八月は、日本では戦没者の追悼と平和の誓いの月である。来日してから毎年、八月を迎えるたびに、私は国連本部の壁に刻まれた「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」という言葉を思う。
ところが中国政府は、戦争の歴史を共産党の勝利として喧伝し、被害に関しては、真相究明なしにプロパガンダに利用している。しかも、中国共産党は「歴史」をことのほか重大視して、公認の歴史しか許さない。それは暴力革命で樹立した共産党政権の正統性に関わるからである。そして、異なる見解は売国的などと規制する。このため、自ずと歴史研究には限界がある。また他国には一方的に主張するだけなので、相互理解どころか、議論さえ進まない。
戦争に限らず、戦後にも混乱と惨劇に満ちた文化大革命があり、やはり重大な問題が孕まれている。共産党は一九八一年六月の「歴史決議」で、毛沢東が発動した文革は「党、国家、各民族に大きな災難である内乱をもたらした」と誤りを認めたものの、「功績第一、誤り第二」と毛の権威を守り、それ以上は議論させない。
しかし、文革の死者は一千万人以上で、日中戦争に比肩する。さらに、その史実を少しでも見れば、残酷極まりないことが明らかになる。例えばエリート校の北京師範大学附属女子中学(中国の中学校は日本の中学校と高校に相当)では、「颯爽たる勇姿」の女子紅衛兵が女性校長に屈辱的な暴行を加え、無惨な死に至らせた。しかも、これは氷山の一角で、紅衛兵の「赤い暴力」は毛沢東に鼓吹され、全国に広がり、一
九六六年八月は「赤い月」と称されているほどである。
確かに自国内の争闘で被害と加害が入り混じるが、しかし、少数民族にとっては一方的な被害だけで、内モンゴルではジェノサイドと記憶され、チベットでは「人類殺劫」と呼ばれている。つまり文革に民族問題が加重されている。だからこそ文革はタブーとされ、厳重に奥深く隠されるのである。
さらに、少数民族の人権蹂躙は今も続き、その批判に政府は耳を貸さない。このような国が日本のアジア諸国への加害責任を非難するとき、その独善的なご都合主義に重みがあるだろうか。
ところが最近、個人として、文革で行ったことの懺悔や贖罪を表明する者が次々に現れてきた。それは「あの狂った時代に戻ってはならない。歴史をきちんと認識しない限り、文革は再来する」と危惧するからである。
実際、毛沢東時代を懐かしむ者が腐敗汚職や格差拡大などで増えている。恐怖政治を知らない若者には文革時代の解放軍ファッションがカッコいいと思われている。今年は毛沢東生誕一二〇周年で『毛沢東語録』が再版され、一二月には大々的な記念祝
賀会が計画されている。習近平新体制は反腐敗、反浪費キャンペーンにかこつけてネットの言論をさらに封じ込め、また現行憲法が保障する権利実現を求める「新公民運動」を弾圧するなど、文革の色合いを強めている。
この状況に対して、弁護士の張紅兵は痛恨の体験を公表した。彼は一六歳の少年のとき、熱狂的な紅衛兵として母親を密告すると、二カ月後に母親は「現行反革命犯」として銃殺され、また、地元政府は彼を「大義、親(しん)を滅す。中学生が反革命の母と断固たる闘争」と英雄に祭りあげ、プロパガンダに利用した。まさに狂気の沙汰であるが、これが歴史の事実なのである。
これに対して、保守派(毛沢東派)は「自分が悪いことをしたのに、時代のせいにしている」などと批判している。一六歳の少年に自己責任を問うのは酷であるが、このような議論が起きること自体、タブーの扉を徐々に開けることに繋がっている。
さらに、少数民族への加害責任を自覚する漢人も現れている。そのような漢人が少数民族に贖罪すると、最初はとまどうが、次第に表情が和らぐ場面を散見できる。これらが広がれば、幾重にも封印された史実が次第に明らかになるだろう。
それはまた人間性の覚醒への歩みでもある。これは文革の再来を防ぐだけでなく、その根底にある暴力的な土壌をも変えていくことができる。
このようなわけで、歴史をめぐり議論するとすれば、自国の問題も正視できる覚醒した人たちと交わすべきだろう。しっかりと日本が戦争の歴史を平和へと転化してきた努力を理解できるからである。もちろん、言論の自由を共通基盤として真摯に議論できる場が形成されるため、日中関係を健全な方向に導く条件にもなることだろう。
第27回
鎮魂の八月に寄せて
コラムニスト