燕のたより

第17回

茉莉花(ジャスミン)の物語

茉莉・傅正明夫妻、スペイン・トレドにて(2010年8月)

▲茉莉・傅正明夫妻、スペイン・トレドにて(2010年8月)

一、茉莉花革命(ジャスミン革命)

 江蘇の民謡に「好一朶茉莉花(一輪のジャスミン)」があり、広く歌われてきた。またジャスミンはとても親しまれている花で、ジャスミン茶もよく飲まれている。
 ところが、最近、別な「ジャスミン」が現れた。
 二〇一一年二月、北アフリカから中東で民主化と政治改革を求めるデモが相次いで起きたことを受けて、中国でも二月二〇日や二七日などに各地で一斉にデモを起こそうとインターネットで呼びかけられた。チュニジアの「ジャスミン革命」にならい、中国では「茉莉花革命」と呼ばれたが、インターネットでは即座に厳禁とされた。他に「チュニジア」や「エジプト」も「敏感な言葉」として検索できなくなった。
 これに対して「散歩」という形でデモをしようと「茉莉花散歩」が呼びかけられ、「茉莉花集会」ではお互いに意志を確認しあうためにほほえみを交わす「茉莉花微笑」という言葉が使われた。
 しかし、一斉デモはいずれも公安当局の取締りで不発に終わった。それでも、ツィッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアにより「茉莉花革命」が厳しい情報統制の間隙を突いて伝えられている。一九世紀に「共産党宣言」の冒頭で「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している──共産主義という妖怪が」と表明されたが、皮肉にも二一世紀の中国の共産党政権では「茉莉花」のほほえみが妖怪のように徘徊し、独裁権力をおびやかしている。
 中国当局は中東から民主化デモが飛び火することに神経をとがらせ、厳戒態勢を敷くとともに、取締りをさらに強化し、多数が拘束された。その中には、四川省の作家で、私の友人の冉雲飛もいた。彼は集会の情報をネットで転送したという理由で「国家政権転覆煽動罪」を着せられた。中国人だけでなく、海外メディアのジャーナリストも拘束され、責任者まで呼び出された。
 集会への恐れは子どもにまで及び、四川省成都の塩道街中学(中高一貫校)では、男女は接近しても八〇センチから一メートルは離れるのが「マナー」であると定められた。これも飛び火の事前防止だろうとささやかれている。高い失業率や物価の高騰の下で抑圧され、不満が鬱積した中国の若者の状況を見ると、考えすぎではないと思われる。いくら努力しても報われず、その一方で富裕層が浪費し、腐敗汚職が蔓延していれば、何故かと疑問に思い、情報の透明化を求め、どこに問題があるのか知ろうとして当然である。

二、茉莉花―湖南省の同郷人

 湖南省邵陽市にある古いアパートに、二〇年以上も「門前零落し、車馬稀なり」の老夫婦が暮らしていた。ところが、まもなく古希を迎えるこの老夫婦に、急に来客が増えた。昔はつきあいがあった知人もいれば、見知らぬ顔の青年もいた。「(娘の)教え子だ」と自称する者もいた。そして口々に「茉莉花は帰ってきたかい?」、「茉莉花はそろそろ帰るんじゃないか?」、「そろそろ春が訪れるよ。茉莉花は満開になるさ」、「一輪の茉莉花は摘み取れるけれど、春は摘み取れないぞ」、「茉莉花茶(ジャスミン・ティー)は香りがよくて、頭をすっきりさせるね」などと挨拶した。そこには、さりげない意味が込められていた。お互いにほほえみを交わすなかで、その意味が通じるのであった。
 「茉莉花」は老夫婦の娘の名前でもあった。本名は「莫莉花(molihua)」だが、中国語では同じ発音で、みな「茉莉花」と呼んでいた。
 そして、茉莉花は、一九八九年に天安門民主化運動に身を投じるが、投獄されて、出獄後スウェーデンに亡命していたのである。

