU7148で成都から北京に行き、三月五日に北京からフランクフルトへ向かうはずだった。
廖亦武は誰にも妨げられず空港に入ることができた。チェックインをすませ、手荷物検査を受け、搭乗前の最終チェックもパスし、機内に乗り込み、座席につき、シートベルトを締め、「やったあ!」と大喜びした。そのとき、キャビン・アテンダントがやって来て、「お客様、お呼び出しがあります。手荷物を持ってきてください。お友だちがお待ちです」と告げた。「これでおしまいだ」と分かった。
入口の外で四、五人の男が待っていた。「馮正虎と同じだ。これじゃあかなわない」と思った。馮正虎は帰国し、飛行機を降りようとしたら四人の警官に押し戻され、無理やり日本に送られ、成田空港で九二日間も抗議し続け、ようやく帰国できた人物である。
廖亦武は空港の詰め所に連れていかれた。そこで「国保大隊」に引き渡され、ワゴン車に入れられ、地元の警察署まで連行された。この「国保大隊」は、一九九五年から各地方の公安局や消防局に、国慶節の治安を守り、政治の安定に努め、流動人口をチェックし、犯罪を芽のうちに摘み撲滅することで「調和社会」を支えるとして緊急に創設された臨時組織である。
廖亦武は、この「国保大隊」から警察に引き渡された。「お茶」は出されず、お説教された。
「文学祭の主催は誰なんだ。あれほど言ったのに、何でこういうことをするんだ!……まあ、実は、我々のなかでも意見は統一されていないのだ。しかし、今は行かない方がいい。」
廖亦武は昨年は60周年国慶節だからと諦めさせられ、今年こそはと思ったのに、やはり禁止され憤慨した。そして、放免されるとき、発禁処分の『中国低層訪談録』上下二巻(長江文学出版社、二〇〇〇年)を渡して、こう言った。
「ねえ。君たちとつきあって十年以上にもなるけれど、ぼくの本を一冊も読んでくれない。ぼくはただの作家だよ。政治の世界とは無縁で、興味もない。これを読んでみてよ。文学だよ。政治じゃあない。」
警察は、それを受けとった。
5.むすび
このような彼の状況は、『中国低層訪談録』で描かれている「不法越境者」を想起させる。「不法越境者」の黎憶豊は「この世で手に入れるのがいちばん難しいのが自由だ。ここじゃ飢え死にしたってだれも構ってくれないが、よそへ移って別の生き方をしようとすると、必ず邪魔が入る」と語っている(七五頁)。廖亦武自身も、次のように述べている(七頁)
「ぼくは外国に行けない。正当な戸籍がないし、『国家の安全と“形象(イメージ)”を損なう』と言われた。しかし、ぼくには自分のためにものを書く権利も、力もある。ぼくの『低層』は、このように長期にわたって基本的な生存と移動の権利が奪われた状況下で書き上げられたものだ。ぼくが文筆で生計を立てることは、出稼ぎ労働者が都会でヤミで働くのと変らない。ぼくたちはいずれも法律違反だ。それぞれは二つの違った道を進んでるが、やっぱり都市管理員と警察に遭う、というわけだ。」
それでも、彼は挫けず、「投降しろ」に対して「否!」と答え続け、非暴力不服従の尊厳ある生き方を貫きながら文学に励んでいる。そして、文学の力により、誰もが自由に出入国できるような中国にしようと努力している。
このような廖亦武に対して、文学祭の主催者を代表し、Werner Koehlerは、次のように述べた。
「このたびの詩の朗読や対談などは純粋に文学的な活動で、中国政府がこれほど力ずく一人の作家の行動を阻止するのは意外であり、憤慨を覚える。また、中国政府は国外の抗議をまったく無視することも分かった。しかし、我々は引き続き廖亦武氏を応援する。今回は参加できないが、CDやビデオで公演の代わりとする。」
また、三月三日、ドイツ外務省は極めて遺憾であるという内容を含む声明を発表した。
また、廖亦武も、三月上旬現在、自宅軟禁中だが、唯一無二の声を響かせようと著述に取り組んでいる。