三、天安門事件と反革命宣伝煽動罪

 茉莉花は一九五四年一月の生まれで、ペンネームは「茉莉」である(以下これを用いる)。彼女は、一九八九年に民主化運動が全国に波及していたとき、夫の傅正明(北京大学修士課程修了)とともに湖南邵陽師範専門学校の教員であった。五月一三日、天安門広場で学生たちが「われわれの双肩はまだ柔らかく、死はわれわれにとって余りにも重すぎるとはいえ、しかし、われわれは行く。行かないわけにはいかない。歴史はわれわれにこのことを求めている」と「ハンスト宣言」を発表した(1)
 湖南でもこれに呼応する動きが現れた。邵陽師範専門学校の学生も連帯してハンスト支持のデモを行おうと呼びかけ、さらに学生ハンスト連帯が結成された(専門学校は高卒以上の三年制で、師範学校は中卒以上の二年制)。
 五月二〇日、北京市では強硬路線に沿って戒厳令が敷かれた。そして戒厳部隊が北京市街に進駐しようとすると、学生や市民が立ち上がり必死に阻止した。そのためバスやトロリーバスを停車させて道路に横切るように置いたり、大通りで座り込み、あるいは寝ころび、軍用車や装甲車の前進を阻んだ。しかし、鎮圧の体制は着実に整えられた。空挺部隊、装甲車部隊、機械化部隊、防暴警察部隊など数十万の軍隊が郊外に集結し、まさに武力鎮圧の作戦が始められようとしていた。
 五月二六日、邵陽師範専門学校(以下師専と略記)では学生が市民ととものデモに出たため、茉莉は教員控え室で本を読んでいた。その時、悲憤慷慨した四人の学生が天安門広場で抗議の焼身自殺をするため北京に向かおうとした。茉莉は涙を流して必死に止めようとしたが、学生たちは「不許殺人」と書いた白布を鉢巻きにして「われわれは行く。行かないわけにはいかない。歴史はわれわれにこのことを求めている」と訴えた。既に家族や恋人への「遺書」も用意しており、不退転の覚悟であった。一人の学生はこぶしを握りしめ、涙をこらえながら、「盗賊を殺そうとしたが、回天の力がない。死処を得られれば、快哉快哉」と、戊戌六君子で気概に溢れた譚嗣同にならおうとした(2)。譚嗣同は「外国では変法をするのに血を流さない者はない。中国で変法により血を流す最初の者は譚嗣同である」と、九月二一日政変を起こし、変法の維新派が残酷に弾圧されても逃げ出さず、命を懸けて変法に邁進した湖南維新の志士だった。
 これを知り、茉莉は大急ぎで帰宅し、現金と歯ブラシを持って学生たちといっしょに長距離バスに乗り、省府の長沙に行った。そして、長沙から北京まで二十数時間の直通列車に揺られて、五月二九日、民主化運動の渦巻く北京に着いた。
 「教え子が流血の犠牲になるのを見かねて、身を張って守ろうとしたのよ。あの日から今日まで、私は後戻りせず進んできたわ!」
 茉莉はウイグル女性のようなエキゾティックな美貌で、目をキラキラ輝かせながら、このように語った。彼女はさっぱりとした気性で義侠心のある女傑である。
 二九日には、国家教育委員会が「大学入試や卒業生の配分〔社会主義体制で就職先は国家が配分〕は予定通り行う」と発表し、学生の授業復帰をうながした。しかし、茉莉は北京に着くやいなやに必死の覚悟で闘おうと決心し、広場に駆けつけた。
 そして、六月一日、鎮圧の体制が整ったことを『人民日報』が示唆した。同時に、各地の学生や教員には、学生証や職員証があれば北京から帰るための交通手段はすべて無料にするという緊急勧告が出された。ここまでして、それでも残るなら、後は自己責任だということである。事態はいよいよ緊迫してきて、まさに流血の惨事が起きようとしていた。茉莉は、徹底抗戦しようという熱血青年たちを涙ながらに必死に説得した。こうして、五人は無念の思いを抱いて北京を離れた。
 六月三日の夜、邵陽師専の教室で、茉莉は八十数人の教師と学生に向かって「私の目撃した北京の学生運動」について報告した。ところが、六月四日の未明、北京市街では酸鼻を極める殺戮が行使された。この信じられない蛮行に全世界が震撼させられたが、その一方で「暴徒でなければ、なぜ戒厳部隊は撃ち殺したんだ」、「撃ち殺されたのは与太者、略奪者、暴徒だ」など、無実の学生たちにぬれぎぬを着せるデマが流された。
 これに対して、茉莉は危険を顧みず、四日の夜に行われた追悼会で、目撃した真相を伝え、武力鎮圧の不当性を告発し、死者を追悼して献花した。また、傅正明は中国共産党を離党する声明を発表した(その後、党から除名され、学校から追われた)。
 それでも、茉莉は、五日に邵陽市の中心である人民広場で、鎮圧はまさにファシスト政府の人民に対する血まみれの虐殺で、歴史は必ず公正な裁きを下すと信じると訴えた。六日には、邵陽師専の放送室から「将来いつの日か、より立派で、より壮麗な民主の女神が建てられる」と表明した。
 これに対して、十日後の六月一四日、茉莉は、悪質な誹謗中傷で真相を知らない群衆を扇動し、「暴徒」を「英霊」として追悼することでプロレタリア独裁政権と社会主義制度を攻撃し、転覆しようとしたとして「反革命宣伝煽動罪」で逮捕され、一一月には実刑三年、政治権利剥奪一年を言い渡された。
 この判決が出た後、市民がラジオの有料リクエストで「好一朶茉莉花(一輪のジャスミン)」をリクエストしたが、それが放送されると突然止められた。また、一人の学生は収容所の高い壁の外で「好一朶茉莉花」をヴァイオリンで演奏したが、このため卒業後は僻地の職場に「分配(社会主義体制で就職は国家の計画に基づき決められる)」された。

長沙の監獄の囚人としての写真(1990年)☜ 長沙の監獄の囚人としての写真(1990年)

四、亡命

 一九九二年七月、茉莉は刑期を終えて出獄した。職を追われていたため、夫と市内で塗料やじゅうたんを扱う小さな店を開いて生計を立てた。
 世の中の風潮が変わっていた。鄧小平が、この年の一月から二月にかけて武漢、深圳、珠海、上海などの視察で発表した「南巡講話」を契機に市場経済化が強まり、利潤追求の拝金主義が広がるとともに、強者への阿諛追従と弱者への冷淡な蔑視や無関心も広がった。こうして天安門事件の犠牲者や遺族はまったく顧みられなくなり、民主化運動の参加者は社会から打ち捨てられてしまった。
 その中で、八月に、アメリカに亡命していた沈彤(元北京大学生物系学生で、北京学生対話代表団秘書長)が密かに帰国し、フランス人記者を一人連れて、長沙で茉莉にインタビューした。また、長沙の監獄の門などを撮影した。ところが、八月三一日、二人は北京で拘束され、国外に追放された。
 このため茉莉も危ないと言われ身を隠し、密かに数名の青年と長距離バスで広州に逃れ、一二月に深圳へ着き、数日後、大鵬湾から濃い霧のなかをモーターボートで香港に亡命した。これは「黄雀行動(イエローバード作戦とも呼ばれ、別に述べる)」の救援活動の一つであり、以前、香港の学生が沈彤を救出するために作り出したルートが使われた。
 その一年後、傅正明は中学生の息子を連れて同じように香港に亡命し、茉莉と合流できた。
 そして、一九九四年、スウェーデン政府は茉莉たちを亡命者として受けいれることを決定した。スウェーデンでは亡命者の受け入れ体制や待遇がいいと言われていたが、確かにそのとおりで、茉莉家族はストックホルムから北に四〇〇キロ離れた小さな町のSundsvallに住まいを得て、中国語教師として働きながら息子を大学教育まで受けさせることができた(今は卒業し就職)。そして、二〇一〇年に茉莉はスウェーデンの国籍を取得できた。

五、江沢民を追いかけて告発

 一九九六年六月下旬、江沢民国家主席(当時)はヨーロッパ六カ国を訪問したが、ノルウェーのオスロでは百名以上が集まった抗議に遭遇した。アムネスティなど民間人権組織が呼びかけ、多くの亡命チベット人が加わっていた。その時、ノルウェーのアムネスティ支部は、魏京生の妹の魏姍姍、反乱を企てた政治犯として三三年間も投獄された僧侶のポルトン・ギャツェとともに茉莉も招聘した。
 オスロはノーベル平和賞の授賞式が行われる地である。ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授賞はノルウェーで行うことにした。この精神に則り、ノーベル賞の中で、平和賞だけ、授賞の主体はスウェーデンではなく、ノルウェーとされている。その選考はノルウェー国会が任命するノルウェー・ノーベル委員会が行い、授賞式は十二月一〇日にオスロ市庁舎で行われる。そして、一九八九年のノーベル平和賞はダライ・ラマ一四世に授与された。
 このようなノルウェー訪問は、江沢民にとって気まずいものであったが、いわば自業自得であった。マスメディアでは野党国会議員から作家や知識人に至るまで様々な立場から批判した。毎日、空には白い巨大なアドバルーンが二つあげられ、「HUMAN RIGHTS IN CHINA NAW」の文字が青い空に浮かんでいた。さらに、多くの市民が集まって抗議の声をあげた。江沢民一行は移動するとき、抗議を避けるため裏門や厨房の勝手口などから密かに会場を出ことがしばしばであった。その中で一人の中国人女性が活発に活動していた。茉莉だった。彼女は、江沢民がオスロに着いてから連日抗議活動に参加し、間近に迫って、大声で訴えていた。
 「江沢民、六四(天安門事件)名誉回復! 魏京生を釈放!」
 そして、六月二八日、江沢民が講演のために議会を訪れた時、議会前は黄色いTシャツの抗議者で埋めつくされた。一行はそれからノルウェー国王の歓迎パーティに向かわなければならなかったが、動きがとれないため、やむを得ず裏門から密かに逃れた。
 厳戒態勢のノルウェー警察は黄色のTシャツを王宮から離れた公園へと追い出していたが、茉莉は江沢民に近づくために黄色のTシャツを脱ぎ、歓迎する一般市民に紛れ込んだ。これは中国の私服の警備員も気づかなかった。
 「一号車が来た!」
 群衆が叫び始めた。車列はゆっくりと公園の前を通り、停車した。江沢民は降りて、歓迎に手を振って応えた。その時、茉莉は突然、群衆から飛び出し、江沢民に近づき、大声で叫んだ。
 「江沢民、六四の名誉回復! 魏京生を釈放!」
 江沢民は彼女と視線を合わせると、一瞬ポカンとして、それからあわてて逃げようとした。しかし、彼女は追いかけ、さらに叫び続けた。紺のスーツ姿のボディガードは「騒貨、★子(★は女へんに表。読みはビャオズ)!」とののしり、叩きのめそうとした。これに対して、彼女は「中共のイヌ、六四の虐殺者」と、叫び返した。
 しかし、彼女はノルウェー警察に取り押さえられ、車に押しこまれそうになった。それでも必死に抵抗し、なおも「江沢民、六四の名誉回復! 魏京生を釈放!」と大声で叫び続けた。
 この場面は当日のトップ・ニュースとして放送された。その中で「騒貨、★子」は「ふしだらなあばずれ」のような女性へのひどい罵声だが、ニュースでは「セクシーな魅力あふれる女性」と誤訳され、彼女は一夜にして「最も魅力的な中国人女性」としてノルウェー中に知れ渡った。
 なお、彼女のハンドバッグには、カメラ、ルージュ、ハンカチ程度しかなく、テロリストではないかと神経をとがらせていたノルウェー警察も安堵したという。

六、チベットへの関心

 茉莉は、一九九四年、天安門事件五周年に際して、チベットの精神的指導者であるダライ・ラマ一四世が中国人民の自由、民主、人権を獲得するために生命を捧げた人々に敬意を表するという声明を発表したことに感銘を受けた。そして、次第に夫とともに亡命チベット人に共感し、苦難を分かちあい、さらにチベット人の運命と未来について強い関心を寄せつつ、様々な機会で意見を表明した。
 先述した江沢民のノルウェー訪問のときには、亡命チベット人と知りあうことができた。特に、ポルトン・ギャツェのえんじ色の僧衣に包まれていた無惨な傷跡を目にして、「百万翻身農奴は主人公になった」と宣伝されていたことがまったくの神話であることに気づかされた。
 そして、一九九八年にはチベット亡命政府のあるインド北部のダラムサラを訪れ、ダライ・ラマと面会し、また亡命チベット人にインタビューした。そのなかで漢人がチベット人に与えた痛苦を思い、深い慚愧の念を抱き、曹長青や薛偉たちと漢蔵委員会の創設に協力し、漢人とチベット人の相互理解を広げ、民族間の憎悪を解消することに努力し始めた。 二〇〇一年には『人権之旅』(民主亜州基金会)を出版し、また長年、天安門事件の真相究明、犠牲者の名誉回復、理性と非暴力による問題の解決に努力してきた「天安門の母たち」をダライ・ラマ一四世に伝えた。その後、ダライ・ラマ一四世は「天安門の母たち」をノーベル平和賞に推薦した。
 なお、傅正明は、チベット動乱と呼ばれる事件が起きた一九五九年以後に亡命した百名あまりのチベット人の詩歌を収集し、整理し、翻訳した。これらの詩歌は、出版される前は、ただ手書きかガリ版印刷で地下で伝えられただけで、「ひきだし文学(奥深く隠されて文学)」となっていた。しかし、彼はこの困難だが極めて意義のある仕事を成し遂げ、『詩従雪域来:西藏流亡詩人的詩情』(允晨出版、台北、二〇〇六年)として出版した。これらの作品は、チベット民族の精神史の重要な側面を表しており、ダライ・ラマ一四世は特別に序文を寄せている。

七、茉莉とオーセルの出会いと交流

 チベット女流詩人のツェリン・オーセルは(3)、長年ヒマラヤ山脈の向こう側で亡命生活を送っている同胞の境遇や、歴史の真相を知りたくて渇望していた。そして、一九九九年の冬から、彼女はラサでインターネットを始めた。当時、ネットのユーザーは少なく、ネット上の情報統制も緩やかで、海外のサイトへのアクセスも容易だった。まるで、アラビアン・ナイトでアリババが「開け、ゴマ」と叫ぶと固く閉じられていた洞窟の扉が開くようで、あっという間に宝物のような情報資源が得られたという。その中で「ダライ・ラマのいるところこそ、チベット人がいるところだ」という茉莉の言葉を目にして、オーセルは感激のあまり涙にむせんだ。
 オーセルはこの「茉莉」という名前を頭に刻み、インターネットでさらに情報を得たが、その時はまだダウンロードや印刷ができず、ひたすら手書きでノートに写した。しかも、ラサにはまだプロバイダーはなく、電話でインターネットに接続したので、月末に電話料金を払うとき驚愕した。それは給料一カ月分だった。
 またオーセルは茉莉とともに曹青長も知った。この二人により、彼女はチベット人としての民族的アイデンティティが覚醒した。このような一九九九年の冬は忘れることができないという。
 オーセルによると、漢人の大半は、たとえ政治や思想で意見を異にして、批判しあっても、「大中国」、「大一統」という民族観では共通しており、これに従ってチベットは古来から中国の一部であって、中国はその主権を有していると主張する。たとえ一党独裁を終わらせ自由や民主を実現しようと唱えるリベラル派でも、統一は至上命題で、「分裂」には反対する。チベットは「中華」という大家族の一員であるという観念が、心の奥深くまで根を下ろしている。
 チベットの問題に関心を向ける者でも、その解決のためには、迷信と愚昧に満ちたチベットに同情し、上から「援助」を与えて、「解放」すると考える。このような観点に制約されているため、チベット人の発言はまともに受けとめず、結局、民主主義は漢人のための民主主義で、民主化は漢人の専権事項となる。
 しかし、茉莉は違う。先述したとおり、茉莉は九〇年代半ばからチベットに注目し、チベットについてはチベット人が自由に考え、その将来はチベット人が自由に選択すべきだと提起していた。自由は幸福には不可欠で、それは誰からも侵されてはならない。さらに、自分自身が共産党政府に迫害されたが、その自分が一員である漢民族が少数民族を迫害していたことを痛切に悔やみ、反省している。そして、前掲『人権之旅』に加えて、茉莉は『山麓那辺是西蔵(山のかなたはチベット)』(允晨文化、台北、二〇〇七年)を出版した。

八、私と茉莉の出会い

 茉莉とオーセルが交流し始めた頃、私は日本でアメリカに亡命した詩人の黄翔について研究しており、二〇〇一年にはニューヨーク郊外の自宅を訪問してインタビューもした。そして、この研究成果を『黄翔の詩と詩想―狂飲すれど酔わぬ野獣のすがた―』としてまとめ、二〇〇三年に思潮社から出版した。これをきっかけに黄翔は私を傅正明に紹介し、傅正明から私にメールが届いた。彼は美学者で、黄翔についても研究しており、こうして交流が始まった。彼は二〇〇五年に『黒暗詩人黄翔和他的多彩世界』(Cozy House Publisher, New York)を出版した。
 この年の八月、私はストックホルムを訪れ、Sundsvallで暮らす茉莉・傅正明夫妻はバスで五時間もかけてストックホルムに来て、温かく迎えてくれた。そして、北欧のさわやかな夏空の下で、傅正明は亡命チベット人テンジン・ワンチェンの詩「雪山と雪山の人」を朗読してくれた。
 「雪山よ/もし君が人間のように立ち上がらないのなら/世界の最高峰であっても/君の醜さをはっきりとさらすだけだ/最高峰として寝ているよりも/むしろ最底辺ですくっと立つがよい/兵士よ/もしどうしても銃を撃たなければならなければ/ぼくの頭を撃ってくれ/ぼくの心臓は撃たないでくれ/ぼくの心には愛する人がいるから」
 この詩に凝縮された悲愴感、郷愁、不屈の抵抗精神などから、私は言葉に表せないほどの衝撃を受けた。ただ必死に涙をこらえ、銃弾が通り過ぎたように鋭く張りつめた空気のなかにたたずんでいた(4)
 私はそれまで「亡命」文学についてある程度は研究してきたが、現実的なものではなく、抽象的な概念にとどまっていた。しかし、傅正明の詩に感銘を受け、チベットの問題を正視するように努め、その中でオーセルと交流を始め、二〇〇六年の夏には、北京でオーセルと夫の王力雄に会うことができた(5)

九、むすび

 茉莉は、たとえ強大な権力でも、その悪や偽善と徹底的に闘う真正直な女性である。そして、このような正義感は亡命者たちによる海外民主運動にも向けられ、鋭く批判した。
 確かに、自民族の同胞にも批判を緩めない姿勢は、必ずしも好感をもって受けとられてはいない。しかし、茉莉はエドワード・サイードやハナ・アレントにならい、同胞や、自分と同じ亡命者のなかに問題があれば、それを見過ごさずに批判する。そこには、あくまでも真実を貫き通そうとする姿勢がある。
 二〇一〇年、私は亡命者の研究のためにスペインのマドリッドを訪問した。そのとき、茉莉・傅正明夫妻も合流し、マドリッド在住亡命者の王策や黄河清と語りあった。そして、ガルシア・ロルカ(スペイン内戦勃発時にファシストにより銃殺された芸術家)、「歴史的記憶の法(内戦から一九七五年までの軍事独裁政権による犠牲者の名誉を回復し、遺族を補償する法)」、「五月広場の母たち」(6)、「天安門の母たち」、「〇八憲章」など様々なテーマについて議論することができた。時に激しく論争することもあったが、お互いに異なる意見を尊重しあった。
 その中で、帰国するか、しないかということも話題になった。たとえ強靱な精神で抵抗し続けた亡命者でも、異郷で孤独や郷愁を感じるものである。それは、思想的なものだけではない。湖南の独特な辛い料理が食べたくてたまらなくときがあるなど、とても具体的に生活に根ざしている側面もある。そして、北欧の、しかもストックホルムから遠く離れたところで暮らす茉莉夫妻は、湖南料理の食材を手に入れることさえままならない。そのため、二人は豆腐からピータンまで自分たちで作る。
 また、茉莉の両親は九〇近く、遠い異郷の娘が帰国できることを今日も待ちわびている。そして、一九九二年に茉莉とともに亡命した同郷人はみな高齢の親の世話などで帰国した。しかも、彼らから特別な伝言が届けられた。
 「祖国の建設に尽力してほしい。帰国を歓迎する。ただし、政府を批判する文章を書かないことが条件である。」
 しかし、当然これでは帰るわけにはいかない。すると、その後「帰国を歓迎する。政府を批判してもよい。生活が困難な者には補助金を出す」という特別な伝言が何度も届けられた。寛大で人間性にあふれているように見えた。茉莉は驚いたが、同時に、なぜこのようによいことを公にせず、個人を通した伝言を使うのかと疑問に思った。やはり、帰順や買収の匂いがした。そのため、茉莉は中国政府への公開書簡をネットで発表した。
 「亡命者への帰国を勧めるのなら、公に行っていただきたい。個人の尊厳と権利の保障がなく、当局から与えられた『恩恵』を受けて帰国し、さらに、当局の罪悪や不正に対して沈黙することなど、私には受けいれられない。まさに屈辱、侮辱である。当局が天安門事件を解決するために誠意ある行動をとらなければ、私はこそこそと帰国することなどできない。それは市民の基本的権利を損ない、公権力をますます腐敗堕落させるだけである。」
 このように、茉莉の精神は極めて強靱である。それでも、個人が強大な権力と対峙するのには限界がある。
 「年老いた親を見舞い、面倒を見るのは、個人の選択、人間性のあり方よ」と、私は言った。これに対して、茉莉は長い間ずっと沈黙していた。目には涙があふれていた。
 「そうね。それは尊重するわ。亡命するか、その場にとどまるかなど、心に自由や尊厳や夢があれば、問題ではないわ。でも、天安門事件の受難者のことは絶対に忘れてはならないのよ。」
 このように答えた。

 そして、翌二〇一一年三月、強靱なエネルギーの秘めたジャスミンの芳香が漂ってきた。まだ、春は遠いだろうか?

【注】
(1)矢吹晋編訳『チャイナ・クライシス・重要文献』第一巻、蒼蒼社、一九八九年、二三八頁
(2)譚嗣同の他に林旭、楊鋭、劉光第、楊深秀、康広仁が処刑された。
(3)オーセルについては『殺劫―チベットの文化大革命―』(藤野彰・劉燕子訳、集広舎、二〇〇九年)参照。
(4)この詩は、その後出版された『西蔵流亡詩選』(傾向出版社、台北、二〇〇六年、一一九頁)に収録された(西蔵は中国語でチベット)。また、テンジン・ワンチェンは一九九三年にインドに亡命し、九六年にチベットに戻るが、投獄されて発狂し、一年後には行方不明となったとされている。
(5)前掲『殺劫』、及び王力雄『私の西域、君の東トルキスタン』馬場裕之訳、劉燕子監修・解説、集広舎、二〇一一年参照
(6)アルゼンチンの右翼軍事独裁政権が一九七六年から八三年にかけて三万人にもおよぶ市民を拉致・殺害する「不潔な戦争」を行なったが、消息不明の家族の消息を情報を求め、虐殺を告発するためブエノスアイレスの広場に毎週木曜日に女性たちが集まり、それが三〇年以上も続けられた。

コラムニスト
劉 燕子
中国湖南省長沙の人。1991年、留学生として来日し、大阪市立大学大学院(教育学専攻)、関西大学大学院(文学専攻)を経て、現在は関西の複数の大学で中国語を教えるかたわら中国語と日本語で執筆活動に取り組む。編著に『天安門事件から「〇八憲章」へ』(藤原書店)、邦訳書に『黄翔の詩と詩想』(思潮社)、『温故一九四二』(中国書店)、『中国低層訪談録:インタビューどん底の世界』(集広舎)、『殺劫:チベットの文化大革命』(集広舎、共訳)、『ケータイ』(桜美林大学北東アジア総合研究所)、『私の西域、君の東トルキスタン』(集広舎、監修・解説)、中国語共訳書に『家永三郎自伝』(香港商務印書館)などあり、中国語著書に『這条河、流過誰的前生与后世?』など多数。
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